結局、いつも通り過ごしている。全部が普通で、私は平々凡々で何ひとつずば抜けていなくて、だから、何も新しいことはしない。
 でも、そう思い直しているのに何度も何度も、翠ちゃんが頭に浮かんでくる。
 ——東大、一緒に目指さない?
 去り際に渡された塾のチラシを眺める。佐々木進学塾。中学のとき、通っている友達がいたような、いないような……とにかくあまり知られていない個人経営の塾なのだろう。
 まあ別に、東大を目指すかどうかはともかく、塾くらいは行ってみてもいいか。いずれどこかの大学には入らないといけないんだし、医学部を目指しているくらいだし、一応勉強しておいた方がいいのだろう。
 なんとなくそう思った私は、特に明確な目的があるわけでもなく、とりあえずお母さんに相談してみることにした。

「今日、友達にね、佐々木進学塾っていうところのチラシをもらったの。これなんだけど。ほら、私、一応医学部志望じゃん? だから、ちょっと体験くらい行ってみようかなって思って……どうかな」
 
 食卓を囲むのは今日も3人。今日は脂が乗った焼き鮭が長角皿に横たわっている。いつも通り、美味しい。

「へええ。あんまり聞いたことないところだけれど、一回行ってみるのはいいかもね」
「そうかな。じゃあ土曜にでも行ってみようかな」
「いいと思うよ。お母さんもついていこうか?」
「えー、大丈夫だよ。一人で行ってくる」

 お母さんは嬉しそうにしている。どうしてか聞くと、私がやっとやる気になってくれて嬉しいと言っていた。別に、やる気になったわけではない。一応、やっておこうかな、というくらい。でも、お母さんが喜んでいるし、少しは真面目に考えた方がいいかも、なんて思った。

「姉ちゃん、今年受験生なのに全然勉強してないじゃん、大丈夫なの?」

 弟がやかましく口を挟んでくる。

「だから塾に行ってみるんでしょ! あんただってろくに勉強してないじゃない」
「俺は別に成績いいし」
「嘘つけ! 学年末ひどかったじゃん」

 わいわいギャーギャー。これが私の家だ。いつも通り。安心する。

 ✳︎✳︎✳︎

 土曜日。チラシの地図を見て、迷いながらもなんとか塾にたどり着く。住宅街の中に埋もれている、目立たない塾だった。一軒家をそのまま塾にしているらしく、玄関のチャイムを鳴らすと、30代くらいの男の人が出てきた。

「いらっしゃい。体験希望かな?」
「はい。みど……九条さんにチラシをもらって」
「翠ちゃんの紹介か! 珍しいね。入って入って」

 靴を脱いで中に入ると、向かって左側に2部屋あり、片方はフローリングで小学生が数人宿題らしきドリルを解いていた。もう片方は畳の部屋だが、普通に椅子と机が置いてあり、中高生と思しき数人が勉強している。その中に見知った、最近よく見る顔を見つけた。

「翠ちゃん……」

 私のつぶやきが聞こえたのかどうかはわからないが、翠ちゃんは私の存在に気づくと立ち上がってこちらに向かってきた。私を一瞥すると、男性と話し始める。

「翠ちゃんが紹介してくれたんだって?」
「うん。来てくれるとは思わなかったけど」

 一度誘いを断っているため、私としては少し気まずいが、翠ちゃんはそんなこと気にしないみたいだ。
 こちらをチラリと見たときを狙って、気になったことを聞いてみる。

「ここに通ってるの?」
「いや、自習スペースを借りてるだけ。その人、私の叔父さん」
「え?」

 塾長らしき男性を指さして、翠ちゃんは確かにこう言った。

「実は、ね。姪っ子が東大を目指していると言うからには、貸してあげないわけにはいかないじゃないか」

 塾を経営しているくらいだ、きっとこの人も翠ちゃんと同じで頭がいいのだろう。そういう血筋なのだろうか。

「じゃあ、きみは2階の教室で面談だ。翠ちゃんはちゃんと集中してやるんだよ」
「言われなくても」
 
 翠ちゃんは席に戻って、何事もなかったかのように勉強を再開した。
 私は男性に連れられて2階へと続く階段を上る。そこには机と椅子が並び、前には教卓とホワイトボードがあった。1階とは打って変わって紛れもない塾の様相をしている。少しだけ気が引き締まった。

「そしたら、そこの席座ってもらって。向かい、失礼するね」

 教卓の目の前の席を指差し、男性自身は教卓の向こう側のキャスター付きの椅子に座った。失礼します、と小さくつぶやいて座る。

「僕は塾長の佐々木。基本的にこの塾を一人で回してるよ。よろしく。——単刀直入に聞こうか。どこの大学を目指してるの? 翠ちゃんが連れてきたってことは、高3なんだよね?」
「はい。……医学部志望なんですけど、大学は決めてなくて。行きたい大学とかよくわかんないし……そんな時に翠ちゃんからチラシもらって、塾くらいは行っておいた方がいいのかなって」
「そっかそっか。もしかしてだけどさ、翠ちゃんに東大行こうとか言われた?」

 少し笑いながら問いかけてくる。図星でどきっとする。

「そうだと思ったんだ。翠ちゃんはライバルが欲しいんだろうからね」

 まだ何も言っていないのに、佐々木さんは納得したようにうなずく。なんだか食えない人だ。

「で、どう思ったの? 誘われて」
「え……いや、私には無理だと思います。成績も普通ですし、平凡な私なんかが東大に入れるわけない」
「なるほどね——平凡、ね」

 佐々木さんは窓の外を眺めて遠い目をする。パイプ椅子が少しぐらついていて落ち着かない。

「じゃあ、旧帝大医学部とかにするの? いずれにせよ難関大ではあるけど」
「……わかりません」
「まあ、わかんないからここに来たんだもんね。そりゃそうだ。じゃあ、僕が決めてあげよう」

 佐々木さんはこちらを向いてニヤリと笑った。切長の目がほんの少しだけ、翠ちゃんと似ているような気がしないでもない。

「ひとまずの目標を東大にしよう」

 は?
 数秒間、しっかりフリーズした。成績も見ていないのに、最難関を勝手に指定してきた。この人は本当に塾長なのか? こんなことをしていて、人は辞めていかないのだろうか。翠ちゃんとやっていることが同じだ。

「え、いや、意味わかんないんですけど……」
「うーん、でも、君そのままだと何も決めないままダラダラ過ごして、いつの間にか受験迎えちゃうよ? 目標を高く持つのはいいことだし、もう3年生とはいえ、まだ5月なんだ。一旦努力してみて、夏休みの模試で考え直すでもいいわけで」

 変わるのは怖い。東大を受けるなんて大きな変化すぎる。静かな水面を保ってきた私の人生に、突然重たい岩を投げ入れるようなものだ。怖い、嫌だ。現状維持が一番なんだから。これまでだって、それでやって来られたじゃないか。
 でも、佐々木さんの言葉はなぜか説得力があって、ほんの少しだけ輝いて聞こえた。この人についていけば、もしかしたら。そんな希望がほんの一瞬だけ、銃弾みたいに頭をぶち抜いた。
 いや、そんなわけない。私が東大を目指す? やっぱり何度考えても馬鹿馬鹿しい。おだてられてできるようになるお子様じゃないのだ。舐められては困る。私だって現実くらい見ることができる。

「君さ、挑戦するのが怖いんでしょ? 迷ってるのが伝わってくるよ」
「そ、そりゃそうですよ! 私なんかが東大なんて、無理に決まってる。こんな成績で東大目指すだなんて、バカのやることです。道筋も見えないような努力はしたくありません。別に、大学なんてどこだっていい」
「道筋が見えない努力、か。そう考えるなら、東大は一番道筋が見えてるよ」

 帰りたくなってきた。調子に乗せて入塾させようと思っているのだろう。生徒も少ない個人経営の塾なのだ。人を一人でも確保しようと必死なんだ、きっと。

「東大は、日本一の最難関だ。でも、だからこそ、日本中の予備校が毎年の入試問題に注目している。東大の合格者数はそのまま塾の信頼に関わるんだ。どの塾も合格者を出すためのルートをたくさん研究してる。だから、東大は日本で一番、合格までの道筋が明らかになっている大学なんだよ。何も見えていない、大学なんて何もわからないという君にはピッタリだと思う」
「そんなのスタートラインに立ってからの話で、私はそこに立ててすらいないんだから、無理ですよ! 翠ちゃんならまだしも……。それに、そうやって合格者を増やして、この塾の信頼を高めようとしてるだけなんじゃないですか?」
「それはそうだよ。僕は塾の経営者だからね。でも、それで君は志望校が決まるし、ウィンウィンじゃないか。僕は君を落とすつもりはないよ。それに、スタートラインに立ってないなんて、君が勝手に思ってるだけだ。誰だって立とうと思えば立てるんだよ、そんなの」
「屁理屈に聞こえます……。合格の保証なんてできないのに、それで私の人生が壊れるかもしれないのに?」
「別に断ってくれてもいいんだよ。それに、東大を目指してさえいれば、他の大学に切り替えた時も楽だからね。直前に変えればいい。確かに合格の保証はないけど、人生が壊れる保証もないよ」

 おかしい。普段の私はこんなにはっきりとものを言う性格なんかじゃない。どうも、この佐々木さんに煽られているようだ。
 どうして? どうして私はこの人につっかかっているんだろう。これじゃあ、ずっと変われなかったのを言い訳しているみたいで惨めだ。

「東大を目指すなら、塾代は半額にしよう。まあ、その辺りは保護者の方としゃべらないとだけど。サービスするよ、僕が言い出したんだからね」

 怪しい。ものすごく怪しいのに、100%受かると信じていそうな佐々木さんの様子に、心が揺らいでしまう。言い訳もすべて屁理屈で返されてしまって、退路がどんどん断たれていく。

「とりあえず、考えてみます。今日はありがとうございました」

 そう言って、ひとまず持ち帰ることにした。まだ言い訳して逃げようとしている頭とは裏腹に、心はもう決まっているような気もして、なんだか悔しかった。
 塾の自習室をチラリと見遣ると、翠ちゃんが真剣にペンを動かしていた。こちらの様子など、まるで気にしていないというように。
 帰り道、夏の匂いが少し暑い空気に乗って流れてくる。私はまだ、青い炎が灯りつつあることを知らない。