――息が詰まる。

 試合形式の練習だった。俺はひとりでマウンドに立っている。敵と味方に分かれているとはいえ、全員がチームメイト。息苦しさを感じる理由はひとつもないのに。
 首筋をいやな汗が流れていく。べたつく。
 苛立ちや焦りだけが募っていく。
 チームは勝ち星からしばらく遠ざかっていた。チーム内の雰囲気が悪いのは、気のせいではない。

――俺のせいだ。

 みんなを引っ張っていくのが役目なのに、果たせていない。卒業した先輩たちのようにチームメイトを奮起させる言葉をかけても、空回りをしてばかり。

――いや、集中しよう。

 しかし体は強張り、思ったような力が出せない。投げた球はバットに当たって跳ねていく。
 指先から力が砂となって抜けていくような感覚。キャッチャーはこの時も冷徹にストレートの指示を出すだけだ。

――もうやめてしまったほうが楽だろうな。

 そんな弱音が心から聞こえてきた。
 俺はチームのエースにはふさわしくないのでは、という思いがぐんぐんと膨らんでいく。
 いっそマウンドから降りてしまえばいい――。そんな思考まで頭によぎり、次の投球フォームを取りあぐねていた時。
 声が、聞こえた。
 勇《いさみ》、と。俺の名前を呼ぶ声が、爽やかで明るい風となって吹いてくる。
 グラウンドと校舎を仕切るフェンスの向こう側から、体操服姿の友人が全力で手を振っていた。
 えくぼまでが鮮明に見えた。

「勇! がんばれよ〜!」

 太陽よりも眩しい笑顔。純粋に自分を応援する声が、フェンスをもたやすく貫いて、俺の胸に刺さるようで。目を逸らせない。

「見惚れんなよ、勇!」

 バッターから揶揄されて、俺は慌てて姿勢を戻す。
 グローブの中にある球。その球を握る手にぎゅっと力が入った。
 もう大丈夫だ、と俺は直感した。頭がすっきりし、視界が開けていた。
 全力で投球する。
 パァン! 
 キャッチャーのミットにボールがきれいにおさまった。
 ストライク!と審判役が宣言する。

「スリーアウト、チェンジ!」

 俺はマウンドから降りながら、目で友人を探す。
 しかし、当然のように姿はもうなく。
 俺はどきどきと高鳴る心臓を押さえつけたくて、練習着の胸元を握った。
 それなのに、ちっとも収まってくれなくて。
 勇、と呼びかけた声は、草原を駆ける馬がたてる風みたいだった。彼の名前にも入っている「馬」だ。彼にぴったりだと思った。
 普段は呼ばない下の名前をひっそり呟く。

「悠馬《ゆうま》……ゆうま」

 自分の顔はさぞや赤くなっているだろう。このまま名前で呼び続けていたらおかしくなりそうだった。
 誤魔化すために野球帽を目深にかぶり直し、俺は走り出した。
 これまでにない淡い想いを抱えながら。



 短歌は五・七・五・七・七の三十一音で構成されます、と、国語教師が教壇に立って説明した。

「字あまりや字足らずのものもありますが、この三十一音が基本形。短歌という名づけは明治からのものですが、それまでは和歌と言われていました。古くは平安貴族が好きな人へ贈って、求婚したものなのです」

 春の日差しにふさわしい、穏やかな声が教室に響いていた。
 おれは話半分に聞きながら、配布された短冊に何を書くべきか、ぼんやりと考えていた。
 真正面には、友人が大きな背中を丸めて座っていた。学生服が窮屈そうだ。やつは、この数か月でまた背がぐんと伸びたらしい。
 背中に隠れて見えないが、先生から出された課題に熱心に取り組んでいるようだ。

――勇《いさみ》は真面目だよなあ。

 教科書にはない、国語教師の思い付きの課題だ。成績に反映されるわけでもないのに。
 短歌一首を作ってみましょう、と言われても、中学生にはハードだろう。作り方を教えてもらって、そうすいすいとできるわけじゃない。
 おれはひょいと手を挙げてみた。

「せんせい~、むずいっすよ」
「だからやってみるのではないですか、五十嵐くん」

 先生はしっとりと笑んだ。おれはなぜかそれだけでひるんだ。その言葉に、硬い芯のようなものを感じたからかもしれない。

「この先、みなさんはこの中学を出て、高校、大学……社会人になっていくでしょう。その中で短歌を作ることなど、ほとんどのみなさんには縁がないでしょう。だからこそ、先生はその機会を作ってみたいと思っているのですよ」

 おれは何も言えずに手をさげた。
 先生はつづけて、みんなに聞こえるように告げた。
 いつもは騒がしいクラスが、この時だけは静かに先生の話に聞き入っていた。

「だいじょうぶ、和歌みたいに小難しい言葉である必要はありません。話し言葉でいいのですよ。自分の思いを表現してみましょう。時に照れくさかったり、隠したいことだって――短歌という詩形は表現するのを手伝ってくれますよ」

 ぴくり、と正面の背中がその言葉に反応したように見えた。短く刈り込まれた頭が先生のいる教壇を向いていた。真剣に聞き入っている様子だ。
 おれは先生への抗弁をあきらめ、短冊に書く『短歌』を思案しはじめた。
 まずは、どうやって三十一音をひねり出すか。それだけしか考えられなかった。

「はい、おわりですよ」

 二十分後。先生の声とともに短歌が回収された。先生が集まった短冊に目を通していく。
 おれは待ち時間の合間に前の背中をつつき、振り返った背中にこっそり聞いた。

「勇《いさみ》、どうだった? 短歌ってむずかしくね? おれは全然だめだったわ」
「うん、むずかしかったな……」

勇は目を伏せて小さく言った。
 角野勇《すみのいさみ》はおれと仲のいい友人だった。

「言いたいことを三十一文字にまとめるって、自分の言いたいことがわからなければできないんだろうな」
「勇には短歌で言いたいことが自分でわかったのか?」

 勇はおれをちらりと見ると、まぁ、と口を濁す。
 へぇ、と素直に感心した。

「勇はさ、短歌でなにを言いたかったわけ? みんなにしゃべらないからさ、こっそり教えろよ」
「それは……言えない」
「なんで?」
「俺のひとりよがりな気持ちだから。伝わらなくてもいいんだ」
「そんなもんかなぁ」

 その時、先生がふたたび教壇に戻ってきた。おれたちは私語をやめ、お行儀よく結果発表を待つ。
 先生は微笑みながらみんなの顔を見回した。

「先生がピックアップした短歌の中から一番よかったものを選んでみましょう。詠んだ人の名前は伏せますからね」

 先生が五首の短歌を黒板に書きだしていく。
 どれが一番よいと思ったか。クラス三十人がそれぞれ挙手していく。
 だれも短歌なんて作ったことがないはずだから、よいものなんてよくわかりやしない。
 現におれのくちゃくちゃな短歌なんて、候補にすらあがらなかった。
 だが、候補作の五首の中で、票は自然と一首に集中したのだ。
 この結果を見た国語教師は「そうですね」と頷いた。

「フェンスをつらぬいた声 グローブにある球にも力が入る――実は先生も、この短歌が一番好きかもしれません。詠み手の素朴な感情がとても良いです。この人は、声の主の応援で力が出てきたのですね。お友達でしょうか。そういう気持ち、大事にしてほしいと思います」

 先生はコメントし、だれかもわからない優勝者へ拍手が送られた。
 おれもみんなと同じように拍手していた。おれも優勝した短歌に票を入れた。
 なんとなくだが、いい短歌なのが伝わった。
 まして、それ以上に。

――フェンスをつらぬいた声、かぁ……。

 この短歌にはおれにも思うところがあったのだ。
 授業の後、おれはこそこそと正面に座る友人の席へ回り込んだ。

「なあ、勇《いさみ》。あの短歌、おまえのだろ?」
「え……」

 友人は石のように固まっている。
 みんなのつくった短歌はどれも名前を伏せられていた。おれが当てて見せたことにびっくりしたのだろう。
 おれは得意げに説明した。

「だって、「グローブ」に「球」というと野球部が思い浮かぶだろー。それに、先生も解説しながらちらっと勇のほうを見ていたじゃん」

 勇は野球部なのだ。しかも花形のピッチャーである。クラスには何人か野球部がいるが、我がクラスの野球部代表と言われればみんな勇を思い浮かべるだろう。

「よく見ているな」
「いや、それだけじゃないぞ」

 おれはとっておきの秘密を明かすように、告げた。

「フェンスをつらぬいた声の持ち主って――おれのことだろ」

 びく、と勇の体が面白いように震えた。息をのみ、おれを見つめたまま動かなくなる。
 おれはとても愉快な気持ちになった。
 真面目な優等生であり、野球部のエース。普段から喋る友人とはいえ、普段はまったく隙のないような勇の弱点を見つけた気分になったからだ。

「いやあ、だって、この間、グラウンドにいたおまえに声をかけたし、そうかなあって思ったんだ」

 休日の部活の休憩中、ぷらぷら歩いていたら、グラウンドに立っていた勇を見つけ、おーい、と声をあげたのだ。
 その時の勇も、面白いぐらいに固まっていたっけ。
 おれはこそこそ声をひそめた。

「あ、だが、安心しとけ。ほかのやつには言わないからさ。おまえだってからかわれるのは恥ずかしいだろうし」
「あ、いや、えっと……」

 勇はうろたえている。おれの気はますます大きくなる。勇の背中をばんばん叩いた。

「いやあ、おれは短歌に詠んでもらえてうれしいな! おまえもさ、おれのこと、ダチとして大事に思っているってことだもんな。光栄だよ、うん」

 ははは、とおれは笑う。

「先生にもほめられていたし、クラスの一番になるのも納得したよ。おれ、ちゃんとおまえの短歌に票を入れたしな」
「……五十嵐も」

 勇はおれの様子をうかがうように小さく聞いてきた。中学生にしては大人びた表情を浮かべることが多い勇にしては珍しく、子供の内緒話をするような仕草だ。

「俺のがいいって思ったのか……?」
「ああ、まあな。おまえのだって確信もしてたし」

 そういや、おれの真正面にいては、おれがどの一首に挙手したのか、勇からは見えなかっただろう、と気づく。
 勇は顔を伏せて、机の上でゆっくりと拳を握る。

「それなら……いいよ。うん……」
「おれなんか、全然短歌の形にならなかったもん。おまえはすげーよ。才能あるんじゃね?」
「そうかな」

 めちゃくちゃほめたのに、勇は自信なさそうなままだ。
 おれは思いつくままに勇に言う。

「ああ。たとえばさ、平安貴族みたく好きな子に贈ってみたらさ、案外、勇ならいけるんじゃね」
「そんなに簡単じゃないだろ」

 おれが励ますようにいえば、勇はやっと少し顔をあげ、口角をあげた。

――ま、いくら友達でも、恥ずかしいものは恥ずかしいもんな。

 勇がおおげさに反応するあまり、ちょっとばかりからかいすぎてしまった。やりすぎはよくない。
 おれも少しやってみてわかったが、短歌は、自分の心のうちをさらけだすことでもある。人の大事なものは、ちゃんと尊重すべきなのだ。
 だから、とおれが高校生となった今、改めて思う。

――おれは、勇からの気持ちに向き合わなくちゃいけない……。

 そう、勇とおれは同じ高校に進学し、クラスが分かれても一緒に帰るぐらいには仲の良い友人同士だった。少なくとも、おれはこの瞬間まで信じていたのだ。
 それなのに。
 至近距離で見つめ合う顔と顔。苦しげな勇《いさみ》の顔が、真正面にあって。
 だれも通らない校舎裏の一角だった。
 勇はもう、迷っていなかった。ためらいなく、「いつもの距離」を踏み越えて。
 おれの背が、冷たい校舎の壁にぶつかる。もう、逃げ場がなかった。

「五十嵐《いがらし》。俺の「好き」というのは――『こういうこと』をしたい、ということなんだが」

 唇に、勇の呼気が当たる。それほどに、紙一重となった距離感。

「本当に――わかってるのか?」

 受け入れてほしい、と懇願するような――初めて会った中学時代の高い声とは変わってしまった、低い囁き声。けれど、それは緊張に震えてもいて……。
 頭がくらくらするほどの情熱が、そこにはあった。
 のぼせてしまうほどに、体が熱い。心臓がどきどきとして、痛いほどだった。
 予兆はいくらでもあったのだ。勇は気づかせようとしていたし、隠さなかった。考えないようにしていたのは、おれの方だった。
 そうして、ここまでこじれてしまったのだと痛感する。
 ――『だから』、おれ、五十嵐悠馬《いがらしゆうま》は選ぶ必要がある。勇からの「友情ではない気持ち」への答えを。