退席してもいいと言われても、スマホの電源だけ入れたまま、しばらく放心して動けなかった。佐々木さんからお疲れさまの連絡が来て、その通知でハッとする。気づけば、教室にはもうほとんど受験生は残っていなかった。
 あれ、もう終わっちゃったの? あれだけまだ先だと思っていた受験が、もう終わったというの?
 試験終了の合図から、実感が湧いたり、あれ、もう終わったの? と不思議に思ったり、それを交互に何度も繰り返している。
 早く帰らないと。新幹線の時間あるし。まずはホテルに荷物を取りに行かなきゃ。
 現実感のないまま、ふわふわと歩き出す。何も考えず、ただなんとなく歩いてきたら、宿に戻ってきていた。

「遅かったじゃない」
「あ、おつかれ、翠ちゃん」

 すでに翠ちゃんは戻ってきていて、いつも通りの偉そうな口ぶりに少し安堵しつつ、ぼんやりと返す。フロントに頼んで預けていたスーツケースを出してきてもらった。

「新幹線までちょっと時間あるでしょ? ラウンジでしゃべろう」

 翠ちゃんに誘われ、ホテルのラウンジで向かい合って座る。利用者限定のサービスで、18時まではドリンクが頼めるらしい。翠ちゃんはホットコーヒーを頼んでいた。私はもうチェックアウトしているから、と断ると、ウェイターは特別に、と一つだけ頼ませてくれる。なんだかずっとぼんやりしているから、気分がシャキッとしそうなジンジャーエールを頼んだ。

「この寒いのに、そんな冷たいの頼むの?」
「なんかぼーっとしちゃって。シャキッとしたい」

 少しの沈黙ののち、翠ちゃんが伏せていた目をこちらに向けて口を開く。

「もう聞いてもいいよね。あたしは明日面接しかないし」
「翠ちゃん、面接も大事だよ。気抜いちゃダメ」
「抜いてないよ。……で、どうだった?」

 あまりに直球な質問に面食らう。2日間の試験がダイジェストで頭を流れる。結局、どうだったんだろう。

「あー……、正直五分五分かな。運がよければって感じ。意外と行けてるかもとも思うし、でももっと取れたところあるよなとも思う。ボーダーライン次第だな。いつも通りの理二の合格点なら大丈夫だと信じたい」

 目の前の薄い唇は安心したように少し微笑んだ。こんなに綺麗に笑えるなら、最初からそうしていればいいのに。でも、きっとこれだけ長く一緒にやってきて、あれだけ思い切りぶつかったからこそ、見せてくれる顔なんだろう。そう思うと嬉しくもある。

「そっか、よかった」
「翠ちゃんは……?」

 聞くのが怖いけど、この流れは聞くしかない。

「ダメだった……と思う。数学も英語も70くらいだろうし、物化(ぶっか)はどっちも35くらいしか取れてなさそう。国語が40だったとしても、全然届かない。佐々木さんの言う30点ダウンが現実になったとしても、ね」

 悔しさを滲ませた言葉に、なんて返せばいいかわからなくて困ってしまう。落ちたと決まったわけじゃないから慰めるのは違うし、きっとボーダー下がるよとか、大丈夫だよとか言っても、そんなのわかるわけないし、何を言ってもダメだ。八方塞がりとはまさにこのこと。

「来年は! 絶対受かってやる!」

 突然、翠ちゃんがテーブルに両手をついて、ガタンと立ち上がって宣言する。周りの客たちがびっくりして一斉にこちらを見た。
 私は困ったように笑うことしかできなかった。

「うん……」

 新幹線の時間が近づいてきて、私は翠ちゃんに伝えたいことをまとめながらしゃべり出した。

「翠ちゃん、ありがとう。私、この1年間、結構楽しんでやってたよ。さっき試験中に思った、めちゃくちゃ楽しかったって。結局理三は諦めちゃったし、まだ結果も出てないけど、悔いなんてひとつもない。あのときと比べると、確かに私は変われたって思うし、それを誇りにも思える。……誘ってくれて、ライバルでいてくれてありがとう」
「……お礼を言うのはあたしの方。勝手な理由で巻き込んだのに、最後まで一緒にやってくれて……ありがとう。肩並べて戦えて、嬉しかった。……前はひどいこと言って、ごめん……」

 翠ちゃんは慣れない言葉にちょっとずつつまずきながら、それでもまっすぐに答えてくれた。途中から、切長の瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちて、私の目頭もつられて熱くなる。
 プライドの高い翠ちゃんが、感謝と謝罪を口にするなんて、そんなのずるいじゃん——。

「明日の面接、頑張ってね」
「言われなくても」

 涙を拭った途端、彼女はいつも通りに戻ってしまった。そのほうが安心するけど。
 そろそろ東京駅へと向かわないとまずい。私はジンジャーエールを飲み干して、別れの挨拶を交わす。

「じゃあね」
「うん、また卒業式のときに」

 帰りの新幹線は空席が多く、東京から離れるにつれて街の明かりがどんどん減っていき、なんだか寂しい。勉強しなくていいというのもなんだか変な感じがした。
 聞き馴染みのある発車メロディーが鳴る。こうして、青い炎に身を任せて走り抜けた受験が幕を閉じたのだった。