数学の問題集を開く。理系クラスは今、数Ⅲの極限の単元を進めている。数式の中のhがある値に限りなく近づくとき、数式全体がどの値に近づいていくのか。それを計算する問題たちが並ぶ。hが0に近づくとき、その点で関数が連続であれば、hに0を代入して計算して出た答えが極限らしい。そんなのありなの? 限りなく近づくけどその値にはなりません、とわざわざ説明されているのに、代入しちゃっていいだなんて。
 まあ、きっと頭のいい人が考えているんだから、合っているんだろう。
 ふとした時に手が止まって、佐々木さんの言葉がよみがえる。本当に私が東大に受かると信じているような口ぶりだった。経営者だし、営業トークが上手いだけかな。でも、挑戦することへの恐怖よりも、今こそ変わるべきなんじゃないか、という気持ちが大きくなってきている。
 やってみても、いいかもしれない。まだ諦めどきはあるんだし、とりあえず目指してみてもいいかも。
 最近はこんな感じで、やってみてもいいかもな、と思うことが多いような気がする。全部翠ちゃんから始まっているんだ、そう思うとちょっと癪だ。

 カバンからまだ白紙の進路希望調査用紙を取り出す。学校での面談を踏まえて、志望校を書いて提出しなければならない。とりあえず名前や席次だけ書いて、ペンを転がした。
 志望校の欄としばらく睨めっこして、またシャーペンを持つ。くるくると回して、筆圧を極限まで下げて、「東京大学理科三類」と書いてみる。でも、恥ずかしいと思って消しゴムで真っ白に戻す。
 何回これを繰り返しただろうか。志望校の欄は徐々に薄汚れて、消しゴムを使っても元には戻らなくなってきた。たまに窓の外を眺めると、さっきは遠くにあった雲が通り過ぎて消えて行ってしまった。
 でも、何度も書いているうちに、覚悟が固まってきたような気がする。こういうのって何て言うのだろう? 自己暗示?

「……書いてみるか」

 もう一度、同じ文字を書く。また消しゴムを持ちかけて、それを理性で止める。
 やってみよう。変わろう、そろそろ変わろう。頑張ってみないと。きっと、今を逃したら一生このままだ。そんな気がする。これは消さないで出そう。笑われても、無理だと言われても、とりあえずスタートラインに立ってみよう。
 できなかったら、佐々木さんのせいにすればいい。そうだ、この変化の責任は私にはない。翠ちゃんと佐々木さんが背負うべきだ。どう考えても私じゃない。責められる筋合いなんかないはずだ。だから、大丈夫。
 そんなひどいことを考えると、少し笑えてきた。まったく、突然東大を目指させるだなんて、佐々木さんも翠ちゃんもそっくりだ。きっとそういう血が流れているんだろう。

 ちょっとぐしゃぐしゃになりかけた紙を持って、お母さんの元へと向かう。
 三者面談で親子の意見が食い違って、子どもが教室を飛び出す、なんてドラマみたいなことが起こらないように、うちの学校は進路希望調査用紙に保護者がサインしなければならない。できることなら、誰にも見せないで直接学校に出したいけど、いや、もはや提出もしたくないけど、そんなことは許されない。

 「……お母さん。これ、サインしてほしい」

 普段使わない勇気を全身からかき集めて、なんとか言葉にする。今日は休日だからお父さんも家にいて、なんだか余計緊張してしまう。お母さんはスリッパで近づいてきて、紙を受け取り、中身に目を通した。その間が何分にも感じられる。

「え? 日和、東大受けるの!?」

 想定通りの驚いた声に、一周回って安堵してしまった。今まで何もやる気がなかった、普通の高校で成績が平均くらいの普通のJKが、突然志望校に東大と書いたのだ。驚くのは当たり前だ。
 お母さんの声にお父さんも反応して、なんだなんだと紙を覗きに来る。弟がいなくてよかった。いや、いてくれた方が茶化してくれたかもしれないけど。

「ええ? 日和が東大? しかも理三? ムリだろ」

 お父さんは文字を見た瞬間に弾けるように笑い出した。わかっていた、笑われることなんて。想定もしていた。でも、この数日の考えも、さっきの書いては消しての繰り返しも、いや、そんなことよりずっと変わりたくても変われなくて逃げてきたこれまでのすべてを、今の一言で全否定された気がした。
 悲しいとかショックとか、そんなものを自覚する間もなく、反射的に答えてしまう。

「ムリなんて決めつけないで! 私は本気だから」

 口に出して気づく。ああ、私は本気なんだ。頑張ろうと思っているんだ。
 翠ちゃんと佐々木さんに火をつけられてしまった。心臓に灯る、青く燃える炎を今、確かに自覚した。

「でも、本当に難しいと思うよ……大変なんじゃない? 近い大学でいいじゃない」

 お母さんが心配そうに言う。

「うん、難しいのはわかってるよ。でも、やってみたい。だから、お母さん。この間の佐々木進学塾っていうところに入りたいの」

 突然の話にお母さんは困惑しているようだ。お父さんは反発されたことに怒っているのか、リビングのソファに戻ってしまった。

「お願い、お金かかると思うけど、どうしてもやりたい」
「それはいいけど……」

 未来は見えない。確かなものなど何ひとつない。それはさっきやった極限みたいに、今と連続してはいるけれど、地続きだけれど、その先のことは予想するしかない。それでも、未来から目を背けずに挑み続けることが大事なんだ。
 ——こうして、熱い熱い私の青春が始まった。