――朝礼の時間。
 担任教師は一年二組の扉を開け、ある男子生徒を連れてきた。
 新しい風が吹いた瞬間、クラスメイトはざわつき、視線が彼に集中した。
 
 入学から二ヶ月。こんな中途半端な時期に転校生なんて珍しい。
 でも、見覚えがあった。
 あの時の雨の香りが、記憶に刻まれていたから。

「ちょっ、かっこよくない?」
「嘘……。タイプかも」
「すごいイケメン!」

 担任教師は黒板に名前を書く。
 彼に自己紹介を促した。
 彼は一歩前に出て、静かに息を整える。

高槻青空(たかつきそら)です。今日から仲良くして下さい」

 彼の瞳が、教室の隅まで一つずつ確認するように泳いだ。
 女子たちはその風貌に、再び騒ぎ立てる。
 
 ナチュラルな髪型、優しげな声。
 昨日、私に傘をかざしてきた人だった。

 「また、明日」って言ってたのは、ただの偶然だよね……?
 胸の奥に雨の冷たさが蘇った。
  
 目が合って、にこりと微笑まれる。
 慌てて目を逸らした。
 多分、昨日の人だ――と気づいたかもしれない。
 
 一時間目後の休憩時間。
 目の前に影ができた。
 
 見上げる。
 高槻くんが前に立っていた。

「美心、やっぱり今日も会えたね!」

 にこりと微笑まれた瞬間、心臓が跳ね、手のひらが一瞬じっとり汗ばむのがわかった。 
 できる限り、目立ちたくない。
 その上、初めて呼び捨てにされ、戸惑いが心に広がる。

「どうして私の名前を……?」
鈴奈美心(すずなみこ)って名前、教卓に席順が書いてあった」

 呼び捨て。昨日ほんの一瞬だけ接点があっただけなのに。
 さっと目線を落とし、机からノートと教科書を出した。
 
「ごめん。つい、クセみたいな?」
「親しくないので、呼び捨てはやめて下さい」

 もう二度と、呼ばれることがないと思っていたのに。
 
「それよりさ、昨日泣いてなかった? ちょっと心配だったというか」

 穏やかな眼差しが向けられた、ふと息が止まる。
 話に区切りをつけるように、机の上で教科書とノートをトンッと揃えた。
 これ以上言葉を重ねたら、刃みたいに傷つけてしまいそうな気がする。
    
「申し訳ないですけど、昨日のことは忘れてくれませんか?」

 優しい眼差しに、胸がぎゅっとなる。
 信じたらまた傷つく。
 それが怖くて自然に背を向けた。
 
「どうして?」

 彼は、表情を曇らせたまま首を傾ける。
 
「……気にされたくないんです」

 可愛げのない奴だ、と思われても構わない。
 口を開けば人を傷つける。
 沈黙こそ、鎧だった。
  
「昨日は傘を貸してくれて、ありがとうございました。明日返します」

 席を立って背中を向けた。
 ガタッとイスの音が鳴り響く。

「美心! 困ったことがあったら、相談とか……してみない?」

 彼の優しさが痛く、足がすくんだ。
 どうして、私が悩んでいることに気づいたんだろう。
 誰にも言ってなかったのに。
 
「私のことは、放っておいてくれませんか」

 背中でそう告げて、廊下へ向かったが、一瞬だけ止まった。
 再び足を進めて、扉を出た。
 キャッチボールで遊んでいるクラスメイトの手がぶつかり、転んだ。

 「……すみません。よそ見をしていて」

 頭を下げると、クラスメイトの足利くんが、丸めた新聞紙を持ちながらにこやかに手を差し伸べてきた。

「ごめん。鈴奈か。大丈夫? 顔色悪いけど」
 
 体温の温もりが伝わりそうで、思わず後ずさった。
 短髪に引き締まった肩、笑うと体格がいっそう大きく見える。
 
 冷たくしてきたから、嫌われていると思っていたのに。
 その眼差しが、あまりにも温かくて、周囲の声が一瞬で消えた。
 瞳は揺れ、指先がじんわり冷える。
 
 見慣れた廊下が、別の色に見えた。
 先ほど、高槻くんの瞳の奥に刺激されてしまったのかもしれない。

 でも、手を取る勇気はなかった。
 立ち上がり、スカートを手で払う。

 背後に残した声を振り切るように、歩幅を早めた。
 足音が遠ざかる度、息が喉の奥でつかえ、胸の内側に張りついた――昨日の雨みたいに。