――僕は購買前でチラシを配り終えると、一人で理科室に向かった。
 廊下の笑い声を扉で遮り、理科室の薬品臭が鼻をくすぐる。
 窓に差し込む日差しが、冷えた体をそっと撫でた。

 窓を開け、窓枠に手をかけて空を眺める。
 真っ青な空に浮かぶ入道雲は、僕の悩みを小さく見せていた。

 いま本当に幸せなのだろうか。
 大好きな人たちから距離を置いていたのに、胸の中に残されているのは、しこりのような後悔。
 正解だと思っていたことが、苦い結果を生み出してしまうなんて……。

 ぼんやりと空を眺めていると、外から蜂が侵入し、僕に向かって飛んできた。
 慌てて首元を手で追い払っていると、ネックレスのチェーンに指が引っかかる。

 手を引くと、ネックレスはチリンと鈴の音を立て、窓の外へと滑り落ちていく。
 すかさず窓枠に手をかけて、下を覗き込んだ。

「嘘、でしょ……」

 額が氷のように冷たくなった。
 ネックレスが落ちたのは、草木が茂る場所だったから。

 慌てて理科室を飛び出した。
 一段飛ばしで階段を駆け下り、ネックレスが落ちたと思われる辺りへ向かう。

「この辺に、落ちたような」

 額に汗をにじませ、枝をかきわけて探した。

「ない……、ない……、ない!!」

 緊張で、心臓が激しく鼓動する。
 あの赤い鈴付きネックレスは、美心からのプレゼント。
 クゥをごみ集積所で拾った時、彼女が変形した小さな鈴に気づいて、貯めたおこずかいで買ってくれたもの。

 彼女に嬉しいことがあった日は、チリンと鳴らして僕に報告。
 鈴が触る日は、僕もワクワクしていた。
 それが、生きがいだったから。

 キーンコーンカーンコーン
 五時間目の授業開始の本鈴が鳴った。

 これだけ探しても、見つからない。
 授業に行かなければ、みんなに心配される。
 でも、ここで手を止めたら、ずっと見つからない気がしていた。
  
 絶望の淵に立たされ、探していると、隣から草木をかき分ける音がした。
 目を向けると、そこには賢ちゃんがしゃがんだままツツジの葉を手で除けて、中を覗き込んでいる。

「賢ちゃん、どうして、ここへ……」

 声を詰まらせた。
 何を探しているかわからないものを、一緒に探そうとしている。 
 
「教室から、お前がなにかを探してるところを見かけたから、急いで来たの。で、なに落としたの?」
「……」
「もしかして、言えない感じ?」

 僕の手は一瞬止まる。
 彼の時間を犠牲にしたくないから。
 
「でも、俺は探すよ。その大切な何かが見つかるまでね」

 彼は僕の顔を見ずに、手を動かし続けた。 

「賢ちゃん……」

 喉が熱くなり、声が詰まる。
 僕がネックレスを落として、探しているだけなのに、背中一つを見ただけで大切な物だと気づくなんて。

 彼は草木をかき分けながら探している。
 その大事ななにかが、わからないまま。
  
「見つかるまで協力するよ。さっさと見つけようぜ」
「でも、もう授業が始まってるよ。賢ちゃんだけでも戻った方がいいよ」

 本鈴が鳴ってから、どれくらい経ったのかわからない。
 次第に草木の香りが、緊張感を漂わせていた。
 僕は彼の時間を犠牲にしていることが引っかる。
 
「なに言ってんの? 見つかるまで諦めないよ」
「でも……」
「誰かに持って行かれると困るだろ?」

 なんだろ、この気持ち。
 嫌われても構わないはずなのに、離れたいほど人間が愛おしくなる。
 
「困った時は相談しないと。俺らは遠慮する仲じゃねぇし」

 彼は白い歯をキラリとこっちに向けてきた。
  
「この前さ、おまえは『自分が惨めだと落ち込むことなんてないよね』って言ってきたけど……。俺、あるし」
「えっ」

 ハッとした目を向けた。
 自分だけの問題だと思っていたから。
 
「親の再婚で放ったらかし。俺の心を置き去りにしていたことも気づかずにね」
「賢ちゃん……」
「あの時は透明人間だと思ってたよ。『賢はもう大きいから大丈夫だ』って、ひでぇ話」

 彼は手を止め、当時を思い返すように軽くまぶたを伏せた。
 その瞳が寂しそうに見えて、胸の綿がしぼんでいくようだった。

「でもさ、思ったんだよね。楽しいことを犠牲にしてまで、悩む必要があるのかなってね」

 彼は僕の目を見つめ、ふっと笑った。

「雨が止むのを待つより、濡れて笑った方が、自分には合ってるんじゃないかってことに気づいたんだよね」

 僕は瞳を揺らした。
 
「いまなんて、俺が親代わりみたいなもんよ。妹と弟を押し付けて、あいつら二人で旅行に行っちゃうくらいだからさ」

 人の悩みは見えない。
 だから、賢ちゃんが幸せそうに見えていたのかな。
 
「意外と苦労しているんだね」
「まぁな。おまえもさ、なにがあったかわかんねぇけど、美心の誕生日、楽しみにしてたんじゃないの?」

 気付いてしまった。
 人間になった時に、美心を笑顔いっぱいにしてあげようと思っていたことを。
 誕生日には、最高に仲の良い友達に囲まれ、幸せな時間を過ごしてもらうつもりだった。
 
 空を見上げた。
 雲の隙間から覗かせた太陽が、僕の影をはっきりと作り出し、心に一筋の光を与えてくれた。
 
「賢ちゃん、もう戻ろう」

 僕は立ち上がって、呟いた。

「え、探さなくていいの?」

 驚いた目を向けられたが、首を横に振った。

「授業始まってるから、後でまた探しに来るよ」
「でも、お前の大切なものじゃ……」
「きっと見つかる。だって、雨に濡れながら笑いたいから」 

 拳をギュッと握った。
 僕は強くならなければいけない。 

 ネックレスは必ず自分の手で見つける。
 だから、もう他の人を傷つけないようにしよう。
 
「あ! もしかして、これか? おまえが探してるやつって」

 彼は、足元からなにかを取って、目の前に掲げた。――それは、探していたネックレスだった。

「そう、それ! 僕の探してたネックレス」

 僕は目を丸くさせ、笑顔になる。
 
「良かった。ほら、もう二度と落とすなよ」

 彼はネックレスを僕の手のひらに滑らせる。
 僕はそれを両手で包み込み、そっと額に当てた。
 
「賢ちゃん、ありがとう」

 戻ってきてくれてありがとう、と心の中で願う。
 
「そんなに大事なものだったんだな」
「うん……。たった一つだけ、残したいもの」

 美心からもらった、名前の次に大切なもの。
  
「賢ちゃん。人間って、結構欲張りなんだね」

 ふっと息を漏らし、軽く俯いた。
 美心、そして、賢ちゃんや佐知ちゃんに、部活仲間。
 人間界に来てから、かけがえのない人や、胸に刻まれる思い出が増えた。 
 
 小さく肩を丸めていると、賢ちゃんは力強い手で肩を叩いた。

「あぁ、そうだよ。だから欲しいものが手に入ったら、何倍も何十倍も嬉しくなる」

 その言葉が、いま痛いほど身に沁みている。
 
「積み重ねてきた苦労は、成長の証。いい思い出も嫌な思い出も、振り返れば、全部大切な思い出に変わっていくよ」

 彼の優しい言葉が、傷ついた心を撫でていく。
 人間界に来て後悔してない。
 だから、この瞬間から気持ちを切り替えて行こう。

 彼は腕時計を見ると、ビクッと肩を揺らした。
  
「やっべぇ〜……。もうこんな時間。ほら、授業に行くぞ! ……俺ら、ぜってぇ怒られるけどな」

 まるで太陽のような笑みを浮かべて、歩き出した。
 ネックレスをぎゅっと握りしめ、彼の広い背中を見送った。

 人間にならなければ良かった。……なんて、もう思わない。
 全部素敵な思い出になった。