2月の頭。冷え込んだ空気は10分外にいるだけで耳を切り裂き、足の指を凍らせる。今月の25日が、ついに本番だ。5月から走り続けてきた戦いが、ついに終焉を迎えようとしている。
 ——いや、まだだ。ここからラストスパートをかけていくんだ。
 今日は翠ちゃんと一緒に塾でWEB出願をする約束をしていた。集中して提出しないと、出願ミスで不合格なんて笑えない。
 数ヶ月前、併願校の話になったとき、翠ちゃんは当たり前のように東大単願を宣言していた。私はさすがにそれはできない。地方国立大医学部の後期試験も受けることにしている。うちは裕福ではないから、私大は受けさせてもらえない。前期後期両方落ちたら、浪人するしかない。
 翠ちゃんは東大以外に行くつもりはないみたい。前期試験に落ちたら即行浪人確定。なぜなら、東大に後期試験はないからだ。昔はあったらしいけど、今はもうない。前期にすべてを賭けるしかない。

「よし、じゃあ、始めようか」
「気合い入れないと」

 出願者情報、共通テストの使用科目、二次試験の受験科目、受験する科類、次々と項目が浮かび上がり、その都度祈りを捧げながら入力する。——受かりますように、合格しますように、神様どうか、私を合格にしてください。
 写真をアップロードして、確認ボタンを押す。翠ちゃんと内容を確かめ合い、ごくりと唾を飲み込むと、同時に出願ボタンを押した。出願を受け付けました、という表示が出て、二人で頷き合う。

「じゃあ、振り込みに行きますか」
「そうね」

 情報登録が済んだら、48時間以内に検定料を払い込みに行かないといけない。コンビニ支払いで17,000円。お札が2枚あるかどうかしっかり確認して、いつもご飯を買うコンビニを訪れる。

「あたしから行く」

 翠ちゃんがそう言うと、スタスタとレジに進んで行った。さっさと支払いを終わらせる。一つひとつに覚悟を決めないと足が止まってしまう私とは大違いだ。肝が据わっている。
 早くやりなさいよ、と背中を押されて、私は店員にバーコードを提示した。ああ、これで本当に東大を受けるんだ。さっきからずっと思っていたが、また改めて実感が湧いてくる。
 それからまた塾に戻って、コピーした出願確認表を郵送する準備をする。共テの成績請求表とかいうカードを貼り付けて、学校からもらった調査書と同封する。翠ちゃんは昨日書いたという志望理由書も入れていた。調査書は封筒に入れられていて、厳重に封がしてある。ちょっと中身が気になったりもするけど、開けたら無効になってしまうため、我慢するしかない。
 封筒の宛名の「行」に二重線を引き、「御中」と横に書き足す。中身をもう一度確認して、のりでしっかり封をした。隅々までたっぷりのりを行き渡らせ、絶対に剥がれないようにする。途中で中身が落ちてしまえば、出願ミスで不合格になってしまうのだから。
 そうやって、また翠ちゃんと一緒に近くの郵便局まで歩く。雪が積もっていなければ、もっと素早く移動できるし、勉強時間も増えるのに。
 もちろん、速達で出す。出願締め切りを過ぎると、受理してもらえずに不戦敗。それも避けたい。しっかり届けますから! と東大宛の願書を見た郵便局の若いお兄さんが意気込んでいた。郵便局で働いている人の中では、かなり珍しいタイプだ。実際に届けるのはお兄さんじゃないだろうに。
 翠ちゃんは氷の上でもあまり滑らずに上手に歩く。クールな顔して、滑っているところを見てみたい気もするが、受験が終わってからでいい。私も滑らないように足をできるだけ傾けずにまっすぐ下ろす。願書を出したことで、少し気が引き締まった。緊張感が高まってきている。あと24日。

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 まっさらだったカレンダーにどんどん斜線が入り、徐々に前泊の日が近づいてくる。夜が深まったころ、部屋でその日解いた過去問の復習をしていた。お母さんはすでに寝ていて、お父さんはリビングでテレビを見ている。弟は部屋でゲームをしているんだろう、さっきトイレに立ったとき、部屋の明かりがまだついていた。いつも通りの夜。必死でシャーペンを走らせる。
 あれから、英語は無事元通りになった。5日間佐々木さんの言う通りに英文解釈だけ進めて、過去問に触れずに我慢していたら、6日目の午後に解いた過去問はなんと過去最高の点数を叩き出した。単語を追えばすぐにちゃんとニュアンスが頭に入ってくる。もう、大丈夫。やっぱり佐々木さんはすごい人だ。
 トントン。
 部屋のとびらがノックされ、いいよ、と言うとお父さんが覗いてきた。

「夜食、いるか?」

 どういう風の吹き回しだろう。お父さんとは普段あんまりしゃべらないし、最近じゃあ休日はずっと塾にいるから、しゃべる時間もない。それに、お父さんは私の東大受験に反対で……。
 とりあえず、いる、と答えてリビングに向かい、父と向かい合って座る。こんなことはしたことがない。いや、小学生のときとかはあったのかもしれないけど、直近数年ではまずない。少しだけ気まずかった。
 テーブルの上には小さなおにぎりと、卵が入ったコンソメスープが乗っていた。

「それ、日和の分。おにぎりの具は、日和が好きな焼きたらこにしたよ」

 どうにも調子が狂ってしまう。でも好きな具を覚えていてくれたことが少し嬉しかった。

「ありがとう、いただきます」

 手を合わせてラップに包まれた少し歪なおにぎりを口に運ぶ。

「ん、おいしい」
「そうか、よかった。……前に日和が理三を目指すって言い出したとき、バカにして悪かった」

 束の間の沈黙にもう耐えきれなくなったのか、お父さんはすぐにしゃべり出した。

「反省してるよ、本気だったんだもんな。ここ数ヶ月、ずっと日和が頑張っているのを見て、悪いことしたなって思っていたんだ。でも、忙しそうだし、父さんが帰ってくる頃にはもう集中して勉強しているし、しゃべる機会がなくて、どんどん謝れなくなっていった。いつの間にか、共通テストは終わってるし、日和の志望は理二に変わってるし。ここまでだらだら先延ばしにしたことも、ごめん。でも、陰ながら応援してたんだ。それは本当だよ」
「……そっか。そうだったんだ」

 困ったような顔をして謝る父に、少し笑ってしまう。そっか、ずっと反対していたわけじゃないんだ。そう思ったら、心が軽くなった気がした。
 テレビを消した家の中は、洗濯機が回る音と暖房の風の音、加湿器のシューシューという音だけが聞こえる。静寂が夜を引き立てていて、感傷に浸ってしまいそうだ。

「前泊まであと3日か? 体調崩さないように、できるだけ早く寝るんだぞ」
「うん。ありがとう」

 すると、お父さんは仕事用の鞄をゴソゴソと漁り、何かを取り出した。なんだろうと思って目で追ってしまう。

「……悔いの残らない戦いをして来なさい」

 そう言って差し出されたのは、合格祈願のお守りと、振って温めるタイプのカイロだった。じわりと涙が浮かぶ。堪えようと思ったのに、それは案外すぐに頬を伝って流れた。

「……ありがとう、お父さん。もう少し、頑張ってから寝る」

 歪なおにぎりは、ほのかに塩が振ってあって、でもところどころめちゃくちゃしょっぱいところもあって。焼きたらこは選んでくれたという味も相まって懐かしくておいしかった。コンソメスープもインスタントじゃなく、頑張って一から作ってくれたであろうことが伝わってきた。胃に優しいものを考えて作ってくれたのだろうか。
 おにぎりのしょっぱさは、私の涙のせいじゃない、きっと。

「お父さんは早く寝てね。明日も仕事でしょ?」
「ああ、そろそろ寝るよ。日和、おやすみ」
「——おやすみなさい」

 食べ終わって、部屋に戻る。お父さんから目を背けた途端、もう一度涙が溢れ出した。