「一週間、続けてみてどうだった?」
「めっちゃキツかった。よくあんなのずっと続けてるね」
「じゃあ、やめる?」
「ううん、やめない」
「いいね」
日曜日のノルマが終わり、佐々木さんとの面談が終わった翠ちゃんに2階に連れて行かれ、3人の面談が始まった。午前中にお母さんと佐々木さんと行った三者面談とさほど雰囲気は変わらない。翠ちゃんが保護者ヅラをしているせいだろう。
色々相談しながら、次の週の計画を立てていく。
「日和さんの苦手な科目は、物理なんだよね?」
「そうです。基本問題はまあまあなんですけど、難問になると突然手が出なくなってしまって……」
「物理苦手な人あるあるじゃん」
「ちょっと翠ちゃんは黙ってて。日和さんが可哀想でしょ」
佐々木さんと翠ちゃんは叔父さんと姪っ子という関係の割には結構仲が良く、よく言い合っているのを聞く。
「そういえば……学校ではタブレットを使って勉強しているけど、受験勉強にはタブレットは使わないんですか?」
ふと、疑問に思ったことを聞いてみる。最近は文科省の方針とかなんとかで一人一台の情報端末が導入され、課題は基本タブレット経由で配信、画面に直接解答を入力して提出するスタイルだ。でも、塾にある機械と言ったら、コピー機と佐々木さんのPCだけ。最初に入った時から、この塾はどこか違和感があったが、きっと時代遅れ感があったのだろう。匂いも古めだし。
「いい質問だね。受験に向けてはね、タブレットより紙で勉強した方がいいんだよ。なんでだと思う?」
佐々木さんが腕を組んで質問してくる。
「なんでって……集中できるから……?」
紙の方が集中力が高いとかなんとかって研究結果が出ていたと聞いたことがあるような?
「まあそれも合ってるんだけど、もっと大きな理由があるんだ。はい、翠ちゃん、説明して」
なんであたしが、と口を尖らせた後、翠ちゃんは説明を始めた。
「受験本番は紙で解くから。問題用紙も解答用紙も紙。シャーペンや鉛筆で解答を素早く書いていかないといけない。タブレットに慣れると、どうしても感覚が違うから、本番戸惑っちゃうよ。——そうでしょ、叔父さん」
「正解。いずれその辺も時代に合わせて変わっていくとは思うんだけどね。ただ、今はまだ試験は紙で行われるんだ。感覚をそれに合わせておかないとね」
「なるほど……」
この一週間で実感したことがある。受験勉強は本当に奥が深いのだ。何も知らずになんとなく課題だけやっていた時とは全然違う。何も知らないで受験に臨んでいたら、本当に悲惨なことになっていただろう。
「そういうわけで、問題解く時は絶対ノートにやってね。特に数学物理化学の解答書く練習はタブレットなんてもってのほか。ただでさえ、東大の試験は時間が足りないことで有名なんだ。鉛筆で早く読める文字を書けるようになるのも大事なんだよ」
「わかりました、そうします」
隣の黒髪の美少女を見ると、ニヤリと笑ってこちらを向いた。
「じゃあ書くスピード勝負しようか」
「はい?」
いつだって、この人は突然変な誘いをしてくる。やっぱり、友達付き合いが下手なのかな。
「いいじゃん、数学の問題と解答用紙、僕が今からコピーしてくるよ」
「え? いや、それって書くスピードじゃなくてただの問題解くスピード勝負では……」
「まあまあ、別になんでもいいじゃん。公式の証明とか基本問題でいいよ」
あれよあれよという間に問題とそれっぽい解答用紙が渡され、20分を表示したタイマーがホワイトボードに置かれた。佐々木さんが教卓に両の手をついて、準備はいいかい? と聞く。
「その解答用紙、東大の入試の解答用紙に極限まで寄せているものなんだ。サイトからコピーできるから、いつでも使ってね。——というわけで、じゃあ最低限の筆記用具だけ机に置いて、僕がはじめと言ったら解答開始だ」
解答用紙はA3サイズ。青い太線で囲まれた解答欄を自由に使えるようだ。
緊張感を感じる間もなく、愛用のシャーペンと消しゴムを机に置いて佐々木さんの方を見る。ほぼ同時に翠ちゃんも準備を終えたようだ。
「はじめ」
タイマーがスタートされ、1秒ずつ数が減り始めた。問題用紙を表に返して、問題文を読む。いや、読むほどのものでもなかった。小問の1問目、すなわち(1)は三角比のサインとコサインの定義を聞く問題、(2)はそれを用いて加法定理を証明せよ、という問題だった。
加法定理とは、角の和や差における三角比を計算で求められるようにした公式で、「咲いたコスモス、コスモス咲いた」「コスコスサインサイン」などの語呂合わせで覚えるようによく言われる。後者なんて語呂合わせですらない。そのまま覚えるのとあんまり変わらないんじゃないの? とか思う。
それの、証明……? あれ、どうすればいいんだろう? とりあえず、(1)だけは書かないと。
隣からはカリカリとシャーペンを動かす音が聞こえてくる。翠ちゃんはもう解き始めているんだ。
ひとまずサインとコサインの定義を説明しようと、問題用紙に一旦単位円を描く。θを適当に決めて、sinθとcosθが何を意味しているのかを考えてみる。いつも感覚でサインはy座標、コサインはx座標、と思っていたけど、多分それだけでは足りない。いわゆる「減点される解答」になってしまう。
学校の先生曰く、数学という科目は解答を上から順番に読んでいって、途中で間違えている部分があったら、そこで採点が終了してしまうのだそうだ。つまり、答えを出していても、途中で計算を間違えたらそこまでしか部分点は入らない。だから、いかに正しい解答を書き続けるか、採点が終わる可能性を減らすか、そしてわかっている情報を前半に持ってくるかが勝負になるのだ。
まずはθを正しく定義しないといけない。x軸の右半分ってなんて言うんだっけ? 単位円に点を置いてそれをPとかって名付ければいいのはなんとなくわかる……OPを動径っていうのも聞いたことがある。
え? これ、無理では? 何を書けばいいのか、さっぱりわからない。タイマーをチラ見すると、いつの間にか半分に減っている。
結局、私はなんとなくの解答を書いただけで終わってしまった。15分くらいのところで、隣からシャーペンをコロンと転がす音が聞こえたから、きっと翠ちゃんは解き終わったのだろう。
「はい、終了〜」
古びたタイマーの弱々しい音が教室に鳴り響き、佐々木さんが手をパンと叩く。
「叔父さん、これは問題選びが悪いよ。これ、知ってなきゃ解けないでしょ」
「確かにそう言われればそうかも。まあでも、解き方知った後にもう一回解答書いてもらえばいい。じゃあ、今から僕が採点するね。その間、翠ちゃんは日和さんに解説してあげて」
「はいはい」
余白だらけの解答用紙とびっしり真っ黒に埋まった解答用紙が回収される。翠ちゃんが教科書とノートを取り出して、私がノートを開くのを待つ。
「今回の加法定理の証明問題、これは有名な東大の過去問なの。結構昔だけどね」
「これが? 東大の過去問? いや、解けてないけどさ……」
「ね、そう思うよね。教科書に載ってる証明が東大で出題されるなんてってさ。でも結構東大はこういうこと多くて。なんていうか、世間にメッセージを発する問題みたいなのが出るんだよね。他にも、円周率は3.05以上であることを証明せよ、とか。これはゆとり教育で円周率は3と教えましょうみたいな流れに世間がなってた時、それに対する批判として出されたって言われてる」
「なるほど……」
「この問題は多分だけど、受験生に向けたメッセージじゃないかと思ってて。お前ら、難しい問題やるのはいいけど、基本ちゃんと抑えておけよ、みたいな?」
「さすが、日本一の大学なだけある」
尊大なことだ。でも、実際日本の教育を牽引する存在なのだから、それくらいでいいのだろう。
その後、翠ちゃんは三角比の用語の定義から加法定理の導出まで丁寧に説明してくれた。
「大事なのは、ある値を2通りの異なる方法でアプローチして表してみること。そうしたら、それ同士をイコールで結べて、大抵新しい式が出てくる。証明だと結構このやり方多いから、意識してみるといいよ」
結局、x軸の右半分は始線と呼ぶらしい。これが単位円上で角度を測る際の基準となる。それで、始線から角アルファと角ベータだけ左回転した動径に対する単位円上の点をP、Qと置いて、線分PQの長さを2通りの方法で表すのだそうだ。
「そんなの、思いつかなくない? どうすればいいの?」
「いい質問じゃん。だからあたし、さっき知ってなきゃ解けないって言ったの。東大受験生の間では、知っていて当然、みたいな問題があるのよ。ちょっとずつ覚えていけばいい。そのために、今勉強してるんだから」
「そうなんだ。わかった」
佐々木さんが赤ペンを置いて、顔を上げた。渡された解答用紙には、どの部分で点数が入るかが丁寧に記されている。私のは8点、翠ちゃんのには19点。20点満点だから、どこかで1点減点されているようだ。
「まず、翠ちゃん。サインとコサインの書き間違いだね。時間余ってたんだから、そういうケアレスは見つけないと」
悔しそうに翠ちゃんの顔が歪む。
ああ、私は19点なんか取ったら喜んでしまう。見ているところが違うんだ。
「次に日和さん。さっき翠ちゃんから説明があったと思うけど、これは東大受験生の中では有名な『知っておくべき問題』だ。解法を理解して、要点を掴んだ上で、覚えておこう。丸暗記はダメだからね」
「はい」
「解答は理解できた? そしたらもう一回20分測るから、自力で解答書いてみて」
もう一回? 書き直しということだろうか。そんなの意味あるのか? 次の日とか、一週間後とかに解き直した方がいいのではないか。すぐ後に解き直して、できるようになるの?
「ちゃんと正しい解答を書けるようになったかどうか、確認してみないといけないし、そもそも書くスピード勝負だったからね」
「それは叔父さんの問題選びが悪かっただけだけどね。まあでも実際、すぐ解答書き直すのは大事だと思う」
佐々木さんがまた新しい解答用紙を渡してくる。タイマーが20分にセットされ、はじめ、という言葉と共にまた数字が降り始めた。
先ほど翠ちゃんに言われたことを自分で言葉に直す。その中で、だんだんと佐々木さんの意図に気づく。
——そうか、一から自分の言葉で説明するのって難しいんだ。それに、減点されないように間違えないように気を遣いながら、採点官にとってわかりやすい解答を書くのは本当に大変だ。内容に時間をかけるために、文字を書くのに時間をかけている暇はない。確かに、書くスピードが大事だ。
結局、20分経っても解答は書き終わらなかった。どうすればいいんだっけ? と途中で手が止まることのどれほど多いことか。
これまでの意識じゃ全然足りないんだ。まったく届かない。もっと、速く正確に。確実に獲りに行かないといけないんだ。シャーペンのグリップを強く握り直した。
「めっちゃキツかった。よくあんなのずっと続けてるね」
「じゃあ、やめる?」
「ううん、やめない」
「いいね」
日曜日のノルマが終わり、佐々木さんとの面談が終わった翠ちゃんに2階に連れて行かれ、3人の面談が始まった。午前中にお母さんと佐々木さんと行った三者面談とさほど雰囲気は変わらない。翠ちゃんが保護者ヅラをしているせいだろう。
色々相談しながら、次の週の計画を立てていく。
「日和さんの苦手な科目は、物理なんだよね?」
「そうです。基本問題はまあまあなんですけど、難問になると突然手が出なくなってしまって……」
「物理苦手な人あるあるじゃん」
「ちょっと翠ちゃんは黙ってて。日和さんが可哀想でしょ」
佐々木さんと翠ちゃんは叔父さんと姪っ子という関係の割には結構仲が良く、よく言い合っているのを聞く。
「そういえば……学校ではタブレットを使って勉強しているけど、受験勉強にはタブレットは使わないんですか?」
ふと、疑問に思ったことを聞いてみる。最近は文科省の方針とかなんとかで一人一台の情報端末が導入され、課題は基本タブレット経由で配信、画面に直接解答を入力して提出するスタイルだ。でも、塾にある機械と言ったら、コピー機と佐々木さんのPCだけ。最初に入った時から、この塾はどこか違和感があったが、きっと時代遅れ感があったのだろう。匂いも古めだし。
「いい質問だね。受験に向けてはね、タブレットより紙で勉強した方がいいんだよ。なんでだと思う?」
佐々木さんが腕を組んで質問してくる。
「なんでって……集中できるから……?」
紙の方が集中力が高いとかなんとかって研究結果が出ていたと聞いたことがあるような?
「まあそれも合ってるんだけど、もっと大きな理由があるんだ。はい、翠ちゃん、説明して」
なんであたしが、と口を尖らせた後、翠ちゃんは説明を始めた。
「受験本番は紙で解くから。問題用紙も解答用紙も紙。シャーペンや鉛筆で解答を素早く書いていかないといけない。タブレットに慣れると、どうしても感覚が違うから、本番戸惑っちゃうよ。——そうでしょ、叔父さん」
「正解。いずれその辺も時代に合わせて変わっていくとは思うんだけどね。ただ、今はまだ試験は紙で行われるんだ。感覚をそれに合わせておかないとね」
「なるほど……」
この一週間で実感したことがある。受験勉強は本当に奥が深いのだ。何も知らずになんとなく課題だけやっていた時とは全然違う。何も知らないで受験に臨んでいたら、本当に悲惨なことになっていただろう。
「そういうわけで、問題解く時は絶対ノートにやってね。特に数学物理化学の解答書く練習はタブレットなんてもってのほか。ただでさえ、東大の試験は時間が足りないことで有名なんだ。鉛筆で早く読める文字を書けるようになるのも大事なんだよ」
「わかりました、そうします」
隣の黒髪の美少女を見ると、ニヤリと笑ってこちらを向いた。
「じゃあ書くスピード勝負しようか」
「はい?」
いつだって、この人は突然変な誘いをしてくる。やっぱり、友達付き合いが下手なのかな。
「いいじゃん、数学の問題と解答用紙、僕が今からコピーしてくるよ」
「え? いや、それって書くスピードじゃなくてただの問題解くスピード勝負では……」
「まあまあ、別になんでもいいじゃん。公式の証明とか基本問題でいいよ」
あれよあれよという間に問題とそれっぽい解答用紙が渡され、20分を表示したタイマーがホワイトボードに置かれた。佐々木さんが教卓に両の手をついて、準備はいいかい? と聞く。
「その解答用紙、東大の入試の解答用紙に極限まで寄せているものなんだ。サイトからコピーできるから、いつでも使ってね。——というわけで、じゃあ最低限の筆記用具だけ机に置いて、僕がはじめと言ったら解答開始だ」
解答用紙はA3サイズ。青い太線で囲まれた解答欄を自由に使えるようだ。
緊張感を感じる間もなく、愛用のシャーペンと消しゴムを机に置いて佐々木さんの方を見る。ほぼ同時に翠ちゃんも準備を終えたようだ。
「はじめ」
タイマーがスタートされ、1秒ずつ数が減り始めた。問題用紙を表に返して、問題文を読む。いや、読むほどのものでもなかった。小問の1問目、すなわち(1)は三角比のサインとコサインの定義を聞く問題、(2)はそれを用いて加法定理を証明せよ、という問題だった。
加法定理とは、角の和や差における三角比を計算で求められるようにした公式で、「咲いたコスモス、コスモス咲いた」「コスコスサインサイン」などの語呂合わせで覚えるようによく言われる。後者なんて語呂合わせですらない。そのまま覚えるのとあんまり変わらないんじゃないの? とか思う。
それの、証明……? あれ、どうすればいいんだろう? とりあえず、(1)だけは書かないと。
隣からはカリカリとシャーペンを動かす音が聞こえてくる。翠ちゃんはもう解き始めているんだ。
ひとまずサインとコサインの定義を説明しようと、問題用紙に一旦単位円を描く。θを適当に決めて、sinθとcosθが何を意味しているのかを考えてみる。いつも感覚でサインはy座標、コサインはx座標、と思っていたけど、多分それだけでは足りない。いわゆる「減点される解答」になってしまう。
学校の先生曰く、数学という科目は解答を上から順番に読んでいって、途中で間違えている部分があったら、そこで採点が終了してしまうのだそうだ。つまり、答えを出していても、途中で計算を間違えたらそこまでしか部分点は入らない。だから、いかに正しい解答を書き続けるか、採点が終わる可能性を減らすか、そしてわかっている情報を前半に持ってくるかが勝負になるのだ。
まずはθを正しく定義しないといけない。x軸の右半分ってなんて言うんだっけ? 単位円に点を置いてそれをPとかって名付ければいいのはなんとなくわかる……OPを動径っていうのも聞いたことがある。
え? これ、無理では? 何を書けばいいのか、さっぱりわからない。タイマーをチラ見すると、いつの間にか半分に減っている。
結局、私はなんとなくの解答を書いただけで終わってしまった。15分くらいのところで、隣からシャーペンをコロンと転がす音が聞こえたから、きっと翠ちゃんは解き終わったのだろう。
「はい、終了〜」
古びたタイマーの弱々しい音が教室に鳴り響き、佐々木さんが手をパンと叩く。
「叔父さん、これは問題選びが悪いよ。これ、知ってなきゃ解けないでしょ」
「確かにそう言われればそうかも。まあでも、解き方知った後にもう一回解答書いてもらえばいい。じゃあ、今から僕が採点するね。その間、翠ちゃんは日和さんに解説してあげて」
「はいはい」
余白だらけの解答用紙とびっしり真っ黒に埋まった解答用紙が回収される。翠ちゃんが教科書とノートを取り出して、私がノートを開くのを待つ。
「今回の加法定理の証明問題、これは有名な東大の過去問なの。結構昔だけどね」
「これが? 東大の過去問? いや、解けてないけどさ……」
「ね、そう思うよね。教科書に載ってる証明が東大で出題されるなんてってさ。でも結構東大はこういうこと多くて。なんていうか、世間にメッセージを発する問題みたいなのが出るんだよね。他にも、円周率は3.05以上であることを証明せよ、とか。これはゆとり教育で円周率は3と教えましょうみたいな流れに世間がなってた時、それに対する批判として出されたって言われてる」
「なるほど……」
「この問題は多分だけど、受験生に向けたメッセージじゃないかと思ってて。お前ら、難しい問題やるのはいいけど、基本ちゃんと抑えておけよ、みたいな?」
「さすが、日本一の大学なだけある」
尊大なことだ。でも、実際日本の教育を牽引する存在なのだから、それくらいでいいのだろう。
その後、翠ちゃんは三角比の用語の定義から加法定理の導出まで丁寧に説明してくれた。
「大事なのは、ある値を2通りの異なる方法でアプローチして表してみること。そうしたら、それ同士をイコールで結べて、大抵新しい式が出てくる。証明だと結構このやり方多いから、意識してみるといいよ」
結局、x軸の右半分は始線と呼ぶらしい。これが単位円上で角度を測る際の基準となる。それで、始線から角アルファと角ベータだけ左回転した動径に対する単位円上の点をP、Qと置いて、線分PQの長さを2通りの方法で表すのだそうだ。
「そんなの、思いつかなくない? どうすればいいの?」
「いい質問じゃん。だからあたし、さっき知ってなきゃ解けないって言ったの。東大受験生の間では、知っていて当然、みたいな問題があるのよ。ちょっとずつ覚えていけばいい。そのために、今勉強してるんだから」
「そうなんだ。わかった」
佐々木さんが赤ペンを置いて、顔を上げた。渡された解答用紙には、どの部分で点数が入るかが丁寧に記されている。私のは8点、翠ちゃんのには19点。20点満点だから、どこかで1点減点されているようだ。
「まず、翠ちゃん。サインとコサインの書き間違いだね。時間余ってたんだから、そういうケアレスは見つけないと」
悔しそうに翠ちゃんの顔が歪む。
ああ、私は19点なんか取ったら喜んでしまう。見ているところが違うんだ。
「次に日和さん。さっき翠ちゃんから説明があったと思うけど、これは東大受験生の中では有名な『知っておくべき問題』だ。解法を理解して、要点を掴んだ上で、覚えておこう。丸暗記はダメだからね」
「はい」
「解答は理解できた? そしたらもう一回20分測るから、自力で解答書いてみて」
もう一回? 書き直しということだろうか。そんなの意味あるのか? 次の日とか、一週間後とかに解き直した方がいいのではないか。すぐ後に解き直して、できるようになるの?
「ちゃんと正しい解答を書けるようになったかどうか、確認してみないといけないし、そもそも書くスピード勝負だったからね」
「それは叔父さんの問題選びが悪かっただけだけどね。まあでも実際、すぐ解答書き直すのは大事だと思う」
佐々木さんがまた新しい解答用紙を渡してくる。タイマーが20分にセットされ、はじめ、という言葉と共にまた数字が降り始めた。
先ほど翠ちゃんに言われたことを自分で言葉に直す。その中で、だんだんと佐々木さんの意図に気づく。
——そうか、一から自分の言葉で説明するのって難しいんだ。それに、減点されないように間違えないように気を遣いながら、採点官にとってわかりやすい解答を書くのは本当に大変だ。内容に時間をかけるために、文字を書くのに時間をかけている暇はない。確かに、書くスピードが大事だ。
結局、20分経っても解答は書き終わらなかった。どうすればいいんだっけ? と途中で手が止まることのどれほど多いことか。
これまでの意識じゃ全然足りないんだ。まったく届かない。もっと、速く正確に。確実に獲りに行かないといけないんだ。シャーペンのグリップを強く握り直した。



