――激しくなった雨は、不安をよりいっそう塗り固めていった。
 私たちは足が痛くなるくらい歩いたあと、小さな屋根付きの小屋に到着。
 
 小屋といっても吹きさらし。
 古びた木のベンチが二つほどしか置かれていない。
 
 山林の風はひんやりとしていた。
 彼は紺色のTシャツ姿で、先ほどまで着ていたシャツをギュッと絞っていた。
 
 私のウィンドブレーカーは肌が透けるほど体に吸い付く。
 でも、これを脱いだらタンクトップ一枚に。
 身震いしてると、彼はカバンを開け、一枚のパーカーを取り出し、私に向けた。

「これ着て。寒いでしょ」
「高槻くんも、濡れてるのに」
「僕はそこまで体弱くないよ。後ろ向いてるから着替えて」
「ありがと」

 私がパーカーを受け取ると、彼の首元でキラリと何かが光った。

「高槻くん、もしかしてネックレスしてる?」

 彼は派手なタイプではないので、ちょっとびっくりした。
 
「これは僕の宝物。プレゼントしてもらった日から、肌身離さず持ってる」
「大切なものなんだね」
「迷いに迷ってプレゼントしてくれたものだから、僕にとっては特別だよ」

 彼は穏やかな瞳で、クスッと笑った。
 あまりにも幸せそうに見えたから、微笑ましい気分に。
 
 私はウィンドブレーカーを脱いで、借りたパーカーを着てみると、結構ブカブカ。……でも、あったかい。
 彼がベンチに座ったので、私は隣に腰を落とす。

「先生たち、探しに来てくれるかな」

 不安の色が拭えない。
 
「どうかな。悪天候だし。暗くなる前までに雨が止めば動けるのにね……」
「天気予報は全然ハズレ。どうして梅雨の時期に山登りを決めたんだろう」

 彼を見ると、唇がわずかに震えていた。
 すかさずパーカーのファスナーを下ろして、襟元に手を添える。
  
「ごめんっ……。高槻くんも寒いのに、パーカーを借りちゃって」
 
 彼は首を横に振った後に、私の手を止めた。

「美心が着てて」
「でも……」
「風邪を引いて欲しくない。僕は男だから体温高いし」

 その優しさが伝わってくるたびに、いままでの自分が小さく見えた。
 彼が温かい手を差し伸べてくれても、私は一度も触れられなかった。

 私は右手でそっと彼の手を握りしめた。
 彼は驚いた顔を向ける。
 
「ごめんね。手を繋いでいれば、少しは温かいかな」
「美心……」

 弱虫だから、人にどう接したらいいかわかんない。 

「迷惑だよね。……でも、他に温まる方法が見つからなかったの」

 私は俯いて、熱い頬を隠した。
 彼は、手をギュッと握り返してきた。
 このタイミングで顔を向けると、春のような穏やかな笑顔がそこに待っていた。
 
「嬉しいよ。美心の体温、あったかいから」

 彼の優しさが伝わるたびに、目頭がじんわりと温まっていく。
 もう、無理に頑張らなくてもいいんだよと言わんばかりに。

「私にはトラウマがあるんだ。人を避けてきた」

 俯いたまま小さなため息を一つついた後、言うつもりがなかった言葉が口からこぼれていた。
 
「もしかして、そのトラウマって友達に裏切られたこと?」

 私は一瞬動きが止まり、まばたきをした。
 
「どうしてそれを……」

 ピンポイントな返答に、驚きを隠せなかった。
 彼は目を泳がせると、指先がぴくっと動いた。
 
「ぼっ、僕の周りで結構多い悩みだったから」
「たしかによく聞く話だよね……。一度目だったら、まだ我慢できた」

 なぜだろう。
 高槻くんなら、安心して話せる。
 
「もしかして、最初に出会った日に泣いていたのは、それが理由だったの?」
「違うの。実はあの日、大切なものをなくしてしまって」
「大切なものって?」

 言ったら、多分笑われる。
 この年になっても、まだそんなものを大切にしてるんだって思われるかな。
 でも、話してもいいかなって思う段階まで、心を許していた。
 
「く、クマのぬいぐるみ……」
「えっ。ぬいぐるみ?」

 私はこくんと頷いた。
 
「三歳の頃、クゥちゃんは捨てられていた。泥だらけで、泣いてるみたいだったから、家族にしたの」

 彼は私から目を外して見上げた。
 びっしりと雨雲が敷き詰められている、灰色の空を。

「美心は優しいんだね。見て見ぬふりをしても、おかしくないのに」
「そんなことない。当時は友達に裏切られて、なにかと繋がっていたかった。そんな時に出会ったから」
 
 屋根から滴っている雫を眺め、クゥちゃんと出会った運命の日のことを思い出した。
 
「……そう、なんだ。じゃあ、さっき言ってた、一度目のトラウマって」
「そう。でもね、クゥちゃんには、心を許してたんだ。まぁるい瞳が、全て受け止めているような気がして」

 ため息をつき、ジーパンの上で拳を握った。
 
「必ず見つける。チェストの上には、クゥちゃんの写真を飾ってるんだよ。早く帰ってきてね、って毎日お願いしてるんだ」

 もし、クゥちゃんが見つかっていたら、崖の下にあったベージュ色の物体を勘違いすることはなかった。
 勘違いしたのは、気が焦っていた証拠かもしれない。
 
 考えるだけで、会いたくなる。
 泣くのを我慢していたら、体が震えた。
 
「大丈夫。クゥちゃんは必ず帰ってくるよ」
 
 彼は、私の髪を優しく撫でた。
 感情的になっていたことに、気づいたのかもしれない。

「どうしてわかるの? 毎日いろんな場所を探しても見つからないのに」

 少し甘えたくなった。
 もしかしたら、誰かにこの話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
 
「美心が会いたいと思っているなら、きっとクゥちゃんも会いたいと思っているよ」

 こんな話はバカにされると思っていたのに、優しい言葉をかけてくれるなんて。
 鼻腔がツンと痛くなると、彼はカバンの外ポケットからなにかを取り出した。
 それを手のひらに置いて、私に向ける。――ブドウ飴だ。

「これを食べて元気になってね。美心が元気になったら、きっとクゥちゃんは戻って来るんじゃないかな」

 私は飴を受け取ると、小さく笑みが溢れた。
 
「ありがとう。それ、一番好きな飴なんだ」

 光が反射して、個包装がキラリと輝く。
 
「良かった。……あ、実は一つだけ謝らなきゃいけないことがあるんだけど」
「ん、なぁに?」

 丸い目で聞き返した。
 なんだろう。謝らなきゃいけないことって。
 高槻くんがなにか嫌なことでもしてきたっけ?
 
 彼はふっと笑う。
 
「気づいたら、美心って呼び捨てしてた。名字で呼んでって言われたのにね」

 私は彼が小さなこだわりを大切にしていたと知り、ぷっとふきだした。
 
「あはは。なぁんだ、そんなことか。たしかに言った!」
「美心さえ良ければ、このまま呼び捨てにしててもいい? 僕のことも青空って呼んでほしいし」
「うん。……青空くん、ありがとね!」
 
 青空くんって、なんか不思議な人。
 話しやすいし、私の気持ちを受け止めてくれる。
 
 一番驚いたのは自分自身。
 固く閉ざしていた心を、開き始めている。

 どうしてかな。
 彼の瞳が、太陽のように温かいからかもしれない。

 小さな笑い声に包まれていると、遠くから大人の男性の声がした。
 私たちは立ち上がって、小屋の外へと顔を出す。
 目線の先には救助隊と思われる男性二人がいた。

「大丈夫ですか?」
「ケガはありませんか?」

 隊員は心配そうに声をかけてくれて、毛布で包んでくれた。
 私たちは、ほっとした目を向け合う。
 
 雨は止み、灰色の雲の隙間から淡い光が差し込む。
 不安な気持ちが取り除かれた私たちは、毛布に包まれたまま、救助隊の車に乗り込んだ。