3月と言えど、まだ春はやって来ていない。雪国では4月に入ってもなお、雪が降る日があるくらいには春が来るのが遅い。卒業式だって、厚いタイツを履かないと震えながら終わりを待つことになってしまう。
受験を終えた私たちにとって、卒業式はもはや通過点に過ぎない。もっとも重要でもっとも大きなイベントが待っているからだ。合格発表。
東大の合格発表は毎年3月10日と決まっている。前は掲示板で現地に張り出されていた合格者番号も、コロナのパンデミック以後、12時にWEB上にて発表、という形式に移り変わった。
現在、3月10日午前11時55分、合格発表の5分前。
自宅で発表を拝むことにした私の結果を一緒に確認するため、PCの前には家族全員が一堂に会している。
「ちょっと、あんたは別に見なくていいでしょ!」
「なんでよ、俺だって見たいし。姉ちゃんが東大に受かるか落ちるか、運命の分かれ目でしょ? そんなの見たいに決まってんじゃん」
「落ちるなんて言わないで! 縁起でもないわ」
弟のムカつく発言も、緊張を紛らわせてくれるから一周回ってありがたい。
その間にも、運命の時は刻々と近づいてくる。
「あーもう、待たされてる時間が一番嫌だわ。もう決まってるのに、なんで出し惜しみするわけ?」
「仕方ないじゃん。知らないうちに発表されてるより全然マシでしょ」
「そりゃそうだけど……」
待っている時間は本当にもどかしい。もう合否は確定していて、不安に思っても緊張しても変えようがないのだけど、それでもどうしたってドキドキが収まらない。
「日和、あんた東大に恋してるんじゃないの」
「うへー、そりゃキモいわ。俺の姉貴、学歴厨?」
「お母さんも、言い方……」
でも、あながち間違っていない。受験生はみんな、志望校に恋しているんだと思う。それで、試験日に告白するんだ。私はこれだけあなたのことを想っていますって。でも、相性がいいとか悪いとか言われて、挙句点数までつけられて、OKされたりフラれたりする。OKされたとしても、入学者は自分以外にもいて、同時に付き合い出す。先輩たちにも手を出していて……って考えれば考えるほど、恋人としては最悪なようだ。やめておこう。
お父さんは緊張のあまり何もしゃべることができなくなっているようだ。
「あと3秒!」
「3、2、1!」
「ほら、リロードして、リロード!」
あっという間にその時刻はやってきた。WEBサイトをリロードすると、回線が混み合っているのか、しばらく待たされてしまう。もどかしすぎる。早く見せてよ。もう見ることができている人もいるんでしょう?
「日和、何番だっけ?」
「これこれ。A51122だよ」
PCの隣に置いてある受験票には、試験日に何度も繰り返し書いた私の受験番号が載っている。これがあったら、合格。なかったら、不合格。
「行けたよ!」
お母さんのはしゃいだ声に、ドキドキがさらに増す。そこには各科類ごとの合格者一覧のリンクが。理科二類を選んで、クリックする。今度はすぐにPDFが表示された。
ごくりと唾を飲み込む。探す時間ももどかしい。家族全員が黙り込んで、A51122の数字を探す。細かい数字を目で追いかける。あってくれ、あってくれ、私の数字。手を組んで必死で祈りながら、拡大したPDFをずらしていく。
「あ! あった!」
「え? どこどこ?」
「これ! え、合ってるよね? A51122……あった! ねえ、私……」
果たして、数字は確かにそこにあった。何度も見返して、間違いがないか4人で確かめる。感情が昂って、自然と涙がこぼれる。こちらを見たお母さんも目が真っ赤になっていた。ティッシュで目頭を押さえている。
「おめでとう、日和。本当におめでとう」
「すっげえ、本当に東大受かったじゃん。おめでとう!」
お母さんと弟はすぐに祝いの言葉をかけてくれる。いつもはムカつくけど、こういうときは本当にかわいい弟だ。
「ありがとう」
泣きながら、笑って感謝を述べる。
すると、しばらく放心していたお父さんが、やっとしゃべり出した。
「日和……本当に頑張ったな……おめでとう!」
「ありがとう、お父さん……」
努力は報われた。まっすぐ駆け抜けてきた道は、何も間違っていなかった。
何度も、私なんかが東大なんてって思った。またどうせ今回も変われないよって、ダメだよどうせって、囁いてくる悪魔もいた。毎日毎日同じサイクルでひたすら勉強するのは、楽しくもあったけど、やっぱり辛かった。しんどかった。
でも、——そうか。私は4月から、東大生なんだ。私、受かったんだ。
「ありがとう、お父さん、お母さん、翔太。本当にありがとう。合格できたのは、みんなのおかげです」
あふれてくる感謝の気持ちを、改めてしっかり伝える。こういうときじゃないと言いにくいし。
お母さんが優しく抱きしめてくれて、それを優しい瞳でお父さんと弟が眺めていた。
しばらく一緒に喜びを噛み締めて、学校と塾に合格の報告を入れる。担任はまさか私が合格すると思っていなかったようで、とても驚いていた。それはそうだろう、5月の段階で志望校すら決まっていなかったんだから。自分でも夢のようだ。
佐々木さんにはとりあえずメッセージで合格したとだけ送り、このあと挨拶に向かうことを伝えた。まだ積もっている雪の中を佐々木進学塾へと走る。荷物がないだけじゃなくて、心が軽いのもあって、どこまででも走っていける気がした。受かった状態で通る道は、これまで何度も行き来したはずなのに、とても新鮮に見える。
——翠ちゃんはどうだったんだろう。受かっていて欲しいな、科類は違っても、まずは駒場で一緒にキャンパスライフを送りたい。
チャイムを鳴らし、佐々木さんが出てくるのを待つ。
「日和さん! 合格おめでとう。僕は本当に嬉しいよ」
いつも通りの胡散臭いスマイルで出迎えてくれる。でも、佐々木さんのお祝いの言葉は素直に嬉しかった。
「あの……! 翠ちゃんは……?」
おそるおそる聞いてみる。自分が受かっている手前、直接聞くことはできなかったから。こうやって佐々木さんに聞くのは、なんだかずるいような気もするし、逃げていると思われても仕方ないんだけど、ここでもやっぱり結局受験は孤独な戦いなんだと思ってしまう。
「……落ちたみたいだ」
「そう、ですか……」
——そっか、落ちたんだ。ダメだったんだ。
何度も夢見た、思い描いたキャンパスライフががらがらと音を立てて崩れ落ちていく。
とりあえず入って、と言われて、2階に連れて行かれる。最初にここを訪れたときを思い出す。あのときは奥の部屋に翠ちゃんがいて、そのあとほとんど無理やり乗せられる形で東大志望になって……。
佐々木さんはどこか悲しそうだった。ずっと応援していたし、導いてきた姪っ子が落ちてしまったんだから。それなのに、引き入れられたとはいえ、翠ちゃんよりも後にやって来た私が受かってしまった。やるせないことこの上ないだろう。
左ポケットが振動する。何の通知だろうとロック画面を確認すると、翠ちゃんからメッセージが入っていた。心臓がきゅっと苦しくなる。
『合格おめでとう。あたしは落ちたけど、来年絶対そっち行くから、待ってて。』
その瞬間、もうダメだった。堪えていたものが限界を超えて、涙腺が決壊してしまう。
——ああ、落ちちゃったんだ。あの日々はもう終わったんだ。もう、戻ることのできないかけがえのない日々。
返す言葉が見つからず、ボロボロ泣きながらスマホを抱きしめる。佐々木さんがそれを気遣わしげに眺めている。
この1年の出来事が走馬灯のように流れる。ずっと一緒にやってきた、ぶつかるときは全力でぶつかった、大切な、大切なライバル。その背中を追いかけて、走り続けてきた。お互いの心臓を燃やす青い炎を、尊重し、その熱さに触れ、燃料を足し合い、灯し続けてきた。
——ありがとう、私の戦友。ありがとう、私たちだけの日々。
佐々木さんに精一杯の感謝を伝え、塾に最後の挨拶をする。
春を先延ばしにした翠ちゃんの背中を押すように、ふわふわと雪が舞い始めていた。
受験を終えた私たちにとって、卒業式はもはや通過点に過ぎない。もっとも重要でもっとも大きなイベントが待っているからだ。合格発表。
東大の合格発表は毎年3月10日と決まっている。前は掲示板で現地に張り出されていた合格者番号も、コロナのパンデミック以後、12時にWEB上にて発表、という形式に移り変わった。
現在、3月10日午前11時55分、合格発表の5分前。
自宅で発表を拝むことにした私の結果を一緒に確認するため、PCの前には家族全員が一堂に会している。
「ちょっと、あんたは別に見なくていいでしょ!」
「なんでよ、俺だって見たいし。姉ちゃんが東大に受かるか落ちるか、運命の分かれ目でしょ? そんなの見たいに決まってんじゃん」
「落ちるなんて言わないで! 縁起でもないわ」
弟のムカつく発言も、緊張を紛らわせてくれるから一周回ってありがたい。
その間にも、運命の時は刻々と近づいてくる。
「あーもう、待たされてる時間が一番嫌だわ。もう決まってるのに、なんで出し惜しみするわけ?」
「仕方ないじゃん。知らないうちに発表されてるより全然マシでしょ」
「そりゃそうだけど……」
待っている時間は本当にもどかしい。もう合否は確定していて、不安に思っても緊張しても変えようがないのだけど、それでもどうしたってドキドキが収まらない。
「日和、あんた東大に恋してるんじゃないの」
「うへー、そりゃキモいわ。俺の姉貴、学歴厨?」
「お母さんも、言い方……」
でも、あながち間違っていない。受験生はみんな、志望校に恋しているんだと思う。それで、試験日に告白するんだ。私はこれだけあなたのことを想っていますって。でも、相性がいいとか悪いとか言われて、挙句点数までつけられて、OKされたりフラれたりする。OKされたとしても、入学者は自分以外にもいて、同時に付き合い出す。先輩たちにも手を出していて……って考えれば考えるほど、恋人としては最悪なようだ。やめておこう。
お父さんは緊張のあまり何もしゃべることができなくなっているようだ。
「あと3秒!」
「3、2、1!」
「ほら、リロードして、リロード!」
あっという間にその時刻はやってきた。WEBサイトをリロードすると、回線が混み合っているのか、しばらく待たされてしまう。もどかしすぎる。早く見せてよ。もう見ることができている人もいるんでしょう?
「日和、何番だっけ?」
「これこれ。A51122だよ」
PCの隣に置いてある受験票には、試験日に何度も繰り返し書いた私の受験番号が載っている。これがあったら、合格。なかったら、不合格。
「行けたよ!」
お母さんのはしゃいだ声に、ドキドキがさらに増す。そこには各科類ごとの合格者一覧のリンクが。理科二類を選んで、クリックする。今度はすぐにPDFが表示された。
ごくりと唾を飲み込む。探す時間ももどかしい。家族全員が黙り込んで、A51122の数字を探す。細かい数字を目で追いかける。あってくれ、あってくれ、私の数字。手を組んで必死で祈りながら、拡大したPDFをずらしていく。
「あ! あった!」
「え? どこどこ?」
「これ! え、合ってるよね? A51122……あった! ねえ、私……」
果たして、数字は確かにそこにあった。何度も見返して、間違いがないか4人で確かめる。感情が昂って、自然と涙がこぼれる。こちらを見たお母さんも目が真っ赤になっていた。ティッシュで目頭を押さえている。
「おめでとう、日和。本当におめでとう」
「すっげえ、本当に東大受かったじゃん。おめでとう!」
お母さんと弟はすぐに祝いの言葉をかけてくれる。いつもはムカつくけど、こういうときは本当にかわいい弟だ。
「ありがとう」
泣きながら、笑って感謝を述べる。
すると、しばらく放心していたお父さんが、やっとしゃべり出した。
「日和……本当に頑張ったな……おめでとう!」
「ありがとう、お父さん……」
努力は報われた。まっすぐ駆け抜けてきた道は、何も間違っていなかった。
何度も、私なんかが東大なんてって思った。またどうせ今回も変われないよって、ダメだよどうせって、囁いてくる悪魔もいた。毎日毎日同じサイクルでひたすら勉強するのは、楽しくもあったけど、やっぱり辛かった。しんどかった。
でも、——そうか。私は4月から、東大生なんだ。私、受かったんだ。
「ありがとう、お父さん、お母さん、翔太。本当にありがとう。合格できたのは、みんなのおかげです」
あふれてくる感謝の気持ちを、改めてしっかり伝える。こういうときじゃないと言いにくいし。
お母さんが優しく抱きしめてくれて、それを優しい瞳でお父さんと弟が眺めていた。
しばらく一緒に喜びを噛み締めて、学校と塾に合格の報告を入れる。担任はまさか私が合格すると思っていなかったようで、とても驚いていた。それはそうだろう、5月の段階で志望校すら決まっていなかったんだから。自分でも夢のようだ。
佐々木さんにはとりあえずメッセージで合格したとだけ送り、このあと挨拶に向かうことを伝えた。まだ積もっている雪の中を佐々木進学塾へと走る。荷物がないだけじゃなくて、心が軽いのもあって、どこまででも走っていける気がした。受かった状態で通る道は、これまで何度も行き来したはずなのに、とても新鮮に見える。
——翠ちゃんはどうだったんだろう。受かっていて欲しいな、科類は違っても、まずは駒場で一緒にキャンパスライフを送りたい。
チャイムを鳴らし、佐々木さんが出てくるのを待つ。
「日和さん! 合格おめでとう。僕は本当に嬉しいよ」
いつも通りの胡散臭いスマイルで出迎えてくれる。でも、佐々木さんのお祝いの言葉は素直に嬉しかった。
「あの……! 翠ちゃんは……?」
おそるおそる聞いてみる。自分が受かっている手前、直接聞くことはできなかったから。こうやって佐々木さんに聞くのは、なんだかずるいような気もするし、逃げていると思われても仕方ないんだけど、ここでもやっぱり結局受験は孤独な戦いなんだと思ってしまう。
「……落ちたみたいだ」
「そう、ですか……」
——そっか、落ちたんだ。ダメだったんだ。
何度も夢見た、思い描いたキャンパスライフががらがらと音を立てて崩れ落ちていく。
とりあえず入って、と言われて、2階に連れて行かれる。最初にここを訪れたときを思い出す。あのときは奥の部屋に翠ちゃんがいて、そのあとほとんど無理やり乗せられる形で東大志望になって……。
佐々木さんはどこか悲しそうだった。ずっと応援していたし、導いてきた姪っ子が落ちてしまったんだから。それなのに、引き入れられたとはいえ、翠ちゃんよりも後にやって来た私が受かってしまった。やるせないことこの上ないだろう。
左ポケットが振動する。何の通知だろうとロック画面を確認すると、翠ちゃんからメッセージが入っていた。心臓がきゅっと苦しくなる。
『合格おめでとう。あたしは落ちたけど、来年絶対そっち行くから、待ってて。』
その瞬間、もうダメだった。堪えていたものが限界を超えて、涙腺が決壊してしまう。
——ああ、落ちちゃったんだ。あの日々はもう終わったんだ。もう、戻ることのできないかけがえのない日々。
返す言葉が見つからず、ボロボロ泣きながらスマホを抱きしめる。佐々木さんがそれを気遣わしげに眺めている。
この1年の出来事が走馬灯のように流れる。ずっと一緒にやってきた、ぶつかるときは全力でぶつかった、大切な、大切なライバル。その背中を追いかけて、走り続けてきた。お互いの心臓を燃やす青い炎を、尊重し、その熱さに触れ、燃料を足し合い、灯し続けてきた。
——ありがとう、私の戦友。ありがとう、私たちだけの日々。
佐々木さんに精一杯の感謝を伝え、塾に最後の挨拶をする。
春を先延ばしにした翠ちゃんの背中を押すように、ふわふわと雪が舞い始めていた。



