『……五十嵐。まだ付き合ってくれるか……練習』
『これで、最後に、する。……ちゃんと、告白する』

 ひょんなことからはじまった、勇との「告白練習」も、次で最後だと宣言された。

――次で最後、かあ。

 これで三度目の告白練習になる。勇は真面目で、慎重なところもあるから、入念に練習を重ねたいのだろう。
 それだけ、想いが強いということだろうが……。

――相手、どういう子なんだろうな。

 勇が好きになるぐらいなのだから、きっといい子だ。勇の気持ちにも真摯に向き合ってくれるだろうし、勇となら付き合ってもいいと思うかもしれない。
 今、勇と頻繁に下校しているのはおれだろうが、それもきっと変わっていく。
 勇はおれよりも新しくできた彼女を優先するだろう。それが正しい。おれはきっと少し離れたところからふたりの背中を見守って……。

――それが、普通、なんだよな。

 心に風が吹き抜けた気がしたが、気づかないようにしているのに。
 
『あぁ、待ってろ』

――……っ!

 勇の声が耳の奥で蘇り、目に力が入る。
 勇の目がおれを見ながら告げた言葉が、いやに心にひっかかっているのだ。
 それは、秋に感じる物悲しさから来るものかもしれない。――おれはそう思おうとしていた。
 勇が「最後の練習」を宣言してから一週間経つ。
 さすがに季節もしっかり秋めいてきた。汗よりも涼しさのほうを感じるようになっている。
 あれからも何度か勇と帰っているが、「練習」はまだはじまっていない。
 これまでの2首はすぐに作ってきたので、次の練習のための短歌も間を空けずに渡してくると思っていた。

――最後だからいつもより気合いが入っているのか……?

 おれはあくまで赤の他人なのだから、軽い気持ちで「いつはじまるんだ?」と聞こうと思えば聞けただろう。

――だが、なんか、それが、できないんだよなぁ。

 なんとなくだが、勇が寂しい顔をしそうな気がしている。
 だが、このままそわそわと待つのもじれったいのだ。
 好奇心と遠慮。両方の気持ちを天秤にかけた結果、とうとう我慢できなくなり、「なぁ、例の練習って……」と、いつもの帰り道で言いかけた。
 すると、勇は何の脈絡もなく、

「今週末、空いているか?」

 そう聞いてくる。出鼻をくじかれたおれは、反射的に答えていた。

「え、空いてるけど?」
「よかった」

 勇はかすかに笑い、話を続ける。

「試合があって。応援にきてくれないか?」
「お、おう。いいよ」

 よくわからない流れのままおれは頷く。

「勇がそんなことを言うの、はじめてじゃん。……そうだな、卒業までに一回行ってもいいかもな。試合日時と場所だけ送ってくれよ」
「あとで連絡する」
「りょーかい。あ、そうだ。ほかのやつも誘っとく? せっかくだし、みんなでさ」
「いや……五十嵐だけが、いい」

 勇は心底、そう思っているようだった。おれはその先の言葉を飲み込み、暴れ出しそうになる心臓の鼓動を感じた。

――まるで、おれが特別みたいじゃないか……。

 ほかの人と一緒でなく、おれひとりだけ。
 大勢で応援されたほうが力が出るだろうと思ったのだが、勇が望んでいるのは……。

――そんなわけない。おれは『練習』相手なんだから。

 友人としてここで行かないという選択肢はないだろう。
 おれは勇から視線を逸らした。

「まあ、そういうことなら……まぁ、行くわ」
「うん。……待ってる」

 勇の声も弾んでいるような気がした。

 


 
 勇と約束した週末。おれは市内の野球場に来ていた。
 天気は幸いにも晴れ。秋の日差しでも、自転車でたどり着くまでにはじんわりと汗をかく。
 野球応援ははるか昔、小学生のころに一度行って以来かもしれない。久々すぎて、勝手がよくわからない。
 ぼろぼろの野球場を外から眺めつつ、駐輪場に自転車を留めた。出入口を探していると、ユニフォーム姿の知った顔を見つけた。
 相手もおれに気づき、小走りにやってきた。よっ、と手をあげる。

「お、やっぱり悠馬じゃん」
「宗太じゃん。そういやおまえも野球部だったよな」
「そうだよ」

 宗太はにかりと笑った。宗太はおれのクラスメートであり、勇と同じ野球部に所属しているのだ。

「今日の試合、おまえも出場するの」
「当たり前よ! これでもレギュラーだぜ。ポジションはライト!」

 変身ヒーローのようなポーズを決める宗太に、おれも笑ってしまう。いつも通り、愉快なやつだ。

「お~、そうか。がんばれよ」
「おお! あ、そうだ。悠馬は勇の応援にきたんだろ」

 これを聞いて、苦笑いになる。

「なんでわかるんだよ」
「だっておまえら、仲いいじゃん。隣のクラスなのによく一緒に帰ってるし。もう付き合ってるレベルだわ」

 一瞬、息が詰まった。

――「付き合ってる」って。

「……やめろって、その言い方。勇にも失礼だわ」
「ごめんて」

 本人としても冗談のつもりだったのだろう、軽い謝罪があった。

「まぁ、今日は勇もずいぶん気合入ってるみたいだし、せっかくだから楽しんでけよ。オレも活躍するかもだ」
「はいはい。ちゃんと見てるからさ……」
「五十嵐!」

 少し遠くから声がかかる。おれも宗太も同時に声の方向を確認した。宗太は肩をすくめた。

「あ、噂をすれば影。じゃ、オレはそろそろいくわ。じゃあな。勇も! 早くベンチ戻れよ!」
「わかってる」

 宗太と入れ替わるように、出入口から出てきた勇がやってきた。
 高校名のロゴが入った白いユニフォーム。夏の日焼けは、まだまだ手や顔に残っている。黒いキャップをかぶった姿はいかにも精悍な高校球児の象徴のようだった。
 練習着は見ていても、今回は公式戦だ。試合前の緊張感もあるのか、いつもより勇が凛々しい。
 そんな勇が、おれを見るなり、顔をほころばせた。

「五十嵐、きてくれてありがとう」
「いいって」

 おれは声が変に裏返らないか心配しつつ、いつものように振る舞った。

「応援にきてくれ、なんて言ってきたのははじめてだったし、友達として一度ぐらいはな。じゃ、おれもスタンドのほうに行くから。おまえもがんばれよ」
「……うん」

 キャップのつばを少し下げてから走り出しかけた勇だったが。
 見送っていたおれのところまで戻ってくる。

「どうした?」

 勇は口元をぎゅっと引き締めた後に。

「今日、うまくいったら……最後の練習を、するよ」
「え……」
「告白の」

 勇は一音を区切りながら律儀に補足し、おれに真剣な視線を向けてくる。

「お、おう……」

 気圧されたおれは、詰まった返事をしてしまう。
 おれに断る気配がないことがわかったからか、勇は「……今日はがんばるよ」と呟き、駆けていく。
 背中にはエースナンバー「1」がついていた。

――どうして今日なんだ?

 今日に告白練習を指定してきた勇の意図がわからない。
 ひとり残されたおれは、疑問を抱きながら野球場の観客席へ向かったのだった。
 



 秋の地方大会の初戦である。
 わが校は特段、強豪校でもない。相手校も強豪とは聞かないので、観客席は閑散としている。
 保護者と思われる年代の人が、思い思いの席に座っている。
 おれと同じように友人の応援に来たと思われる学生もいるようだが、知り合いはいないようだった。

――いても、気まずいからいいか……。

 俺だけに応援にきてほしいといった勇の言葉がいまだに効いていた。普段なら知り合いを見つけたら一緒に応援するだろうに、そんな気にならない。
 試合の全体が見えそうな席にぽつんと座る。応援自体が少ないので、どの席でもそこそこ目立つ。選手からも判別できるだろう。
 おれが応援に慣れている様子ではなかったためか、選手の親と思われる女性が近くを通った際に声をかけてきた。

「あなたはだれの応援なの?」
「えっ……あの、角野くんです」
「あぁ、彼ね! いい子だよね。お友達?」
「そうです。きてほしいって言われたので」
「そうなの」

 女性はにこりとした。

「角野くんも喜んでいるね。今日、調子よさそうだし。うん……力こもってる」

 女性の視線に促されるようにマウンドを見れば、準備投球をしている勇がいる。おれから見ても、球は速いと思った。
 聞けば、彼女は一年生レギュラーの母親だという。
 最後はお辞儀をして別れた。
 そのタイミングで一回表がはじまった。
 勇が先発のピッチャーだった。
 友人が出ている試合というものは特別だ。勇の一球一球に、自分まで力が入る。
 バットを振られ、球が遠く飛んでしまわないか。ヒットどころか、ホームランにならないか。
 きれいにキャッチャーミットに入ってくれないか。
 おれは勇が投球フォームを取るたびに、おれも感情移入する。

「がんばれ、勇……! 打たれるなよ……!」

 気づけば、こぶしを握り締め、唸るように呟いていた。
 逆に、勇にバッターの打順が回ってきたときも力が入る。
 勇の力強いスイングが空回りしたときは、勇と同じように悔しがり、ファールで打ち取られた時には落胆した。

「勇……! がんばれ!」

 七回裏の場面だった。点数は、三対三。拮抗している。
 バッターは、勇だった。
 今試合で打順が回るのは最後だろう。祈るような気持ちで、おれはバッター席に立つ勇を見つめた。
 遠いので、表情まではわかりづらいが、緊張していないはずがない。
 ピッチャーが投げ――。そこからは一瞬だった。
 勇が大きくバットを振る。
 バットに、球が当たる。良い音が球場に鳴り響く。
 会心の一打、とはこのことだった。
 大きく弧を描いた打球は、レフト側のぎりぎりファウルラインに入らないスタンドに落ちた。

「ホームランだ……!」

 もうすっかり興奮していたおれは立ち上がっていた。点数差がないこの状態でのホームラン。七回でこれはすごい。試合を決める一打だ。

――ピッチャーだけじゃなくて、バッティングもすごいのかよ!

 勇が、拳をあげ、振りながら、悠々と塁を回っていく。

「勇ー! よかったぞー!」

 おれは勇に向かってぶんぶん手を振り返した。今いる席から勇に聞こえるかは微妙だが、やはりこの場で主張しないわけにはいかないだろう。
 すると――勇の顔がすぐにおれを見つけた。闘志にあふれた表情が、一瞬でくしゃりとほころび、はにかんだ笑みになる。
 『ありがとう』。勇の口がそう動いた。まちがいなく、おれへ眼差しを向け、おれだけにわかるサインを送っていた。

「っ……!」

 カッ、と体中が熱くなる感覚があった。心臓がばくばくと動き始める。

――こんなのは、おかしい。

 勇はかっこいいやつだ。昔からそう思っている。だが、今抱いた感情は――これまでとは色が違っていなかっただろうか。

――このまま『最後の練習』に付き合えるのか、おれは。

 練習相手のおれがときめいてしまって、どうする。




 試合は、わが校の勝利に終わった。勇のホームランが決定打となった。
 この試合のヒーローはまちがいなく勇だろう。
 本来なら、チームメイトたちともっと勝利を喜びあうところだろうが……。
『ミーティングが終われば、帰れるから少しだけ待ってくれ』。勇からスマホで連絡があったのは、試合が終わってすぐのタイミングだった。
 試合終わりにも勇にはやることがあるだろうと思いながら、球場の外で適当に立って待っていると、重たい荷物を持った勇が走ってきた。ユニフォームには砂埃がついている。着替えずにそのまま出てきたらしい。

「おつかれ。二回戦進出おめでとう」
「ああ」

 息を切らした勇の頬は、試合後の熱気のためか、まだ赤らみが残っていた。

「……五十嵐、ちょっといいか」

 勇は人目のつきにくい球場の裏までおれを連れてくると、これまでと同じように四つ折りの紙をポケットから出した。

「これが……最後の、練習」
「……おう」

 きっとそうだろうと予想していたから、おれも覚悟していた。
 勇が見ている中で、よし、と気合を入れて開く。

小気味よく響いた打球 喜びをまっすぐ伝えたい人がいる

 これを読んだ時、おれの脳裏をよぎった光景は――。

「これって……」

 ホームランを打った勇が、おれを見つけた時の、はにかんだ笑顔だった。
 口元を押さえる。無意識のうちに、何か余計なことを言わないか、心配だった。
 
「小気味よく響いた打球 喜びをまっすぐ伝えたい人がいる……」

 勇は、自分のつくった短歌を囁くように読み上げた。

「五十嵐には、伝わるか?」

 勇が同じように紙をのぞき込んでいた。……近すぎや、しないだろうか。
 おれには、「五十嵐には、伝わるか?」という言葉が、単に短歌の感想を聞くだけではないように響きだしていた。

「あ、えっ……と。いや、すごいと思ったよ!」
 
 おれは明るい声を出してみせた。

「今日、勇も大活躍していたしな! 今回みたいな試合が終わった後、この短歌をもらったら、ぐっと来ちゃうよな。これはいけるって!」
「そうかな」
「そうだよ!」

 勇は目を伏せ、おれへ確認するようにたずねてきた。

()()()()、こういうの、好きか?」
「えっ、そうだなぁ、好き、な、ほう、かも……いや、ごめん、待って、おれもなんかちょっと動揺してきたわ。あはは、なんでだろうね」

 手のひらに変な汗が出てきた。今日は、なんだか気分があがったりさがったりして、忙しい。
 おれは勇が何を言い出すのかとひやひやしていたが、勇は少しためらったような間の後に、

「わかった。参考にする」

 あっさり引いてくれたので、ほっとする。よし、とおれは声をあげた。

「おれの意見が参考になるといいけど。あ、でもこれで告白練習も最後になるな」

 最後は平常心を保つのが難しかったが、頼まれていた「練習」も終わったのだ。
 もう用はあるまい。
 いつも通りに戻るだけ――。
 不規則になりがちな胸の鼓動は聞かなかったものとする。

「おれもここまで付き合ったんだし、もう大丈夫だろ? な?」
「……そうだな。もうそろそろ本番にする」

 勇が神妙に頷いたから、おれも軽く返した。

「うんうん、がんばろうぜ」
「五十嵐、今日はきてくれて助かった」
「おうよ」

 ならおれは帰ろうかな、と言い出せるタイミングだったと思う。
 事実、おれは口にしようとしたのだが、勇は肩にかかったバッグを持ち直し、一息に言う。

「本番もよろしく頼む」
「……それ、って」

 勇がおれを見る眼差しから熱いものが伝わってくる。見られているこちらがじりじりと焼けてくるような熱だ。
 よく知っているはずの勇のことが、急にわからなくなる。勇はいつからそんな視線をおれに向けていたというのだろう。

――本番って、なんだよ。なんで、それをおれに言うんだよ。

 問いただせばいいのに、それもできない。勇の視線に負けてしまう。

「……そういうことだから。じゃあ」

 勇は静かに歩み去っていく。
 おれは手の中で少しよれた紙の字を眺めた。

小気味よく響いた打球 喜びをまっすぐ伝えたい人がいる

 几帳面な筆跡で書かれた短歌だ。
 「喜びをまっすぐ伝えたい人」――。頭の中でフレーズが何度もリフレインする。

「やめてくれよ……」

 おれはなんなのかわからない気持ちでぐちゃぐちゃに押しつぶされていた。

「この短歌、だれのことを言っているっていうんだよ……」

 夕方にさしかかった球場外は涼しい風が吹き抜けていた。