――二日後。
 汗の香りが残る体育館。
 しっとりとした空気がカーテンを揺らし、宙を舞うホコリが光にきらめいていた。
 
 僕は額に汗を湿らせ、一つのボールが叩きつけられる音を浴び、練習をしていた。
 ボールを上げ、踏み込み、ジャンプ。最後に力強くスパイク。

 まだ上手にトスが上げられない。そのせいもあって、ボールを打つタイミングが合わず、空振りに。
 一連動作を何度も繰り返し、感触を体に叩きつけていた。

 ――美心の、あの時の泣きそうな目。
 胸に棘のように刺さったまま。
 研修合宿から土日を挟み、気持ちのピークは超えたけど、美心と一度も口をきいていない。

 まだ、怒っているかな。
 開放されたままの扉に転がっていくボールを追っていると、誰かがボールを拾い上げた。――賢ちゃんだ。

「一人で練習してんの?」

 賢ちゃんは体育館に入り、拾ったボールを投げた。
 僕はそれをキャッチする。 
 
「仲間の足を引っ張りたくないからね」

 部員に追いつくには、人の二倍以上の練習が必要だ。
 
「ひと声かけてくれればよかったのに」

 賢ちゃんは、ふぅとため息をつく。
 
「ごめん。そこまで気が回らなかったよ」
「おまえらしいな。練習付き合うよ」

 賢ちゃんはスマホをステージ上に置き、僕と向い合せになった。
 
「ありがとう。賢ちゃんはどうしてここに来たの?」
「自販機でジュース一本当たったから。この間のお返し!」

 賢ちゃんは後ろポケットから取り出したペットボトルを僕に突き出す。
 「ありがとう」と言って、ペットボトルを受け取った。
 
 練習に一息ついた頃、二人で壁の手前に腰を下ろす。
 蓋を開けてひと口飲むと、炭酸のじゅわっとした弾ける感触と、甘い味が喉を潤した。
 
「……なんか、悩んでるの?」

 賢ちゃんは、神妙な面持ちで聞いてきた。
 
「えっ、どうして?」
「合宿の帰りから暗い顔してるから。昼飯の時も、勝手にいなくなっちゃうし」

 気づかれていないと、思ったのに。
 僕はふっと小さく息を吐いた。
 
「賢ちゃんはエスパーなんだね。僕の気持ちを読めるなんて……」
「おまえが単純なだけ」
「賢ちゃんが鋭いんじゃなくて?」
「バーカ! 相変わらず鈍感だな」 

 賢ちゃんは僕の顔を見たまま、ケタケタと笑う。
 でも、否定できない。

 体育館横を歩いている生徒たちの笑い声が耳に届く。
 小さく刻んでいる鼓動は、僕の心を後ろ向きにさせている。

「……鈍感、なのかな。僕は美心に友達を増やしてあげようとしたのに、逆効果だったかな」

 軽くまぶたを伏せたまま呟く。
 美心が泣きそうな顔で訴えてきた様子が、頭の中で繰り返されている。
 
「もしかして、それが悩み?」
「うん……。美心が最近少しずつ心を開いてくれるようになったから、女子グループに入れてもらえるよう頼んだ。でも、それが余計だったみたいで」
「あぁ、そういうこと? 俺も何度か話しかけたけど、心折れたし」

 賢ちゃんは両手でペットボトルを持ったまま、遠い目でため息をついた。
 
「賢ちゃんなら、心を開いてくれそうなのにね」
「ジュースもう一本欲しいから、持ち上げてんの?」
「あははっ、賢ちゃん相変わらず面白いね」
 
 僕が声を出して笑うと、賢ちゃんは目尻を下げた。

「ようやく笑ったね」
「えっ、いつも通りだけど?」

 首を傾ける。
 
「困ったときは相談しろよ。じゃなきゃ、何の為の友達だかわかんねぇし」
「賢ちゃん……」

 視界が少し霞む。
 賢ちゃんは、いつも僕の心を温めてくれる。

「でもさぁ、おまえが鈴奈の立場だったら、どう思う?」
「普通に嬉しいけど? 友達が増えるのは嬉しいし、仲良くなるきっかけを作ってもらえるなら」

 人に話しかけるのが難しいなら、そうしてもらった方がありがたいと思っていた。

「そこそこ! おまえが根本的にズレてるとこ」

 賢ちゃんはため息を漏らす。
  
「誰だって理念を捻じ曲げられたら、気持ちが追いつかないだろ」
「でも、友達はいっぱいいたほうが嬉しいだろうし……」

 それに、美心の笑顔を一つでも多く増やしてあげたいし。
 
「それは勝手な思い込み。百人いれば百通りの考え方があるから」

 賢ちゃんは立ち上がって歩き出した。
 
「え、そうなの? 僕が喋ってたから、てっきり鍛えられたかと……」
「ん訳ねぇだろ。鈴奈は人に手助けしてもらいたいなんて思ってないかも。……ま、俺だったら嬉しいけどね」
 
 僕の望みは、必ずしも彼女が望んでないということ。
 まっすぐに思いを届けるだけじゃダメなんだ。
 
 ボーっと考えていると、賢ちゃんは転がってるボールを持ち上げて、一人スパイクをした。
 バアァァアン……。
 激しい衝撃音が走り、空気が揺れた。
 
 自分の実力とは格段にレベルが違い、僕は唾で喉を鳴らす。

「俺さ、その気持ちわかるんだよね。家族関係で色々あるから」

 賢ちゃんの異変に気づき、背中に目線を当てた。
 薄暗い影が被っている。
 
「実は、六歳下の妹と、八歳下の弟がいてね。でも、異母姉弟だから血が繋がっていないんだ。小さい頃から兄としての責任? みたいなものを背負ってきてね」

 賢ちゃんは、軽く俯いた。
 
「大変、だったんだね」
「まぁな。弱音を吐く兄ちゃんなんてカッコ悪いだろ?」

 そんなことない。
 弱々しい表情かもしれないけど、言葉に言い表せないくらい凛としている。
 
「賢ちゃんは、いつもかっこいいよ。僕を理解してくれるし」

 本気でそう思ってる。
 賢ちゃんは心の理解者だから。
 彼はボールを拾うと、こっちへ戻ってきた。
 
「ははっ、サンキュ。だから、わかるんだよね。本音を封じ込めたい気持ち」

 一瞬、賢ちゃんの表情と美心の表情が重なった。

「……怖いんだよ。弱い自分と向き合うことがね」

 僕は、そこまで考えてなかった。
 昨日からずっと悩んでいたけど、彼のおかげで、足りないものが見つかったような気がする。

『……お節介はもう二度としないで!』

 ふと彼女の言葉が蘇る。 
 ようやく心を開き始めていたというのに、僕は小さな芽を摘んでしまった。
 
 彼女が苦しそうに胸の内を吐き出していた姿を思い出した瞬間、息が苦しくなった。
 賢ちゃんと同じ光が差しているのに、僕の胸は重く沈んでいた。