――二十一時。夜の神社。
虫の音が辺りを包み込んでいる。
小雨がぱらつき、髪をしっとり濡らす。
僕はいつものように賽銭箱の前に立ち、そっと手を合わせた。
ここへ来る時間帯が毎日違うのは、街に出て人間観察をしたり、新しい情報を学んでいるから。
でも、そんなことしなければよかった。
人の笑顔を見るのが、いまは辛い。
残り十日。
願いが叶って幸せなはずなのに、残りの時間はどう過ごせばいいかわからない。
「神様。僕はいま幸せです。このままずっと続けばいいのに」
唇をきゅっと結んで、俯いた。
「……でも、叶わないよね」
弱気になっていた。
美心のことが好きでも、必ずお別れしなければならない。
それに、みんなとお別れすることが怖いし、欲張りになっていくばかり。
「ぬいぐるみに……戻りたくない」
いままで誰にも吐き出せなかった本音を口に出した。
どうすれば”特例”になれるのだろう。
ぬいぐるみに戻れば、もう二度と動けなくなる。
最悪、美心がいなくなるのを、ただ見届けるしかない。
両手の震えが止まらなくなった。
こんなひと時さえも、大事な時間は奪われていく。
「うわああああっっっ!!」
声がひっくり返るくらい叫んでみても、満たされるものはない。
自分というぬいぐるみは、無力だから。
でも、胸の内をどこかで吐き出さなければ、おかしくなってしまいそうだった。
「青空くん! 一体、どうしたの?」
美心の、声。
人間界が恋しいあまり、ついに幻聴まで。
風が前髪を揺らし、額を撫でる。
遠くから足音が近づいてきて、美心は僕の目の前に立った。――幻聴じゃ、ない。
「もしかして、泣いてるの?」
美心は心配そうに僕の顔を覗き込んだので、腕で涙を拭って、そっぽを向いた。
「なんでもないよ。目に、ゴミが入っただけ」
こんな情けない顔なんて、彼女に見せたくない。
「叫んでいたように聞こえたけど、なにかあったの?」
「……僕のことは気にしないで」
この優しさが、僕の本音を突っついてくる。
「私でよかったら話、聞くよ」
安心する声。このまま永遠に聞いていたくなるほど。
「別にいいよ。それより、どうしてこんな時間に神社へ?」
前回ここで会った時と時間帯が違うのに、どうして彼女がここへ。
「コンビニへ行ったら、青空くんが神社で願い事をしていたことを思い出して。ついでに、クゥちゃんが帰って来るようにお願いしようかなと思って」
気にかけてもらうだけで期待してしまうし、彼女の瞳を見ているだけで、気持ちが引っ張られていく。
僕がバケモノだと知ったら、がっかりするだろう。
ずっと見守っていたと知れば、気持ち悪がられるだけ。
わかってる。
元持ち主にゴミ袋に突っ込まれたあの日の気持ちが、心の奥底に残っているから。
息を強く飲み込んだ。
「そういうの、やめてくれない?」
言葉とは裏腹に、針と糸で破れた体をつなぎ合わせたかのような痛みに襲われた。
「えっ」
「僕だって、一人で悩んだり、考えたい時もあるから」
どんなに努力しても、欲しいものが指の間からすり抜けていく感覚なんて、美心にはわからないだろう。
人間界での思い出が、どれだけ厚みがあったか。
「……放っておいてくれないかな」
十日後に、いままで積み上げてきたもの手放さなきゃいけない。
僕の気持ちなんて、誰にも理解してもらえない。
美心が、初めて僕の手を取ってくれた喜び。
佐知ちゃんと仲直りした時の美心の笑顔。
一枚のチラシから始まった部員増加の感動。
元持ち主からの屈辱から救ってくれた美心の優しさは、冷え切った心に希望の光を灯した。
それなのに、もうすぐで全部手放さなきゃいけない。
次第に雨脚が強くなり、美心の髪が肌にまとわりついた。
同時に、瞳から滴る雫が、雨と一体化して冷やされていく。
こんな感情など、無意味と知らしめているかのように。
「その気持ち、わかるよ……。私だって辛い時期があったから」
彼女の声が震えている。
きっと、僕に失望しているだろう。
「でもね、青空くんが助けてくれた。温かかった……あの時の手のぬくもり」
彼女は寂しそうな瞳で、僕を見つめている。
「青空くんがいなかったら、未だに私は……。今度は、私の……番。だから、だからっ……」
彼女の優しさが伝わってくる度に、僕の心臓は押しつぶされそうになった。
いま本当の気持ちを伝えたら、僕は間違いなく気持ちが楽になる。
でも、彼女の手を取ることができない。
「美心には、わかんないよ。僕の気持ちなんて……」
木々のざわめきによって、僕の心は弱くなっていった。
もう、後戻りできないくらい。
「えっ……」
「もう、放っておいてくれないかな」
軽くまぶたを伏せ、背中を向けた。
「……迷惑、だから」
荒くなった呼吸を抑えるのに、必死だった。
残念なことに、心の中も大粒の雨が心臓を叩きつけている。
「待って……。青空くん。ごめん、そういう意味で言った訳じゃ」
震えた声が、背中に届いた。
でも僕は、歯をくいしばり、彼女を残して神社を離れた。
彼女は、ただ雨に濡れたまま立ち尽くしていた。
傘を差し出したあの日のように、勇気が出なかった。
怖かった。この世から自分の存在が消えてしまうことが。
最初からわかっていても、砂時計の最後は空っぽに。
彼女を突き放せば、きっといつか諦める。
佐知ちゃんとの喧嘩で、それが証明されているから。
鳥居の奥で、膝から崩れ落ちた。
冷たい雨がはねつけていても、気にならないくらい。
でも、残された十日間で、自分の気持ちを守ることにした。
再びぬいぐるみとして生きていく為に、大切なものを……手放すしか、なかった――もう、守れない。
光が眩し過ぎる。



