その日は家に帰ってからもずっと、翠ちゃんの言葉がぐるぐると頭を周回していた。私が東大を目指す……? 平凡な私が? そんなの不可能だ。本気で目指している人に失礼なくらい、烏滸がましい話。
 スマホで東大、とか東大理三、とか打ち込んで調べてみる。東大の仕組みなど調べたこともないから知らなかったが、東大は他の大学とは違って、学部の選択は3年生に上がってかららしい。1、2年生は全員「教養学部」というところに入るのだそうだ。一応文系と理系は分かれていて、文系はさらに文科一、二、三類、理系は理科一、二、三類に分かれるらしい。
 だいたい、それぞれの科類から進学する学部は一定決まっているようで、もちろんそれ以外の学部も選ぶことができるが、希望の学部に入れるかどうかは大学の成績が関わっているらしい。そして、理科三類、通称「理三」は6科類のなかで最難関であり、ほとんどの学生が医学部に進むのだそう。
 理三くらいは聞いたことがあったが、調べてみて詳しくなり、余計に思い知らされた。私には無理だ。日本のトップの大学の、さらにその中でトップの科類。そんなの平々凡々な私が合格できるわけがないだろう。
 ネットにも「東大は天才しか入れない」「理三は化け物」という言葉ばかりが載っている。つまりは翠ちゃんみたいに、小さい時から神童と言われてきたような人が行くところなのだ。

「日和ー、ご飯よ」

 リビングからお母さんの呼ぶ声が聞こえて、夜ご飯を食べに行く。今日はチリソースがかかったハンバーグだった。仕事が忙しく、まだ帰ってきていないお父さんの席は空席だが、いつものことだ。お母さんと弟と一緒に食べ始める。

「んー! 美味しい!」

 理三なんて、私には関係のない話だ。翠ちゃんがどんな意図で私を誘ってきたのか、いまいち掴めないけれど、明日はきっといつもの一匹狼の翠ちゃんに戻っているはず。
 私はいつも通り、普通の毎日を——。

「日和。大丈夫? どうしたの、浮かない顔して」
「えっ? ううん、大丈夫。なんでもないよ」

 やめやめ。こんなこと考えてないで、ハンバーグを堪能しよう。

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 翌日、いつものように学校に行き、いつものようにうとうとしながら授業を受ける。課題はとりあえずやって来はするが、それ以上のことを真面目にやろうとは思わない。
 何もない自分が嫌で、変わろう、変わりたいと思うけれど、結局何もできない。その度、私は何もできない人なんだ、と思い直す。どうせ、挑戦しても失敗するだけだ。だって私は平凡な人間なのだから。誰かに責められるのが怖いから、そう言い訳して何もかもを遠ざけるようになって、何年が経っただろう。
 変わりたいとは今でも思う。でも、変わらなくてもやって来れたじゃないか、とも思う。だから、今回もやめておくんだ。東大なんか、無理に決まってる。流れに身を任せて、入れるところに入ればいいんだから。無理することはない。「現状維持」こそが平和に生きる術だ。
 翠ちゃんは真剣に授業を受けていた。その姿を暇つぶしに観察する。切長の瞳を前に向けて、先生の言葉や黒板の文字を一字一句逃すまいとしているのがわかる。
 ほら、やっぱり私なんかとは全然違うじゃん。こういう人が入るんだよ。
 大して面白くもない授業内容に小さくため息をついて、窓の外の流れる雲を眺めることにした。

 放課後、運動部の友達が部活に行くのを見送り、いつも通り家に帰る準備をする。

「日和さん。一緒に勉強しよう? いい自習場所があるんだ」

 話しかけてきたのは翠ちゃんだ。どうして当たり前のように一緒に勉強できると思ったんだろう? 私なんかと一緒にやって、集中できるわけがないし、いい自習場所は一人で使えばいいのに。
 もちろん、答えは決まっている。

「ごめん。私には無理だよ。だから、帰るね」

 ふーん、と言って翠ちゃんはつまらなそうな顔をした。

「まあいいや。これだけ持ってって」

 骨が浮き出た細くて白い手が差し出したのは、個人経営の塾のチラシだった。クールで一匹狼の美少女は、昨日と同じようにまた颯爽と去って行く。
 思わず受け取ってしまったが、翠ちゃんは勧誘を任されているのだろうか。塾の生徒を増やすために使いっ走りにされているんじゃないか。そして、私がホイホイついていきそうだから、私に声をかけたんじゃ……。
 そんなことを考えてしまうくらいには、翠ちゃんに話しかけられるという昨日から続く異常な出来事を、私は捉えきれずにいた。しばらくぼーっとしていたが、ハッとして動き出す。

「……帰ろう」

 つぶやいた声はもう誰もいなくなった教室に溶けて消えた。