生活リズムを変えてから、日付は飛ぶように過ぎていく。気づけば紫陽花が色をつけ、早いところではもう枯れ始めていた。
東大を目指し始めてから、初の定期考査。
「各科目、前回から10点、15点くらい上げることを目標にしようか。それじゃあ、それぞれの科目の目標点をこの表に書いて、コピーして一枚持ち帰りな。原本は自習室に貼って、コピーした分は家の自分の部屋、毎日見る場所に貼ってね」
少し前、佐々木さんにこう言われて、私は各科目の目標点を決めている。
——取れるだろうか。これまで、目指したことのない、もちろん取ったことのない点数が並んでいる。定期考査で緊張するのなんて初めてだ。
翠ちゃんは平然としている。あんな顔してどの科目も余裕で高得点を取るんだろうな。
「はじめ」
最初は数学①。1ヶ月ほどの間で、佐々木さんや翠ちゃんに教わったことを一つひとつ実践していく。名前や解答は読めるようにしつつ、素早く書く。最初の問題から解き始めて、わかる情報を前半に集めながら、採点官に伝わる言葉でわかりやすい解答を心がける。
——明らかに解けるようになっている。前回なんて、道筋が見えている問題は半分くらいしかなく、それも解答が中途半端だから減点されることが多かったが、今回は全然違う。
1ヶ月変えるだけで、こんなにも見える世界が違うだなんて。
夢中で答案を作り上げていく。試験中に書いている文字数がこれまでとは圧倒的に違う。手首が疲れ始めるが、そんなことより一点でも多く獲ることが大事だ。
「あと5分!」
試験監督の先生の声が突然降ってくる。
え? あと5分? 時間は意識していた。でも、改めてそう言われると理解が追いつかない。次の問題にさらっと目を通してみると、道筋はすぐに見えた。これを5分で解答を書き上げる? 不可能だ。無理すぎる。
せっかく解けるのに。解き切れるかもしれないのに!
焦ってからは書くスピードが落ちてしまった。手が震えて、頭もうまく回らない。やばい、やばい、早く書かないと。もっと獲らないと。目標点に届かない!
そう思えば思うほど、教室の時計の針が動く音が心臓に響き渡る。うまくペンが動いてくれない。
「解答やめ」
先生の合図でペンをころりと机に投げ出す。まだ手が震えている。感覚がおかしくなっているのか、いつも通りペンを置いたつもりが、そのままコロコロと転がって床に落ちていく。それがスローモーションのように感じられて、もっと書けたのに、もっと獲れたのに、と思考がそればかりになってしまう。最初の方でもっと素早く計算を終わらせていたら? 2問目で違う方針からスタートしたのがタイムロスだった……?
解答が回収されている間の記憶はなかった。休憩に入り、トイレに向かおうとして、翠ちゃんとすれ違う。
「切り替えるんだよ、次の科目はもう始まる」
何を考えているかわからない顔で囁かれ、ハッとする。顔に出ていたのだろうか。確かに、受験で大事なのは1科目の点数じゃない。合計点だ。定期考査は各科目の点数が成績に直結するけど、ここで次の科目に引きずる癖がついてしまったら、受験の時にまずい。
——切り替えろ。
次の科目は世界史。ふう、とひと呼吸ついてから、翠ちゃんと毎日やっていた一問一答を思い出しながら、ギリギリまで準備をした。
✳︎✳︎✳︎
間の休日を挟んで、「現代国語」「古典」「数学①」「数学②」「コミュニケーション英語」「英語表現」「物理」「化学」「世界史」「情報」の10科目のテストを木曜日から次週の火曜日までこなした。
手応えはある。これまでとは段違いに確実に点数を獲りに行けた感覚があった。
でも、もっとやれた。今回強く実感させられたのは、圧倒的な時間配分の下手さ。世界史と情報以外すべて、時間が足りずに解ける問題も落としてしまった。
「お疲れ。どうだった?」
「前までよりは、ね。でも、時間が全然足りなかった。翠ちゃんは?」
「あたしももっとやれたな。特に数学」
最終日の帰り道、歩きながら感想を述べ合う。もちろん、向かう先は佐々木進学塾だ。考査が終わったからと言って、受験勉強は終わりではない。
考査は先生によって返却のタイミングにばらつきがあって、テストの復習はその時ごとに計画に組み込まなければならない。だからこそ、まだ返ってきていない今日は、普通に受験勉強を進めておかなくてはならないのだ。休んでいる暇はない。
佐々木さんとテストの手応えについて軽く面談して、すぐに勉強を再開した。
「時間配分はね、テストの永遠の課題だよ。基本的に、出題者側は時間内に終わらないように試験を作っているからね。定期考査は先生の裁量が大きいけど、受験はもっと細かく時間配分も点数配分も決められる。配分の重要性に気付いたなら、今こそ時間について考える時だ」
そう言って佐々木さんは東大の入試問題の時間配分表を見せてくれた。もちろん、一例にすぎず、受験生一人ひとりが自分の得意不得意に合わせて決めなければならない。
「冠模試が近づいてきている。ここからは東大入試に焦点を当てて、テスト慣れして行こう」
「はい」
冠模試とは、大手予備校が特定の大学の入試本番を想定して実施する模擬試験のこと。もちろん、東大専用のものもあり、東大模試とも呼ばれている。他にも京大模試や阪大模試、名大模試などさまざまある。つまりは、その大学の名前を冠する模試というわけだ。
冠模試は夏と秋にそれぞれ行われる。私は佐々木さんの言われるがまま、夏の冠模試3本を申し込んだ。
二次試験当日とまったく同じ日程、現役生も浪人生も関係なく範囲は高校履修分すべて、試験と同程度、もしくはそれ以上の難易度の問題で行われるらしい。それに太刀打ちできるように、準備をしておかなくてはならないのだ。
立ち止まっているわけにはいかない。最短距離で駆け抜けていかないと、私は間に合わないのだから。シャーペンをグッと握り直し、目の前の物理の問題に向き直した。
東大を目指し始めてから、初の定期考査。
「各科目、前回から10点、15点くらい上げることを目標にしようか。それじゃあ、それぞれの科目の目標点をこの表に書いて、コピーして一枚持ち帰りな。原本は自習室に貼って、コピーした分は家の自分の部屋、毎日見る場所に貼ってね」
少し前、佐々木さんにこう言われて、私は各科目の目標点を決めている。
——取れるだろうか。これまで、目指したことのない、もちろん取ったことのない点数が並んでいる。定期考査で緊張するのなんて初めてだ。
翠ちゃんは平然としている。あんな顔してどの科目も余裕で高得点を取るんだろうな。
「はじめ」
最初は数学①。1ヶ月ほどの間で、佐々木さんや翠ちゃんに教わったことを一つひとつ実践していく。名前や解答は読めるようにしつつ、素早く書く。最初の問題から解き始めて、わかる情報を前半に集めながら、採点官に伝わる言葉でわかりやすい解答を心がける。
——明らかに解けるようになっている。前回なんて、道筋が見えている問題は半分くらいしかなく、それも解答が中途半端だから減点されることが多かったが、今回は全然違う。
1ヶ月変えるだけで、こんなにも見える世界が違うだなんて。
夢中で答案を作り上げていく。試験中に書いている文字数がこれまでとは圧倒的に違う。手首が疲れ始めるが、そんなことより一点でも多く獲ることが大事だ。
「あと5分!」
試験監督の先生の声が突然降ってくる。
え? あと5分? 時間は意識していた。でも、改めてそう言われると理解が追いつかない。次の問題にさらっと目を通してみると、道筋はすぐに見えた。これを5分で解答を書き上げる? 不可能だ。無理すぎる。
せっかく解けるのに。解き切れるかもしれないのに!
焦ってからは書くスピードが落ちてしまった。手が震えて、頭もうまく回らない。やばい、やばい、早く書かないと。もっと獲らないと。目標点に届かない!
そう思えば思うほど、教室の時計の針が動く音が心臓に響き渡る。うまくペンが動いてくれない。
「解答やめ」
先生の合図でペンをころりと机に投げ出す。まだ手が震えている。感覚がおかしくなっているのか、いつも通りペンを置いたつもりが、そのままコロコロと転がって床に落ちていく。それがスローモーションのように感じられて、もっと書けたのに、もっと獲れたのに、と思考がそればかりになってしまう。最初の方でもっと素早く計算を終わらせていたら? 2問目で違う方針からスタートしたのがタイムロスだった……?
解答が回収されている間の記憶はなかった。休憩に入り、トイレに向かおうとして、翠ちゃんとすれ違う。
「切り替えるんだよ、次の科目はもう始まる」
何を考えているかわからない顔で囁かれ、ハッとする。顔に出ていたのだろうか。確かに、受験で大事なのは1科目の点数じゃない。合計点だ。定期考査は各科目の点数が成績に直結するけど、ここで次の科目に引きずる癖がついてしまったら、受験の時にまずい。
——切り替えろ。
次の科目は世界史。ふう、とひと呼吸ついてから、翠ちゃんと毎日やっていた一問一答を思い出しながら、ギリギリまで準備をした。
✳︎✳︎✳︎
間の休日を挟んで、「現代国語」「古典」「数学①」「数学②」「コミュニケーション英語」「英語表現」「物理」「化学」「世界史」「情報」の10科目のテストを木曜日から次週の火曜日までこなした。
手応えはある。これまでとは段違いに確実に点数を獲りに行けた感覚があった。
でも、もっとやれた。今回強く実感させられたのは、圧倒的な時間配分の下手さ。世界史と情報以外すべて、時間が足りずに解ける問題も落としてしまった。
「お疲れ。どうだった?」
「前までよりは、ね。でも、時間が全然足りなかった。翠ちゃんは?」
「あたしももっとやれたな。特に数学」
最終日の帰り道、歩きながら感想を述べ合う。もちろん、向かう先は佐々木進学塾だ。考査が終わったからと言って、受験勉強は終わりではない。
考査は先生によって返却のタイミングにばらつきがあって、テストの復習はその時ごとに計画に組み込まなければならない。だからこそ、まだ返ってきていない今日は、普通に受験勉強を進めておかなくてはならないのだ。休んでいる暇はない。
佐々木さんとテストの手応えについて軽く面談して、すぐに勉強を再開した。
「時間配分はね、テストの永遠の課題だよ。基本的に、出題者側は時間内に終わらないように試験を作っているからね。定期考査は先生の裁量が大きいけど、受験はもっと細かく時間配分も点数配分も決められる。配分の重要性に気付いたなら、今こそ時間について考える時だ」
そう言って佐々木さんは東大の入試問題の時間配分表を見せてくれた。もちろん、一例にすぎず、受験生一人ひとりが自分の得意不得意に合わせて決めなければならない。
「冠模試が近づいてきている。ここからは東大入試に焦点を当てて、テスト慣れして行こう」
「はい」
冠模試とは、大手予備校が特定の大学の入試本番を想定して実施する模擬試験のこと。もちろん、東大専用のものもあり、東大模試とも呼ばれている。他にも京大模試や阪大模試、名大模試などさまざまある。つまりは、その大学の名前を冠する模試というわけだ。
冠模試は夏と秋にそれぞれ行われる。私は佐々木さんの言われるがまま、夏の冠模試3本を申し込んだ。
二次試験当日とまったく同じ日程、現役生も浪人生も関係なく範囲は高校履修分すべて、試験と同程度、もしくはそれ以上の難易度の問題で行われるらしい。それに太刀打ちできるように、準備をしておかなくてはならないのだ。
立ち止まっているわけにはいかない。最短距離で駆け抜けていかないと、私は間に合わないのだから。シャーペンをグッと握り直し、目の前の物理の問題に向き直した。



