――二十二時。夜の神社。
暗闇の中、虫の音が波のように寄せては返していた。
石畳の階段を踏みしめていると、時おり草木の香りが鼻をくすぐる。
もうお別れが近い。
心に寂しさの風が吹き込んでくる。
賽銭箱の前で、そっと両手を合わせた。
僕に残された時間は、あと八日間。
やりたいことと、やらなきゃいけないことの間で、揺れ動いている気持ち。
「神様、ごめんなさい。心の準備なんて、できませんでした」
瞳からこぼれ落ちた一粒の雫が、頬を伝っていく。
みんなと一緒に過ごす時間を大切にしようとしても、足を引っ張る現実が、津波のように押し寄せてくる。
「人間に……なりたい……」
心に蓋をすることに、限界を迎えていた。
ポケットの中には、美心が僕に渡そうとしてくれた映画チケット。
美心は、冷たい態度を取った僕と、仲直りしようとしている。
それだけじゃない。
佐知ちゃんや賢ちゃんも、眩しいほどキレイな心を持っていて、宝物のような存在に。
「クゥ、聞こえるかい? 私の声が」
頭の中で、誰かの声が聞こえた。
見上げると、青白い炎に包まれている八十代くらいの老人が浮かび上がっている――神様だ。
「かみ、さま……」
最後に会ったのは、僕が人間の姿になった初日。
美心に傘を差し出した後、この神社へ挨拶に来た。
「君が人間になってから今日まで、ずっと見守っていたよ」
「ありがとうございます」
僕は手の甲で頬の雫を拭って、頭を下げた。
「さっき、『人間になりたい』と言っていたね。それは、どうして?」
「僕には、夢があるからです」
頭の中には、美心……賢ちゃん、それに佐知ちゃんの姿が思い描かれている。
「ほぅ、夢? 君の夢とは、どんなものか教えてくれないかな」
神様は、優しい口調で問う。
夢といっても、どうせ叶えられるはずがない。
「僕は人間になって、人の縁の素晴らしさを知りました。一人ぼっちだった時は、正直、やっていけるか不安だったんです」
神様は目尻を細め、優しく頷く。
「でも、救世主が現れました。いいことと嫌なことは隣り合わせだったけど、気付いたら沢山の笑顔に包まれていたんです」
今日までの日々が一本の映画のように、脳裏を駆け巡っていた。
「次第に、人の力になってみたいと思いました。人の縁を繋ぐ役割を、僕が担いたいと」
「それで?」
「困った人を助け、時に励まし、支え合いながら、縁の素晴らしさをこの手で広めていきたい。……それが、僕の夢なんです」
絶望だったあの頃には想像できなかった夢が、美心たちと出会って膨らんでいった。
人との出会いが、僕に与えてくれた幸せの証。
「クゥ」
「はい!」
神様が突然低い声で呼んだ。
僕はすかさず背筋をシュッと正す。
「人間は幸せだけじゃない。不幸も一緒に訪れるものだ」
「見てきました。人を通じて……」
人間界に来てから、困難に立ち向かい続けていた。
でも、それはきっと、人生の中のほんのわずかだろう。
「楽しいことばかりじゃない。この先は、もっと厳しい試練が待ち受けているだろう」
「わかってます。でも、その度に、人と力を合わせて乗り越えてきました」
僕には心強い仲間がいる。
どんなに辛い時でも、みんなが傍で支えてくれた。
だから、乗り越えてこれたんだ。
「それでも、人間になりたいのか?」
「この想いは誰にも負けません。僕は、支えてくれた仲間たちと、一緒に幸せになりたいんです」
みんなにさよならなんて、言いたくない。
愛する人を、この目で見続けていきたい。
この耳で声を聞きたい。
この口で想いを伝えたい。
この体で、大好きなあの人たちと、同じ空間で時を刻みたい。
静寂に包まれている夜の神社に、僕の声は溶けていった。
神様はすっと息を吸い、僕をまっすぐに見つめる。
「クゥ。君は人間という欲望に立ち向かった。多くのぬいぐるみたちが挫折した山に、君は襟を正して立ち向かおうとしている」
そのひとことひとことに、俯いたまま耳をすます。
「葛藤と犠牲。どれだけ悩ましいことか、私にはよくわかっている」
これがぬいぐるみの運命だと受け入れるしかなかった。
だからこそ、少し強くなれたのかもしれない。
「正直辛かったけど、僕は消えるその瞬間まで、彼女には笑っていて欲しいんです。その笑顔を、この目に焼き付かせたいから」
涙を堪えるために、息を呑んだ。
僕がいなくなったら、彼女はきっと悲しむ。
なにも知らない分、これからも同じような日々を思い描いているだろうし。
でも、もう心配ない。
佐知ちゃんや、賢ちゃん。
支えてくれる存在が、僕の代わりに力になってくれる。
心の誓いとは裏腹に、流れ落ちていく涙。
月夜に照らされ、光り輝いている。
きっといつか、この涙も美しい思い出に変わってくれるだろう。
「……合格だ」
夜風が、僕の頬をすり抜ける。
一瞬聞き間違えかと思い、ゆっくりと顔を上げた。
しかし、神様の瞳は、凛とした決意を帯びている。
「えっ、合格……って?」
目を丸くした僕に、神様は眉を下げて微笑んだ。
「私は、君を”特例”として扱うことを決めた」
「と、特例って、まさか……」
口を軽く開け、神様を見つめていると、彼はまぶたを伏せてゆっくりと頷いた。
僕の瞳の中の小さな光に、希望の炎が静かに燃え広がっていく。
多くのぬいぐるみが憧れるあの”特例”に、僕が選ばれるなんて。
「君を人間にしてあげよう。それが、君の夢であり、人々の希望でもある」
呼吸が乱れ、次第に胸が熱くなっていく。
「最終日の八日後に、ここへ来なさい。君が新しいスタートを切るところは、この場所だ」
信じられなくて、自分の頬を強くつねった。
痛い、ということは――夢じゃない!
「あっ、ありがとうございます! 夢……じゃないよね?」
半信半疑な気持ちと、嬉しい気持ちに挟まれていた。
でも、神様の目を見ているうちに現実味帯びてくると、ワクワクして体が浮きそうに――。
「あぁ。……ただし、条件が一つだけある」
そんな僕に、灸をすえるかのように、神様はおっとりとした声で言った。
急展開に、胸がドキっとする。
「条件とは?」
瞳を揺らしたまま拳を握っていると、彼はふっと笑う。
「いやぁ、たいしたことじゃない。最終日まで、君が”あれ”だと知られないようにして欲しい。ただ、それだけだ」
その言葉が夜気の中に溶け、鼓動が一瞬止まった。
……あの時と同じ。
初めてこの世界に来た時に言い渡された、絶対に破れない掟。
安堵と緊張が同時に胸に広がる。
「一度もバレそうになったことはないし、それくらいなら守れそうです」
「そうかそうか。じゃあ、残り八日間頑張りたまえ」
神様は小さく頷くと、静かに消えた。
残されたのは、境内を包む虫の音と、鼓動の音。
次第に神様の言葉がジワジワと蘇ってくると、僕の体は小刻みに震え始めた。
「僕が、人間に……。うそだろ」
よろめきながら、街を見渡せる神社の淵に立った。
「あの、特例になれるなんて……」
眼下に夜の街を映し、鼻頭を熱くさせる。
深呼吸して、勢いよく拳を振り上げた。
「よっしゃああああ!! 僕は人間になれる!」
夜風に混ざって、声が街に響いた。
人間になることを、ほとんど諦めていたのに。
街は僕を歓迎してくれているかのように、輝きを放っている。
「はぁっ、はぁっ……。こんな僕でも、夢を見る資格があったなんて……」
頬を濡らしたまま、街の隅から隅まで見渡した。
あの”特例”が僕に言い伝えられたなんて。
現実的に考えられなかったのに。
人間界へ来てから、ぬいぐるみに戻る日のことばかり考えていた。
もう、悩まなくていい。
人間になったらバレーの試合に出る。
賢ちゃんたちと青春する。
冗談を言い合える友達を、もっといっぱい作る。
――そして、美心にこの想いを伝えたい。
明日が待ち遠しい。
早く美心と仲直りして、笑顔を取り戻さなきゃ。



