次の日の授業は少しだけ真面目に受けてみた。内容はちゃんと頭に入っているか微妙だけど。とりあえず翠ちゃんがやっているように、先生の言葉や黒板の文字を一字一句逃さないように真剣に受けてみた。正直眠かった。
 でも、真面目に聴いてみるとほんの少しだけ見える世界が違う。先生たちが一生懸命工夫して楽しませよう、眠くならないようにしようと努力しているのが見えるのだ。
 これを受験まで続けるのは大変かもしれないけど、いつもと違う世界は面白いものだ。

 西日が教室を照らし始め、終業のチャイムが校内に響き渡る。何万回と繰り返し聴いた音は、少し新鮮に聞こえた。日が少しずつ長くなっているのを感じる。

「今日、叔父さんのとこで勉強するんだけど、来る?」

 また、当たり前のように翠ちゃんが話しかけに来た。懲りないな、と思うけど、今日の私はこの前までとは違う。向こうから来てくれなかったら、こちらから声をかけようと思っていたくらいだ。

「翠ちゃん。私、東大目指してみる。やってみるよ。だから、佐々木さんのとこ、行こう」

 切れ長の真っ黒い瞳をまっすぐ見つめて、宣言する。
 もう、後戻りはできない。いや、そんなこと、しない。前に進むだけだ。

「——待ってたよ」

 薄い唇の端を少し持ち上げて、翠ちゃんは爽やかにそう言った。
 荷物をまとめて、一緒に教室を出る。輝くオレンジ色の光が、明確な第一歩という感じがした。

 塾にたどり着くと、佐々木さんが出迎えてくれる。「僕の勝ちだね」なんて言われて、この人はどうしてこんなにも人をムカつかせるのが上手いんだろうと思った。断っているのに懲りずに声をかけてくる翠ちゃんもそうだけど、やっぱり似ているのかもしれない。

「叔父さん、上の教室、借りていい?」
「いいけど、小学生クラスの授業までには切り上げるんだよ」
「17時50分だっけ? わかってるよ」

 翠ちゃんは私を連れて階段を上っていく。一緒に勉強するのだろうか。でも、何をやったらいいのか全然わからない。とりあえず、課題でもやればいいかな。
 この間は緊張していたのか、あまり気づかなかったけど、教室は古びた旅館みたいな匂いがした。どこか懐かしくて、安心するような。

「はい、じゃあそこ座って」

 何を始めるのだろう。翠ちゃんは机を動かして私の向かい側に座り、カバンからスケジュール帳を取り出す。地味な真っ黒のクリップが挟んであるページには、今週の日付が書いてあり、何やら真っ黒に埋め尽くされていた。よく見ると、その日ごとのノルマを書いているようだ。

「今はどんなふうに勉強してるか、教えて。東大受験用に全部組み替えてあげるから」
「え?」
「じゃあ、私の一週間を先に説明しようか? まず、毎週日曜日に叔父さんと面談するのね。その時に、事前に立ててきた計画表を見せて評価してもらうの。東大に入るためには何をやるべきかはだいたい決まってるから、それに沿って終わるように計画を立てるんだけど、そこはもっとこうした方がいいとか、こんな量はできないとか、第三者に見てもらった方がいいんだよね」

 翠ちゃんは一週間の予定について詳しく教えてくれた。月曜日から土曜日まで、数英は毎日、物理と化学は隔日で交互に触れて、現代文と古文漢文は週2つずつ長文読解。日曜日は単語などの最低限の勉強に加えて、その前日までに終わらなかったノルマを消化する「予備の日」なのだそうだ。
 1日の生活リズムも丁寧に説明された。毎朝同じ時間に起きて、朝食を食べる前に1時間勉強。放課後はすぐにこの塾に来て、お腹が空くまでぶっ続け。飽きたら科目を変えるのだそう。ご飯を買って食べてからさらに自習し、家に帰ったら単語帳や暗記ノートを眺めるだけ。そして毎日同じ時間に寝るのだと言う。彼女曰く、睡眠時間を削ったら終わりなんだそう。
 自分とはまったく異なる規則正しい生活に、完璧に決められたノルマ。これが理三志望か。わかっていたけど、現実を突きつけられると正直どうすればいいかわからなくなってしまう。圧倒されるしかない。

「こんな感じ。割と理想の受験生生活だと思うんだよね。これを目標としたとして、日和さんには何が足りないと思う?」
「……何もかも違いすぎるよ。そもそも、私学校の課題以外何もやってないし」
「思考放棄しない! まずは思考体力をつけるところからだよ。東大の問題は分析、要点把握が大事なの。はい、何が違うか分析して」

 偉そうに、と思う自分もいるが、ここまでの違いを見せつけられて、偉そうにしないでくれなんて言えない。だって、実際偉いもん。
 何が違う? 私はまず何を変えればいい?

「うーん……まずは生活リズム一定にしないといけないと思う。朝はギリギリに起きて慌てて準備するし、帰ってからはすぐ寝ちゃったり夜更かししたり、日によって寝る時間全然違うから」
「うん、いいじゃん。それで?」
「何をやればいいかがわかんないから、まずは道筋を立てた方がいいのかなって思う。佐々木さんはこの間、東大は日本で一番、合格までの道筋が明らかになってる大学って言ってたけど、私はそれを知らない」
「いいね。じゃあ、あたしが説明しよう。叔父さんの受け売りだけど」

 翠ちゃんはなんだか楽しそうだった。でも、こんなことしていて、大丈夫なのかな? やっぱり私なんかに勉強のやり方とか教える時間って無駄なんじゃないのかな。

「あのさ……いいの? 翠ちゃんの貴重な勉強時間奪っちゃってるけど」
「あたしがやりたくてやってるの。切磋琢磨する相手? みたいなのがほしくて」

 私をまっすぐ見つめる翠ちゃんの瞳の奥には、青くて静かな炎が宿っているような気がした。

「まずは参考書ルートから話そうか。東大に受かる実力をつけるために、各科目でこの問題集たちを順番にクリアしていけばいい、みたいな道筋があるのね。叔父さんは多分それを『合格までの道筋』って表現したんだと思うんだけど」
「あ、ちょっと待って。メモするから!」

 どんどん話を進めていく翠ちゃんを止めて、私は慌ててノートを取り出した。私の準備が整ったのを見て、薄い唇がいろんな問題集の名前を紡ぎ出す。

「こ……こんなにやらなきゃいけないの!?」
「そりゃあね。大変ではあるけど、努力の方法がわかってるだけやりやすくない?」
「確かにそうかも」

 問題集は塾に置いてあるものを使っていいらしい。他に使う人がいなければ、借りて持って帰ることもできるようだ。ただでさえ塾にお金を注ぎ込むことになるのだから、そのシステムはありがたい。
 とりあえず日曜日までの計画を立ててみようということになって、ノートに表を作り始めた。問題集を本棚からどっさりと運んできて、一冊一冊目次と中身を見ながらこの一週間で進める量を考える。さらに、それを6日に分割して土曜日までのノルマを決める。もちろん、その日ごとの予定と照らし合わせながら、だ。幸い、最近は友達のうちほとんどが部活やら塾やらで忙しく、遊びの予定は入っていなかったため、平日は均等に分割することができた。
 これから、遊べなくなってしまうかもしれない。友達に付き合いが悪いと言われるかも。翠ちゃんと一緒にいることが増えれば、きっとなおさらそうだ。どうしてあの一匹狼と? とみんな疑問に思うに違いない。
 でも、やってみたい。
 どうやら、私は翠ちゃんの瞳の奥の炎に共鳴してしまっているみたいだ。

「おーい、そろそろ小学生の授業あるから、続きは自習室でやってくれるか」

 そうこうしているうちに、佐々木さんが教材を持って2階に上がってきた。まだ日が落ちていないからそんなに時間は経っていないと思っていたが、意外とあっという間だったようだ。それだけ集中していたのだろう。
 私が何かにこんなに夢中になれるだなんて——そう思いかけて、すぐに打ち消した。まだまだだ、まだ計画を立てているだけで、勉強を始める段階にすら立てていないのだから。

「ごめん、叔父さん。今降りる」
「すみません……」
「いや、遮ってごめんね。——君なら来てくれると思ったよ」

 ——やっぱりこの人は少し苦手だ。