ついに、この日が来てしまった。朝起きてアラームを止めた瞬間、まずこう思った。今日は国語と数学。とにかく、何回も何回も計算した目標点数を、各大問で取ってくるだけだ。余計なことは考えなくていい。
 食べるということを意識し過ぎると、朝食がうまくのどを通らないから、勉強しながら無心で詰め込んでいく。隣の翠ちゃんもいつも以上にピリピリしていた。
 なんとか食べ終わって、一度部屋に戻り、会場に持っていくかばんの中身を確認する。受験票、学生証、筆記用具、昨日買った昼ご飯、自販機で買った水、腕時計、ティッシュ、財布とスマホ。忘れ物はない。まあ最低限受験票と学生証、スマホとお金があれば大丈夫だろう。
 お父さんからもらったお守りは大切にペンケースの中に入っている。カイロは明日開けようと思う。今日はホテルに置いてあった受験セットに入っていたものを使おう。
 出発の時間を決めておいたからか、翠ちゃんとエレベーターが一緒になる。口の端を持ち上げてうなずき合った。私たちの間に、余計な言葉はいらない。頑張ろうね、なんていう言葉は似合わないのだ。
 交差点まで一緒に歩き、そこからは別々の道を行く。とりあえず何もなければ昼休みまで顔を見ることはない。交番前の信号が青になり、渡り切ったその瞬間、私たちはこぶしをぶつけ合ってさらりと手を振って別れた。いつか、彼女がそうしたように。
 そこからしばらくまっすぐ進み、消防署の次の角を左折。また少し歩くと、龍岡門だ。受験生と思しき人たちが同じようにキャンパス内へと足を進めていた。

「龍岡門入場の人たちは、ここに一列で並んでください!」

 誘導係が受験生を列に並べている。私もそこに整列した。歩いているときはそうでもないけど、止まると東京も意外と寒い。さっき開けたばかりのカイロはまだ少ししか温かくなっていない。シャカシャカと振って早く温めようとする。
 ——これは中の物質を移動させることで、空気中の酸素と反応する表面積が増えるから、反応が促進されて発熱しているんだ。
 心を落ち着けようと化学の知識を使って思考をめぐらせる。しばらくすると、教室に入る許可が降りたのか、誘導係が一人ひとりの受験票を確認して会場入りを促し始めた。

「次の方ー!」

 すぐに私の番が来て、かばんから出した透明のクリアファイルを見せる。もちろん、中身は顔写真付きの受験票だ。

「OKです、教室に向かってください」

 軽く会釈して、工学部3号館へと急ぐ。早めに教室に入って雰囲気に慣れておきたい。もう出来上がった雰囲気の中に遅れて入っていくのは嫌だ。下見をしておいてよかった。迷わずまっすぐ向かえる。
 階段を上って指定されている3階にたどり着く。左側はコーンが置かれていて、立ち入り禁止になっていた。指示通り右に進むと、そこには教室は1つしかなく、大して広くもなかった。よかった、大講堂だと集中できなさそうだけど、ここなら大丈夫だろう。
 長テーブルには椅子が2つずつ並べてあり、前の黒板に席順表が貼られている。まだ教室には大して人は集まっておらず、早く来るのには成功したようだった。私の席は——廊下側から2列目の一番後ろ。四方を人で囲まれているよりのびのびと解けそうだ。
 時計を見ると、8時37分。試験開始は9時30分だけど、多分もっと前から着席させられると佐々木さんは言っていた。ギリギリにトイレに行きたいから、今はとりあえず席に座って古文単語でも見ておこう。
 東大の試験はどの科目も試験時間が長い。何気に一番困るのが、トイレのタイミングだ。試験中にトイレに立つのは嫌だ。時間がもったいないからだ。でも、そうなると結構ギリギリだったりする。特に150分の数学や理科。これは試験時間が150分なのであって、その前後にもっと拘束時間がある。問題用紙を配り始めてから、試験が終了して解答用紙を回収し、その枚数を確認し切るまで席を立つのは許されないらしい。不正防止のためだろう。これが前後それぞれ30分ほど。つまり、3時間半は席を立てないと思っておいた方がいいのだそうだ。
 受験生がどんどん教室に入ってくる。都内の高校の生徒だろうか、同じ制服を着た受験生が数人で固まって話をしていた。——これは試験後、注意しないといけなそう。何番の答え、〇〇だったよな? とか答え合わせ始めるタイプの集団だ。絶対に耳に入れないようにしないと。巻き込まれの事故には遭いたくない。
 ただでさえこっちは地方から受験しに来ていて、孤独なんだ。抱える問題は最小限にしたい。
 ドクドクと心臓から血が流れるのが感じられる。シャーペンの上側で胸をトントンと叩く。ほどよい痛みが広がって落ち着ける。試験監督たちが入ってくるのを気配で察知しつつ、ギリギリまで古文単語や漢文の句法、漢字などを確認する。さらに、読解のスピードを思い出すためにも、過去問の評論をさらりと流し読みしていく。

「そろそろ、着席時間になりますので、お手洗い等行かれる方は今お願いします」

 さっと席を立って、トイレに向かう。女子トイレはすぐに混むから、こういうときはスピードが命だ。
 あと30分で試験開始。ここ数日で何度大丈夫と唱えただろう。1万回くらいは言っていそうだけど、まだまだ繰り返し続ける。
 席に戻り、問題集を片付ける。机の上には、共テのときと同じように、認められているものだけを載せる。お母さんと佐々木さんから来ていた応援メッセージに返信し、スマホの電源を切る。ペンケースのお守りをぎゅっと握ってからしまい、かばんのチャックを閉めた。試験監督の注意事項をそわそわしながら聞いていると、時計の針はどんどん進んでいき、あっという間に目の前には問題用紙と解答用紙が置かれる。
 あ、やっぱりあの予備校の模試の解答用紙が一番再現度高いんだ。

「それでは、国語の試験を開始します。試験時間は100分、終了時刻は11時10分です。——はじめ!」

 一斉に紙がめくれる音がする。一気にテンションが上がった。きっとこれは緊張で頭がおかしくなっているんだ。でも、これでいつも通りの力を発揮するんだ、大丈夫。心の青くて熱い炎が、私を前に進めてくれる。合格まで導いてくれる。
 アウェイ感がどうしても緊張を高めるけど、いつも使っているシャーペンを強く握りしめたら、少しだけ落ち着きを取り戻すことができる。模試と同様に、評論文から読み始めた。
 注意すべきことはいつもと同じ。逆説に注意すること、筆者が結局何を言いたいのか、メインの主張を抑えること。今年は問一から問四まですべてが内容説明、問五の要旨を踏まえての論述だけが理由説明だった。
 ——なんか、結構ラッキーかも。相性がいいかもしれない。いつもは上っ面をなぞっている感覚がどうしたって残る評論文も、今日は何が言いたいか結構鮮明にわかる。漢字も全部書けた。理由説明より内容説明の方が得意だし。
 傍線部を文節ごとにスラッシュで区切って、その一つひとつを言い換えていく。最初はそんなこと知らなかったけど、今じゃあ慣れた作業だ。
 問五は「本文の要旨を踏まえて」と言われているのだから、解答に要旨を軽く盛り込まなくてはならない。もちろん、問題の趣旨からは外れないように気をつけつつ。
 
『結局のところ、東大入試の解答で求められていることって、アピールだと思うんだ』
『アピール?』
『そう。ちゃんと要旨を踏まえましたよ、この問題はここまでわかっていますよ、こんだけ知っているんです、この先はちゃんと計算してみないとわからないし、計算合ってるかどうかもわからないけど、とりあえず道筋はわかっています、見えているんですっていう、アピール。出題者が求めていることを汲んで、それを全力でアピールしたやつが、合格するんだと思う』

 佐々木さんとの会話が蘇ってくる。そうだ、アピールだ。私は要旨を踏まえました。ちゃんとわかっています。筆者の主張を読み解きました、あなた方出題者の意図も汲み取りました。……これでどうですか!
 第一問の解答を無事作り終えたところで時計を確認すると、開始から40分が経っていた。至って順調。第二問の古文に進む。まずは出典を確認。『浜松中納言物語』だそうだ。知らない。まあ仕方ない。東大で知っている作品が出ることはほとんどないのだ。数年前『源氏物語』が出題されたらしいが、それもごく稀。界隈が騒ぎ立てたらしい。
 単語の意味や文法事項を思い出しながら、主語を補いながら丁寧に読み解いていく。古文はどこかで話の筋を見落としたらおしまいだ。誰が何しているかわからなくなって、詰んでしまう。だから、丁寧に。当時の背景をイメージしつつ、ニュアンスを掴んでいく。最初は3つの傍線部の現代語訳。ここでも、意訳になりすぎないように気をつけつつも、わかっていますよ感を前面に押し出す。残り2つは読解問題。本文でちょっと意味が取りづらいところがあって、あやふやな部分も多かったが、なんとかそれっぽい解答を生み出す。大丈夫、得意な現代文で点数を稼げばいいから、ここでは無駄な失点だけ避けよう。
 30分ほどで古文を解き終え、残る時間は30分。計画通り!
 漢文は比較的読みやすかった。共通テストもそうだったけど、私はやっぱり古文より漢文が得意なようだ。教訓がはっきりしていて、何を伝えたいかわかりやすい。後世に何かを残そうという意図を明確に感じる。
 こちらは2つの現代語訳と、2つの読解問題。さすが東大、一番わかりにくいところをしっかり問題にしてくる。読みやすいと思ったのに、解答は作りにくくて少し苦戦してしまった。
 とはいえ、しっかり時間内に終わり、自分の頭が絞り出した結晶を読み返す。誤字脱字はないか、読みづらいところはないか。意図を汲めているか、それをアピールできているか。
 よし、これで行こう!

「試験終了。筆記用具を置いてください。……名前と受験番号、志望科類を確認して、修正が必要な場合は手を挙げて試験官に知らせてください」

 1科目が終わった。出来はまあまあだろう。でも安心して気を緩めてはいけない。理系の合否は国語で決まることはあまりないからだ。
 雰囲気に慣れてきたのか、心臓はもううるさくない。午後は大勝負、数学だ。切り替え、切り替え。さっさとご飯食べて、気分転換に散歩して、最後に一問解こう。
 心臓を燃やす青のそれは落ち着きを取り戻し、静かに、でも確かに揺蕩っていた。