――目をうっすら開けると、真っ白な天井と消毒の匂い、そして左足の鋭い痛みが同時に襲ってきた。
 ここは病院……?

 足をさすろうとした瞬間、ネックレスの鈴がチリンと鳴った。
 彼女はそれに反応し、目を潤ませながら立ち上がって、僕の前に顔を寄せた。

「青空くん……、目が覚めたの?」

 安堵で目をうるませた美心を見て、僕の胸は締めつけられた。
 笑おうとしても、痛みと不安で口元はわずかに動くだけ。
 
「あーー……うん、ここは?」
「病院だよ。左足、骨折してたみたい」
「そっか。それより、美心がケガをしなくて良かったよ」

 彼女は目線を下に滑らせると、一瞬にして表情がこわばった。

「そっ……、その鈴……」

 彼女の手が止まり、瞳が大きく見開かれた。
 
「まさか……」

 その瞳に、言葉を飲み込む。
 祈るように目を伏せた。
 
 あと四日……。そう思った矢先だったのに。
 
 彼女は左手で口を押さえて、黒目を左右させた。 
  
「おな……じ……。世界でたった一つしかない鈴。……忘れていない」

 僕は揺れている視線を落とした。

「にっ、似たものなんて、世間にありふれてると思う」

 誤魔化そうと思っていた。
 でも、彼女は首を振る。
 
「ううん……。これは、近所の雑貨屋さんで買ったの。同じ物は、この世に一つもないって言ってた」

 多分、僕がさっき鈴を買った店だ。
 彼女も十二年前に買っている。
 
「たまたま似てただけじゃ、ないかな……」

 気づくのは、もう時間の問題に。
 
「鈴の角の塗装が剥げてる。これは、袋から出した後に、爪で引っ掻いちゃったから」

 彼女は震えた手で傷に指をさす。
 
「ぐっ、偶然だよ……。傷なんて簡単に出来ちゃうし」

 僕は掛け布団を力強く握りしめた。
  
「そうは思えない。だって、同じ模様で、同じ場所に傷があるから」

 心を見透かすような、彼女の眼差し。
 僕は全身の力がスッと奪われていく。――もう、終わりかもしれない。
 
「もしかして、青空くん……クゥちゃん……なの?」

 まるで焦点に合わせるかのように、彼女の瞳はまっすぐ僕へ向ける。
 それは、最も恐れていた事態。

 静かな病室に、僕の儚い願いは置いていかれた。

「そう……だよ」

 声を小さく絞り出した後、美心の瞳がわずかに揺れた。
 
 遠くから聞こえる足音が、部屋に差し込み、緊張感を漂わせている。
 
「僕は、美心にクゥと名付けてもらったぬいぐるみだよ」

 隠しきれない。
 焦りと不安が入り混じり、言葉が喉の奥で震える。

 そっと目を閉じ、深い溜息をついた。
 
「バレたなら仕方ない。全てを話すよ」

 痛みを我慢したまま上半身を起こして、彼女に体を向けた。

「いまから大事な話がある。もしかしたら、びっくりするかもしれないけど、最後まで耳を傾けてほしい」

 ついに、この時がきた。
 最後は静かに消えようと思っていたのに。

「……大事な、話って」

 彼女はかすれた声で、スカートをぎゅっと握りしめた。 
 
「ぬいぐるみは三十日間だけ人間になれる。その時間で恩返しに来たんだ」
「……それ、どういう意味?」

 彼女は黒目を凝縮させた。
 僕はふっとため息を漏らし、遠い目で過去を振り返る。

「美心は、道端で僕を拾ってくれたよね」
「う、うん……」
「あの時は心が荒んでいた。でも、美心が助けてくれて、いつしか感情が生まれていたんだ」

 差し出された小さな手は、僕の希望。
 愛くるしい眼差しで、返事一つしない僕に、一生懸命話しかけていた。
 
「人間になってからは、美心が幸せになれるように願い続けた」

 でも、実際人間になったら、戸惑うことの方が多かった。
 今日まで幸せでいられたのは、彼女のおかげ。
 
 彼女は腕を震わせていた。
 その揺れが、掛け布団越しに伝わるくらい。

「それが、三十日間……なの?」

 僕は軽く息を漏らし、こくんと頷く。

「でも、もう一つ大事な話がある。……後ろ、向いてくれる?」
「どうして?」

 彼女の声は感情的になっていた。
 眼差しに、きっと何かを察したのだろう。
 でも、僕は力強い目を向けた。
 
「いいから」
  
 チェストに置いてあるカバンから、小さな紙袋を二つ取り出した。
 その中身を手に乗せて、チェーンに赤いハート型の鈴を滑らせていき、美心の首にかけた。

「これは?」

 彼女はネックレスを指でつまんで、鈴を見た。

「誕生日プレゼント」
「でも、誕生日はまだなのに……」

 呟いている最中、ビクッと体を揺らし、振り向こうとした。
 僕はすかさず両肩を掴んで、止める。

「条件が満たなくて、誕生日には間に合わなくなった」
「っ!!」

 ゆっくり手を離す。
 彼女は両手で口元を覆った。
 どんな表情をしているか想像つくから、僕の声は徐々に細くなっていく。

「いままで、ありがとう」
「いやっ……」

 彼女は俯いたまま、首を大きく振った。

「もう二度と温もりに触れられないと思っていたけど、美心のおかげでもっと人間でいたかった」

 その背中は小さく震えている。
 いまにも壊れてしまいそうなくらい。
 
「僕のことは心配しないで平気。ぬいぐるみに戻っても、ずっと傍にいるよ」

 霞んでいく指先に最後の力を込めたまま、目線を落とした。
 
「僕は、美心のことが、世界で一番大好きだよ」

 手の温もりが消え、糸の縫い目が浮かび上がる。
 痛みはない。ただ、静かな別れの気配が広がった。
 
 人間に、なりたかった。
 
「冗談……でしょ……?」

 無常にも、エアコンの音が室内に鳴り響く。
 
「人間がぬいぐるみになるわけないじゃない。その鈴は、どこかで拾ったものでしょ。私を驚かそうと思って、そう言ってるんだ……」

 彼女は不安顔で振り返る。
 ぬいぐるみの僕を見て、言葉を詰まらせていた。
 
 ベッドの上に残されているのは、人間界に置き去りにされてしまった人間の心。
 彼女は、現実が受け止めきれないのか、イスから立ち上がった。

「ねぇ、青空くん……。どこかに隠れているんでしょ?」

 人間の僕を、部屋中を必死に探した。
 もう見つからない。
 チェストの上のカバンも消えた。
 
「青空くん……、本当にクゥちゃんだったの? 赤い鈴がついてるってことは、そういう……ことだよね」

 瞳には、大量の雫が溜まっている。
 指で拭ってあげたかったけど、もうできない。

「ねぇ、クゥちゃん……。人間の青空くんに、もう二度と会えないの?」

 ごめん、もう直接守れないんだ。
 突然の別れだったから、覚悟ができなかったよね。
 
「うそ……。整理がつかない。私、青空くんに感謝してるんだよ」

 ありがとう。
 僕も美心に感謝してる。
 
「佐知と仲直り出来たし、心を開けるようになった。これも、全部青空くんのおかげなんだよ」

 それは違う。
 美心が自分の力で生まれ変わったんだよ。
 佐知ちゃんや賢ちゃんがいるから、もう大丈夫だよ。

 彼女はクゥの体を持ち上げた。
 無音の部屋。チリン、と鈴の音が響いた。
 
「約束したじゃない、映画に行こうって。昨日からずっと楽しみにしてたんだよ」
 
 僕の力では、もう二度と体を動かすことが出来ない。
 彼女は声を詰まらせている。

「……今日は、いっぱいおしゃれしてきたんだから」
 
 神様は言っていた。
 人間は幸せだけじゃなく、不幸も一緒に訪れるものなんだよ、と。

「こんなに急にさよならなんて、出来ない」

 僕たちはいま、それを味わっている最中なのかもしれない。
 
 彼女はクゥとベッドを一緒に力強く掴んだ。
 嗚咽混じりに叫ぶ。

「いやだ……っ、行かないで……っ! 青空くんってば……」

 その影響で僕の体は揺れ、首の鈴の音がチリンと鳴った。 
 彼女は床にペタンと腰を落とす。
 
「返事をしてよ……、お願い……」
 
 ……でも、返事はもう戻らない。
 動かないクゥが、そこにいる限り。
 
 クーラーの風が、彼女の心を冷やしているようだった。
 そんな背中が、僕の存在をこの世界に繋ぎとめているように見える。

 糸はもう切れかけていた。
 
 けれど、彼女のぬくもりだけが、かろうじて僕をこの世界に繋ぎ止めていた。