――一泊二日の研修合宿。自然体験を通じて親睦を深めるのが目的だ。
 現地でバスを下りて、昼食を終えてから山へ散策に。
 私はいつものように、女子集団の後ろについて行った。
 
 昨日の雨が影響か、足元がぬかるみ、落ち葉がいいクッションに。
 森林の香りに包まれながら、落ち葉や枝を踏みしめていると、雲行きが怪しくなってきた。
 下山指示はまだ出ていない。
 
 リュックのベルトを掴んだまま崖の方を見下ろす。
 見覚えのある配色物が視界をとらえた。

「クゥ……ちゃん……?」

 十メートルほど先に置かれているのは、クゥちゃんと同じ配色の物体。
 でも、それがクマのぬいぐるみかどうかは認識できない。
 リュックのベルトに手をかけ、足を進めた。
 
 でも、心が引き止められる。  
 崖は少し急だけど、木に捕まって歩けば問題なさそうだと思い、崖を下ることにした。

 一歩足を根付かせ、次の一歩を踏み出す。
 先ほどの道は一方通行だから、物体を確認してからでもきっと戻れる、そう思い込んで崖を下った。
 ところが、足が滑り、ぬかるみへ尻もちをつく。

「きゃああっ!!」

 ずるずると崖下へ引きずり込まれ、パキパキと小枝が折れた。
 身動きが取れず、尻もちをついた箇所が熱い。

「……っ」
  
 体が止まった先は、クゥちゃんよりもはるかに下。
 木々に囲まれ、土の香りが間近に香る。 
 登山道がどこだったかわからないほど、森の奥へ追いやられてしまった様子。

 泥まみれの手で、ポケットからスマホを取り出した。
 充電は、残り1%。
 ケーブル故障が、充電されていない原因と思われる。
 
 モバイルバッテリーを出そうと思ってカバンを漁った。
 バスの中で抜いたことを思い出し、ため息が溢れる。

「私ったら、バカだね……。でも、まだ1%ある」

 カバンから旅のしおりを出して、緊急連絡先をスマホ画面に打ち込み始めた。
 入力を終え、かすかに希望を乗せた指で通話ボタンに触れたその瞬間。――画面は暗くなった。

「嘘でしょ。このタイミングで切れるなんて、どれだけ運がないのよ」

 電源を入れたが、画面は点かない。
 祈るようにスマホを両手にぎゅっと握りしめたまま、額に当てた。
 
 高槻くんが『せめて自分だけは味方になってあげて』って言ってくれたのに、私はそっぽを向いてしまった。
 後悔しても遅いのに。

「誰か、助けて……。どうか、助けに来てもらえますように……」
 
 木々の葉のざわめきが、不安を煽り立てる。
 立ち上がり、体にまとわりついた葉を手で軽く払ってから、道なき道を進んだ。

 時おりカラスの鳴き声が耳に入り、現実を切り取り始めた。
 このまま誰にも見つけてもらえなかったらどうしよう。
 視界が揺れ、不安定な足元に注意しながら、足をゆっくり進ませた。
 
 そんな中、ふと誰かの声が耳に入った。
 心がふわりと軽くなり、すかさず顔を上げる。
 
「美心〜〜っ! どこにいるんだ〜〜。いたら返事して〜!」

 遠くから聞こえる、聞き覚えのある声。
 辿るようにキョロキョロしていると、十数メートル先の崖から、高槻くんが木につかまりながら下りてくる。
 その姿を捉え、地面に手をついて痛みをこらえながら立ち上がった。

「高槻くん! 私は、ここにいるよ!」

 彼は両手を振ってアピールしている私と目が合った。
 木から手を離し、地面に手を軽く添えながらこちらへ向かってくる。
 
 両手を握りしめたまま見つめていると、額に大きな雫がポツンと弾いた。
 目線を上げると、雨が降っている。

「美心っっ! ケガしてない?」
「うん! 大丈夫!」
「いまそっちへ行くから、動かないで!」

 風で髪は揺れ、心のざわめきをなぞっていく。
 私は彼を見つめたまま佇んでいると、彼はぬかるみに足を取られ、尻もちをついた。

「うわっ!!」
 
 叫び声と共に滑り落ち、五メートルほど落下。
 木に衝突して、その体は止まった。
 彼はすかさず左腕を押さえて、前かがみで息を荒くし、悶えている。

「……ってぇ」
「高槻くんっ!! 大丈夫?!」

 私は全身の血の気が引いた。
 心配で、鼓動がバカみたいに暴れていく。
 
「あっ……、うん。ぜんぜん……平気。そこ、動かないで。足元が不安定で危ないから」
「う、うん……。わかった」

 彼は自分の左腕をチラッと見た後、スピードを落としながら足を前に進める。
 ようやく私の元に到着すると、彼の表情が空気が抜けたかのように緩んでいった。

「高槻くん、木にぶつかったときに腕が当たったんじゃ……」
「もしかして、僕の心配してくれるの?」

 彼は少し驚いたように、首を傾けた。
 
「そんなの当たり前じゃない。どの辺を打ったの?」

 私が心配の目で彼の左腕の方を覗き込むと、彼は首を振った。

「たいしたことないよ」
「……でも」
「それより、どうやって先生に連絡しようか」
「ごめん。スマホの充電が切れちゃって。高槻くんは、スマホ持ってないんだよね?」

 足利くんとそんな話をしていたことがあった。
 
「え、どうして知ってるの?」
「ぐっ、偶然聞いただけ……」

 額に冷や汗をかきながらしどろもどろ答えていると、彼はフッと笑った。
 
「とりあえず、一緒に道を探そう。雨が強くなってきたからね」
「うん、そうしよっか」

 私はこくんと頷き、小さく息を吐いた。
 私たちは、雨と鳥の声に包まれ、落ち葉や枯れ木を踏みしめながら進んだ。――でも、道は見つからない。
 大木を避け、ぬかるみに足を取られながらも、彼の背中だけを見つめて歩く。
 
 私の足音が遠退いたことに気づいたのか、彼は足を止め、振り返って「大丈夫?」と声をかけてくれた。
 私はほんわりとした気持ちでうんと頷く。

 頭の中で最悪なパターンが繰り返される中、私は彼の背中を見ているうちに、敬語が消えていたことに気づいた。
 五年間守り抜いていたバリケードが、いつしか消えていたなんて。