2月24日、二次試験前日。12時過ぎ発の新幹線で東京に向かう。座席は二人席で、隣には黒髪ベリーショートの美少女が座っている。新幹線乗り場までは、佐々木さんと私のお母さんが見送りに来てくれたが、やっぱり翠ちゃんのお父さんは来ていなかった。全然疑っていたとかではないけど、翠ちゃんの話は本当のことなのだろう。
 切符に書いてある席を確認し、翠ちゃんと一緒に座る。少しだけ酔いやすい私は車軸に近い通路側を取り、窓際は翠ちゃんに譲った。もちろん二人とも、景色なんか見ている余裕はない。
 発車時、滑り出すように周りの景色が後ろ向きに進み始める。佐々木さんとお母さんが見えなくなるギリギリまで手を振ってくれた。きっと、この後お互いにペコペコするんだろう。こういうときの佐々木さんがやっぱり一番胡散臭いと思う。
 東京までは2時間半ほど。ほとんど会話することなく、過去問の解き直しノートを確認する。多分、隣の彼女のように、テーブルを倒して下を向いてガツガツ問題を解いたら、私は確実に酔ってしまう。難儀な体を少し恨めしく思う。
 時間的にも新幹線の中でお昼ご飯を食べるのがちょうどいいだろうと、駅弁を買っているけど、いかんせんシートに染みついた匂いがきつすぎて、まったく食欲が湧かない。明日のことを考えて緊張しているのもあるのだろうか。翠ちゃんは私に気を遣ってか、駅弁を出そうともしない。いや、彼女のことだ、気を遣っているのではなく、単にお腹が空いていないか、勉強に集中したいのかもしれない。
 耐久戦の末、乗車中のはやぶさ・こまち連結号が東京駅のホームに滑り込む。スーツケースを引き上げて降りた瞬間、空気の淀みに東京を感じる。やっぱり地元は空気が綺麗なんだ。
 ホテルは理系の受験会場である本郷キャンパスのすぐ近くのところを取っているため、東京に着いたらすぐ丸ノ内線に乗り換える。私も翠ちゃんもそんなに東京に来たことがないから、広い東京駅構内は迷いそうになるけど、丸ノ内線のマークはすぐに見つけることができた。佐々木さんが写真を見せながら説明してくれたのを覚えておいてよかった。
 少し迷ってあっちだこっちだやっていた末、ホテルにたどり着いたときにはすでに、チェックインのスタート時間を過ぎていた。さすがに部屋は別々で取っているから、まずは翠ちゃんからカウンターへと向かう。少しして、隣のカウンターが空き、私も一歩進んだ。

「じゃあ、荷物置いたらロビー集合ね」
「りょーかい」

 部屋のカードキーをもらって、エレベーターに乗る。私は4階、翠ちゃんは5階の部屋だったようだ。部屋のとびらを開け、カードキーをポケットに差し込むと、一気に明るくなる。古めの様相をしていたが、落ち着く空間だ。祖父母の家みたいな匂いがして、試験の緊張も緩む。
 バゲージラックにスーツケースを広げ、すぐ使いそうなものをベッドの上に乗せる。お母さんと佐々木さんにチェックインが済んだことを伝え、最低限の荷物だけ持ってもう一度ロビーに向かった。エレベーターを降りるとすでに翠ちゃんは来ていて、早くして、みたいな顔をしてこちらを見ている。

「ごめんごめん。行こう」

 向かうのは下見。教室の中まで入ることはできないが、目の前まで行くことはできる。明日の朝に道に迷って焦ることがないように、会場の下見は必須だ。私は工学部3号館、翠ちゃんは法学政治学系総合教育棟が割り当てられている。理三は受験者数が他の科類ほど多くないため、同じ建物にまとめて入れられるらしい。
 ご丁寧に、当日の混雑回避のために、どの門からキャンパスに入るのかまで指定があり、翠ちゃんは正門、私は龍岡門というところから入らなくてはならないらしい。とりあえず、正門に行ってみようということで、本郷三丁目駅の方から大通りをまっすぐ歩く。

「飲食店いっぱいだね」
「キャンパスライフは楽しそうね」

 正門より手前にかの有名な赤門があった。ここ数年は耐震性の問題とかなんとかで、赤門は閉まりっぱなしだ。開いてほしいという声が多く、そのためのクラウドファンディングも行われているらしい。
 もちろん、二人で写真を撮る。

「あたし、誰かと写真撮るの何気初めてかも」
「え? それは一匹狼を貫きすぎでしょ」

 笑いながら撮れた写真を見返す。ああ、これが赤門か。ネットやテレビで見たことはあったが、実際に見てみると尊大な感じが増す。でも、大して遠い存在には感じなかった。
 そこからさらに進むと、グレーの大きな門にたどり着く。こっちが、正門。東大受験生じゃなければ、赤門が正門だと勘違いしがちだが、実はこっちが真ん中。私も最初は知らなかった。正門からまっすぐつながる通りの奥には、左右対称な安田講堂が見える。

「おお! なんかすごい……」
「いや語彙力」

 正門を入ってすぐ右に曲がると、翠ちゃんたち理三受験生の会場が見えてくる。ガラス張りのおしゃれな建物は、東大の古めかしい感じとちぐはぐで違和感がすごい。でも、わかりやすい場所だし、迷いようがなさそうだ。下見としてはバッチリだろう。
 周りには同じように下見に来たであろう制服姿の高校生がちらほら。

「こっちはもうOK。次はあんたの方見に行こう」
「もういいの? まあ中は入れないし、大丈夫か」
「それより、あんた結構めんどい場所に配置されてるじゃん」
「そうなんだよね。龍岡門からより正門の方が近いと思うんだけど……」

 工学部3号館は正門から見て安田講堂の左奥にある建物。龍岡門は赤門よりさらに手前の十字路で右折し、奥へと入って行った場所にある。正門の方が圧倒的に近いはずなのに、なぜか指定は龍岡なのだ。入試直前の貴重な時間を奪わないでほしい。
 まずは工学部3号館を見ようと、安田講堂の方へと進む。地図で見ると近く感じるけど、意外と距離がある。大学のキャンパスってこんなに広いんだ。
 受験のことなんて考えないまま3年生になってしまったから、オープンキャンパスにもろくに参加したことがない。中高とはまったく違う自由な雰囲気に、キャンパスライフを想像して少しテンションが上がる。もちろん、ここでの大学生活を送るためには、まず明日からの試験を突破しないといけないわけだけど。
 該当の建物は構内の他の建物と比べると比較的新しいようだった。調べてみると、トイレも綺麗らしい。ラッキーだ。

「場所確認したからおっけー。龍岡門から出てホテルに戻るでいい?」
「明日の昼ご飯買わなきゃでしょ」
「そうだった! 危ない、よく覚えてたね」
「逆になんで忘れてんのよ。大事なことじゃん」

 龍岡門までの道を覚えて、宿に戻る途中のコンビニで初日の昼ご飯を買う。消費期限を確認し、おにぎり2個とゆで卵、サラダチキンと割けるチーズを買う。食あたりの可能性がある生ものはできるだけ避ける。おにぎりの具では、焼きたらこのほかに明太子とすじこが好きだが、この辺はまさに生なので、一応やめておこう。たらこと梅を選んだ。
 当日の朝、本郷三丁目のあたりは受験生やマスコミでごった返す可能性があるため、コンビニのご飯は売り切れているかもしれないのだ。朝に焦ることはしたくない。昼休みも余裕を持って午後の科目に備えたい。そのために、必ず前日に買っておくこと。これが佐々木さんに言われた注意点の一つ。
 
「じゃあ、また夕食のとき」
「うん、じゃあね」

 ホテルに到着して、翠ちゃんと別れ、部屋に戻った。最終確認をしようと勉強道具をまとめて机に向かうと、さっきは気づかなかったが、そこには受験生向けのセットが置いてあった。「頑張れ! 受験生」の文字と一緒に。心がほわっと温かくなる。中にはカイロやペン型の除菌スプレー、マスク、消しゴムが入っていた。手厚い。
 よし、と気合を入れて化学からスタートする。地方から泊まりで受験する上で、持ってくる勉強道具は選別しなければならない。コピーできるものはコピーしてできるだけ薄くし、暗記ノートや過去問の解き直しノートは最近のものだけを持ってきた。
 化学は問題集の付録の直前確認冊子なるものを、理論、無機、有機の3冊持ってきている。付属の赤セルシートで化学反応式の係数を隠す。
 いつもと違う環境、意識しないようにしても何度も脳が繰り返し唱える「明日本番」という言葉。手が滑って赤セルが飛んで行ってしまって、慌てて拾いに行く。「滑る」「落ちる」なんて縁起でもない。どうしよう、私思ったよりも緊張してるかも。とりあえず、落としたのが受験票じゃなくてよかった。
 しばらくして、あまり勉強に身が入らないまま、ホテルの夕食会場で翠ちゃんと和食を食べた。食べている間も、会話はほとんどなく、それぞれ知識の最終チェックをする。ご飯は美味しかったとは思うが、何を食べたかいまいち覚えていない。
 お母さんと連絡を取り合いながら、湯船でしっかり体を温める。ビジネスホテルのユニットバスだから、シャワーだけでもいいんだろうけど、熱いお湯に浸かることで夜寝つきが良くなるらしいから。今日は緊張で眠りづらいだろうと思って。
 お風呂から上がったら、部屋を暗めにして、再度勉強に入る。湯冷めしないように持ってきたもこもこのポンチョを羽織りながら。感覚を忘れないように、25分測って数学の大問を1つ解く。緊張はしているけど、手はいつも通り動く。大丈夫だ。あとは会場の雰囲気に呑まれないように気をしっかり保つだけ。
 明日は6時起きだ。ここ1週間くらい、当日に合わせて生活リズムを整えてきたけど、本番の朝に寝坊してしまったら話にならない。だから、今日は23時にはベッドに入った。
 ベッドは普段と違ってふかふかだし、部屋の匂いも、廊下から流れてくる暖房で温められた空気も、何もかもが気になってしまって、目が冴えてしまう。アラームがかかっているかしっかり確認して、深呼吸を3回。——大丈夫、あれだけ勉強したし、私はもともと理三志望。絶対受かる。絶対、大丈夫。
 何度もおまじないのように唱え続けていると、いつの間にか思考があちらこちらに飛んで、夢の世界へと(いざな)われていった。