2日目用の昼食を買ってホテルに戻り、しばらくしてから夕食を食べに下の階に向かう。翠ちゃんとはそのとき、試験後初めて顔を合わせた。かなりピリピリしている。ああ、きっと数学の出来が芳しくなかったんだ。必要以上の会話はしないでおこう。その方がお互いのためだ。
 私は力を出し切った感覚があったから、出来のいい悪いに関係なく、別になんとも思っていなかった。帰り際の他の受験生たちの会話が少し蘇ってきて、一瞬だけ不安になることもあるけど、そのたびにすぐに頭から振り払ってメンタルを保つことができている。
 夕食はさばの水煮だった。頭がよくなりそうでありがたい。白米にだし巻き卵、ほうれん草のおひたし、そして豚汁。贅沢なメニューだ。きっと朝食も贅沢だったんだろう。全然ちゃんと見ていなくてちょっと損した。味ももちろん美味しいし、何より温かいのが、いい。昼ご飯は冷たかったから。
 理科の解き直しノートを見返しながら食べる。お行儀が悪いのは許してほしい。味わってはいるから。ちょっと余裕のない受験生なもんで……。
 隣の美少女とはほとんど何もしゃべらなかった。お互い食べ終わって、とりあえずうなずき合ってそれぞれの部屋に戻る。ご飯は食べられたようでよかった。
 昨日と同じように湯船に浸かりながらお母さんとメッセージを送り合う。事前に、終わった科目のことは絶対に聞かないでね、どうだった? とか言っちゃダメだからね、とは言ってあるから、きっと気になっているだろうけど、何も聞いてこない。

「ご飯、食べられた?」
「うん、夕食おいしかったよ。さばの水煮とかだし巻き卵とか、豚汁とか。」
「美味しそうね」
「和食はやっぱり落ち着くね」

 こんな他愛のない会話をするだけでも、安心する。
 ふと、翠ちゃんはどうなんだろう、と過ぎる。翠ちゃんは早くにお母さんを亡くしていて、お父さんは東大受験に反対している。佐々木さんくらいしか話せる相手がいないだろう。
 ——さっき、何もしゃべらないという選択をしたのは、本当に正しかったのかな?
 でも、かけるべき言葉も見つからない。頼れる人がいないのは寂しいだろうし、孤独で心細いだろうけど、きっと今のプライドが高い翠ちゃんは誰にも頼りたくないだろうし、それがもともと見下していた私だとなおさら嫌だろう。
 ライバルなのに、隣を走り続けた戦友なのに、肝心なとき力になれない。
 受験は団体戦、なんていう言葉がよく使われる。いわゆる自称進学校のような、生徒全員を本気で受験に向かわせたいところの先生が言っているのだろう。私はあれは間違いだと思う。
 団体戦のわけがないだろう。最終的に戦うのは個人だ。それまでどれだけ周りと切磋琢磨しようが、お互いの武器を磨き合おうが、本番持ち込めるのは自分自身の頭だけ。それのどこが団体戦だと言うのか。
 孤独な戦いなんだ、受験は。直前まではなんとでも励まし合えるけど、試験が始まってしまったら、フィールドに立っていいのは自分ひとり。周りは全員敵。蹴落とし合う相手だ。自分が受かることで、誰かが落ちるのだから。
 そしてそれは、1日目と2日目の間だって同じ。今だって実質試験中なのだ。受験する科類は違うから、直接刀を交えることはない。それでも、これまでどれだけ肩を並べて走って来ようが、今は同じ問題を解いてより高い点数を競い合う敵でしかないのだ。
 ——仕方のないこと。私は私の戦いを終わらせよう。
 そのあとは、次の日のために物理と化学の問題を軽く解いて、知識を確認し、英文解釈を2つやった。すぐに出発することができるように荷物の準備だけして、ベッドに入る。アラームを連続でかけて、絶対に寝坊しないようにする。ホテルの天井は普段と全然違って、昨日と同じだけどやっぱり慣れない。でも、たくさん頭を使って疲れ切っていたのか、何かを考える暇もなく深い眠りに落ちて行った。

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 2日目の朝だ。明日面接が待ち構えている理三受験の翠ちゃんとは違って、私は今日で退散する。だから、チェックアウトをしなければならない。荷物は昨晩まとめておいたおかげですぐに出ることができた。

「今日の試験が終わったら取りに来るので、スーツケースを預かっていてもらえますか?」
「かしこまりました。何時ごろお戻りになりますか?」
「ええと、多分17時すぎごろだと思います……前後するとは思いますが……」
「おおよその時間で大丈夫ですよ。では、お預かりいたしますね」

 フロントに荷物を預けているうちに、翠ちゃんが降りてきた。朝食を食べているときも思ったけど、やっぱりテンションが低いようだ。ちなみに、彼女は早起きが得意なんだそうで、朝だから機嫌が悪いとかではないと思う。
 一緒にホテルを出立、昨日のように交差点で手を振って別れる。あえていつも通りに振る舞った。
 昨日より緊張が緩んでいるのか、試験の時間以外はあんなに進むのが遅かった時計の針が、今日はあっという間に感じられる。集中して勉強できていたみたいだ。いつの間にか試験官が勢揃いしていて、解答用紙が目の前に置かれていた。
 選択科目の意思表明となる切り取り線はうまく切り取ることができた。きっと試験もうまくいく。教室内には盛大に破ってしまった人がいたようで、新しい解答用紙に変えてもらっていた。あーあ、可哀想に。ハプニングが起こると、余計なことを考えないといけないから、焦るし疲れるしで確かに試験に影響が出そうだ。願掛けもあながち間違いではないのかも。

「それでは、理科の試験を開始します。試験時間は150分、終了時刻は12時です。——はじめ」

 お馴染みの問題用紙をめくる音。まずは物理から解いていく。40分でどれだけ点数を集めてくることができるかが勝負だ。
 最初は力学。問題文を丁寧に読んで、使う文字を丸で囲う。問題用紙に印刷されている図は使いづらそうなので、自分で新しい図を描いてそこに情報を詰め込んでいく。単元は万有引力。公式を使ってなんとか最初の数問をこなしていくが、だんだんと混乱してくる。——あれ? これはどうすればいいんだっけ? この場合は普通に公式使っていいのかな……? でもいつもと条件が少し違う。適用できるかどうかわからないな……。
 まあ、取り切るべきところはとりあえず書けたし、いっか。先に進もう。
 物理は最低限に留めて、代わりに化学で点を積め。自分の中のルールに従って、次の電磁気を解き始める。なんだかいつかの過去問で見たことのあるような問題設定に、東大もそろそろネタが尽きてきたかな、なんて考えつつ、その問題を思い出しながら順番に解き進めていく。電磁気で結構点を重ねられるのはラッキーだ。やっぱり、今回の私は結構ついているみたい。
 第3問に進んで、少し動揺する。なんで? 去年熱力学だったじゃん、どうして今年も波動じゃなくて熱力が出ているの……?
 いや、これまでだって2回連続同じ単元が出ることはあった。大丈夫、今年は波動だろうとは思っていたけど、万が一に備えて熱力だって対策してきたんだ。大丈夫。
 一度目を瞑って、深呼吸をする。変な人だと思われてもいい。今は自分のためにできることを。
 丁寧に問題文から最初の状態と条件の変え方を追っていく。やるべきことは化学と一緒だ。「変化前」と「変化後」を見比べてみればいい。その違いから式を立てていけばいいんだ。
 第3問が波動じゃなかったからって、アンラッキーとは限らないんだ。いくら得意な波動の問題が出たとしても、点数が取れる問題だったかはわからない。今回の熱力はそこまで難易度が高くなさそうだし、まあまあ解けそうだから、問題ない。決してこれはハプニングなんかじゃない。
 なんとか解ける部分の解答を書き切って、時計を見るとちょうど40分。模試や過去問で経験を積んだおかげか、時間の感覚がだいぶわかるようになってきて、完璧な時間配分で解き進められるようになってきた。その成果を本番に発揮できて、心の中で思わずガッツポーズをしてしまう。
 有機化学はひたすらパズルみたいにピースを当てはめて、条件を満たさないものを除外して、残ったものを答える。頭を使うけど、考えれば解けるから、ただ落ち着いて問題を読むことができればいい。わからない問題は2つ。あとで戻って来よう。
 無機化学のページを開いた途端、あっと声が出そうになって、すんでのところで踏みとどまる。こんなところで退場したくはない。ただ、これに無反応であれというのも難しい話だ。なぜなら、そこに大きく描かれていた図に見覚えがあったから。問題文に目を通して、確信する。
 ——これは今年の冠模試で扱った物質だ。
 カリウムと鉄、炭素と窒素でできているその物質は、粒子の配置が多少独特で、でも考えれば読み取ることができるものだ。問題作成にはちょうどいい。それに、きっと何か新しい発見があったり有名な論文雑誌に載ったりして、学会で話題になったのだろう。今をときめく化学物質というわけだ。
 これは、知っている。答えも覚えている。もちろん、導出の仕方も何もかも。だって、冠模試は次同じ問題が出たら絶対に満点が取れるように復習したから。
 でも、それは他のみんなも同じじゃないか? あの予備校の模試だ。周りはみんな受けているだろう。隣の子も、前の子も、斜め前の子も。きっと復習まで完璧で、私と同じようにさらりと解けてしまうんだろう。私だけが有利なわけじゃない。
 それでも、喜びが心から溢れてくる。私はこの物質を知っている! 解いたことがある! 解ける! それだけで興奮する、テンションが上がる。
 ——ああ、私はこんなにも、受験勉強を楽しんでいたんだ。今はただ、日本中が注目する東大入試を、マスコミや予備校関係者よりも、誰よりも早く解くことができているという、この環境に感謝を。
 そのあとの問題はほとんど覚えていない。そのままのテンションで、勢いよく解いていった。もちろん、計算は冷静にやったけど。それでも、東大の化学は簡単ではなかった。110分もかけたのに、複雑な計算が多くて終わらずじまい。

「試験終了。筆記用具を置いてください」
 
 ただ、試験監督の声が教室に響いた瞬間、ああ、東大を受けてよかったと強く感じた。もちろん、残りの英語も本気で、受かる気でやるけど、何よりも楽しもう。そうするべきだ。それが、東大受験生の理想の姿だろう。
 ほどよい疲労感に上を見上げると、蛍光灯が真っ白にまばゆく輝いていた。この心臓を灯す青い炎が燃え尽きるまで、あと4時間——。