――曇り空の放課後。
 部活が休みだった僕は、美心と並んで帰っていた。

 人混みの中、美心の笑顔を見つめていた。
 残り時間は幸せで埋め尽くすことを決めていたから。
 
 駅前のゲーセンの前で、美心はふいに足を止める。
 開きっぱなしの自動ドアの向こうを、吸い込まれるように見つめていた。

「クゥ……ちゃん……」

 その声に、目を大きく見開かせた。
 次の瞬間、彼女は閉まりかけた自動ドアに体をねじ込み、店内へと入っていった。

「美心? どうしたの?」
 
 慌てて追うと、彼女は頭上にクレーンゲームと書かれているコーナーで足を止めた。
 照明が照らされているガラスに両手をつき、青ざめた顔で奥をじっと見つめる。
 やがて手が滑り落ちて、深い溜息がこぼれた。

「似てるけど、やっぱ違う。当たり前、か」

 ガラスの中は、ベージュのクマ。
 クゥの面影が、そこにあった。

 最近話題に上がってこないけど、美心の心の中には少なからず存在している。
 複雑な気持ちに、喉の奥がキュッと苦しくなる。
 店内に流れるBGMを背に、彼女へ目を向けた。
 
「クゥちゃんって、美心が無くしてしまったぬいぐるみ、だったよね」

 感情を押さえ、冷静な声で聞くと、彼女は遠い目をしたまま俯く。

「うん。クゥちゃんに似てたから、つい反応しちゃった。目も、鼻も、耳も、鈴も……、クゥちゃんじゃないのにね」

 もどかしい気持ちのまま、彼女を見つめた。
 隣にいても、本当のことが伝えられない。
 僕は、世界一弱虫なぬいぐるみだから。

「じゃあさ、このゲーム、やってみない?」

 彼女の気持ちが落ち着くならと思い、提案した。
 
「えっ」
「クゥちゃんの代わりになるかはわからないけど、これならゲット出来そうじゃない? あ、ちなみに初心者だけど」
 
 もちろん、あのぬいぐるみにも魂が宿っている。でも、迎え入れれば、美心の心が奪われるかもしれない。
 それでも、寄り添える場所はあっていいと思った。

「ううん、いい。クゥちゃんじゃなきゃ、意味がないから」

 彼女は静かに首を振って、寂しそうにまぶたを軽く伏せた。
 クゥを求めてる。でも、僕がぬいぐるみに戻ったら、今度は人間の僕がいなくなる。

 素直に喜べない自分。本当は正解じゃないのに。
 諦めて出口に向かっていると、僕の耳にある声が飛び込んできた。

「さおちゃん、そろそろ帰るわよ~」

 この声……、あの時と同じ。
 テレビを見ながら、ゴミ袋へ突っ込まれていた時のことを思い出す。
 
 似ていた、元持ち主の声に。
 顎を震わせたまま顔を向けた。――間違いない。
 心臓が跳ねた。
 
「ねぇ、ママぁ〜! あれがやりた~い」

 小さな女の子が指をさしたのは、小さなぬいぐるみが並んでいる、UFOキャッチャー。

「もう、十分遊んだじゃない。もう帰ろうよ。ママ、夜ご飯の準備をしなきゃいけないし」
「いや! さおちゃん、このぬいぐるみが欲しいの! お願い〜!」

 僕の意識が完全に彼女へ向けられた。
 美心の存在を忘れたかのように。

 元持ち主は、僕を捨てたことを、きっと忘れてる。
 そんな僕が、いまこの姿で同じ空間にいるなんて、絶対に気づかない。

「えーっ、クマのぬいぐるみ?」
「欲しい〜!」

 女の子は両足をバタバタ床に叩きつけていると、元持ち主は影を被ったまま言った。

「要らないわよ、ぬいぐるみなんて。どうせ、いつかはゴミになるんだから」

 その言葉が、一瞬で空気を凍らせる。
 元持ち主は娘の手を引いて、僕たちを追い越した。

「っ!」

 元持ち主は、僕のことをそんな目で見ていたなんて。
 思い出したくなくても蘇ってくる。
 ゴミ袋に入れた瞬間までを。
 
 居ても立ってもいられず、ゲーセンを飛び出した。
 元持ち主を追い越しても、現実から逃げ出したくなっている。

「青空くん! 待って、青空くん!」

 美心の声がようやく耳に届いた瞬間、僕の足はようやくブレーキがかかった。
 置いてけぼりにするつもりはなかった。

「っ……はぁ、っはぁ、ようやく止まってくれた」

 この世界を閉じるかのように、軽くまぶたを伏せた。
 
「一体どうしたの? いきなりゲーセンを飛び出したから、びっくりしたよ」

 美心は後ろから息苦しそうな声で言った。
 でも僕は、元持ち主の会話がどうしても忘れられない。

「……どうして、簡単に捨てられるんだろうね」

 誰にも言えなかった想いが、口からこぼれていた。
 美心には関係ない話なのに。
 
「えっ、なんの話?」
「こっちが、どんな気持ちで幸せを願っていたかなんて、知らないくせに」

 それでも信じていた。
 ゴミ袋に入れられるあの瞬間まで、僕の瞳を見てくれることを。

 一度でもいいから、その手でギュッと抱きしめて欲しかった。そしたら、少しはいい思い出に変わっていたかもしれなかったのに。
   
 右手で顔を覆った。
 こんな顔は見せたくないし、彼女の残酷なひとことが、頭から離れていかない。

「もう、大丈夫だよ」

 左手が、美心の温かい手に包まれた瞬間、体中にじんわりと温かさが広がった。

「なにがあったか、よくわからないけど、私がここにいるから」

 美心の目を見ていたら、固い表情が溶けていくのがわかった。
 小刻みに揺れている鼓動が、美心に伝わりそうだった。
 
「私が辛い時、青空くんが傍にいてくれたように、私も力になりたい」

 放っておいてくれるのが、多分正解。
 でも、僕は美心が自分と同じ立場だったら、同じことを言っていたかもしれない。
  
「なにがあったか気になるけど、言わなくていい。その分、こうやって手を握っていてあげるから」

 美心の手は温かくて、離したくなかった。
 ――もう、誤魔化せない。

 これが叶わぬ恋だと知っていても、この気持ちを止めることが出来ない。
 叶わぬ恋の苦さに、僕は胸の奥で運命を恨んだ。