「佐々木さん、私、理科二類に出します」
再度強く灯した炎をさらに熱く震わせる。
「よし、じゃあ残りすべてを賭けて二次力を上げていこう。数3の微積の感覚は戻ってきた?」
「はい、その辺は大丈夫そうです」
「おっけい! じゃあまずは直近10年分を回していこうか。2周目だし、この時期だからもちろん前より高得点狙ってね」
佐々木さんは、なんで? とか、理三がどうのこうのとか、何も言うことはなく、スッと飲み込んでくれた。何を言われるんだろうとちょっとビクビクしていたから、拍子抜けだ。
まずは赤本を使って直近10年分の過去問を解く。一度解いたことのある問題だし、復習もしっかりしているため、答案の流れが目に浮かぶようだ。早めにこれを終わらせて、あと残りの期間は、数学は以前購入した30ヵ年の問題集を使って単元ごとに問題を解きつつ、他の科目は各予備校の冠模試の過去問を回す。ひたすら演習演習で、ギリギリまで解ける問題を増やしに行くのだ。
過去問の解説は翠ちゃんが持っている青本とも比べながら、東大がどんな解答を求めているのか分析する。予備校が作っている解答例や赤本・青本に載っている解答は、問題を解いた予備校講師の解答と合格者が提出した「再現答案」が元になって作られている。つまり、点数が入っている解答を綿密に分析した結晶なのだ。
なぜその解答に点数が入るのか、自分の解答なら何点入って、どこが足りないのか、もしくはどこが余計なのか。それをじっくり考えてブラッシュアップしていく。結局、大学受験は大学との相性なんて言われたりするのは、得点のための解答のすり合わせが必要不可欠だからだろう。入試を研究され尽くしている東大が、その解答のすり合わせがやりやすいのは言うまでもなく、これが佐々木さんの言っていた「日本で一番、合格までの道筋が明らかになっている大学」の真意だ。やっとわかってきた。
それにしても、物理が一向にできるようにならない。もちろん、苦手を克服しようとまでは考えていない。残りの時間でそれは不可能な話。物理自体は基本問題だけ取り切って、他の科目でカバーするのが現実的な戦略だろう。そんなことはわかっているんだ。でも、そもそも基本問題を取り切るということすら叶っていない。夏秋の冠模試よりか、少しは解けるようになっているが、他の科目に比べて成長が感じられない。
「うーん、そうだねぇ……。まあ苦手な科目だから仕方ないところはあるね。だから日和さんが考えなきゃいけないのは、150分のなかでどれだけ長い時間を化学に割り振ることができるか、だよ」
「今でも結構長めに振ってますけど……」
「50と100くらいだっけ? じゃあもう10分ずらして、この冠模試の過去問やってみて」
佐々木さんに相談すると、アドバイスをくれた。東大入試の10分は本当に貴重だ。化学にあと10分振ることができたら、かなり解ける問題も増えるだろう。解答も丁寧に作れる。でも、その分急いで物理の基礎問題を見抜かなくてはならない。
「あと、これまでの物理の問題を、分野ごとに見比べてみるといいよ。力学なんか、装置の設定は毎年変わるけど、どういう流れでどの公式を使って解き進めるのかは結局同じだ。それを一般化してノートにまとめてみて。その上で、どこまでが基礎で取らなきゃいけない問題なのか、印をつけておくんだ。あとで僕が添削してあげよう」
佐々木さんの言われた通りにやってみることにした。分野ごとに解答の流れが決まっていることはわかっていたけど、いざそれをまとめて書き出してみようとすると、自分はその「流れ」がなんたるか何一つわかっていなかったことを知る。無知の知とはこのことだ。
問題文の条件を踏まえて、最初に立てるべき式を考える。問題の順番に沿って一つひとつ値を求めていくことで次に進める感覚。あれ? 物理って意外とパターンゲー? いや、そんな舐めたこと言ってはいけないけど、これなら最初の数問は確実に解けそうだ。もちろん、文字や条件を整理して正しく読み取らないと間違えてしまうけど。
それからは、物理の点数が少しだけ上がった。そして、基礎問題だけを効率よく選び出して、早めに解き終わらせ、化学に110分振る計画も順調。
あとは他の科目との折り合いを見つつ、満遍なく完成に向けてやるだけだ。——と思ったのも束の間。今度は別の問題が起きた。
「じゃあ、次英語ね。リスニング込みでやるから、とりあえず前半45分測るから。じゃあ、押すよ?」
「うん、おっけー」
リスニングがある英語は他の学生に迷惑にならないように、授業の時間を避けて2階の教室を使ってやっている。もちろん、翠ちゃんと一緒に。隣にやる気に満ち満ちた彼女がいるだけで、こんなにもモチベーションが維持しやすいのだと、最近気づいた。
タイマーが押され、私たちは佐々木さんがコピーしてくれた問題用紙をめくる。いつも通りの順番で解き始めようとした、その時だった。
目で単語を追っていく。いつもと同じ環境、同じスピード、4Aの文法問題で一問一問の文章はそこまで長くない。それなのに。なぜか内容がまったく頭に入って来ないのだ。
——待って、どうして、直前にトラブル? 何、これ……? きっと集中が足りていないだけ。もう一度最初から読もう。
そうやって何度も読み直したのに、一向に内容は入って来なかった。限られた過去問演習の機会で、解く順番を変えるのは悪手だと思ったが、背に腹は変えられない。何も解けずに終わる方がもっと最悪だ。とりあえず読む必要のない英作文からやろう。
英作文は問題なかった。でも、その他のどの問題も、他の問題は内容が理解できないと何もできず、45分を知らせるタイマーが鳴る。
暖房が十分に効いた暖かい、なんなら少し暑い部屋なのに、冷や汗で体はぐっしょり濡れていた。翠ちゃんがタイマーを止めても、手の震えは止まらず、震える声をやっとのことで絞り出す。
「あ、あの……ごめん、ちょっとトラブル……だから翠ちゃんはそのまま続けてて。私は佐々木さんのとこ行ってくる」
「え? ちょっと、どうしたのよ!」
翠ちゃんが呼び止めていたような気がしたけど、それに反応する余裕がなかった。早くどうにかしないと。まず誰かに伝えて落ち着きたい。1階の小学生ルームで勉強を教えていた佐々木さんの姿を見つけて、思わず叫ぶように名前を呼ぶ。
「……佐々木さん!」
「あれ? 日和さん、今は英語の途中じゃ……なんかあった? 大丈夫? 顔が真っ青だね、ちょっとそっちで座ろうか」
佐々木さんに肩を支えられるようにして休憩スペースへと向かった。状況を伝えようとするも、口元がはくはくと動くだけで、言葉にならない。
「ゆっくりでいいよ。無理しないで、とりあえず深呼吸しよう」
対小学生モードの優しい声で、こう言われる。ふぅ、とゆっくり息を吐き出して、私は話すことを整理しながら口を開いた。
「英語の過去問解いてたんですけど、文章がまったく頭に入って来なくて。いつもと同じスピードで読んでいるのに、頭の中で音読しながら読み進めているのに、内容が理解できないんです。精読しようと思えばなんとか意味は取れるんですけど、速読必須の東大入試じゃあ、それはダメで……ど、どうすればいいんですか? 直前にこんな……」
「そっかそっか。それは焦っちゃうよね。早く教えてくれてありがとう。——多分だけどね、日和さんはちょっとオーバーワーク気味なのかもしれない」
「オーバー……ワーク……?」
佐々木さんの声がとても落ち着いていて、縋りたくなってしまう。あれ? この人、こんなに頼り甲斐あったっけ……?
近くに置いてあるストーブが、いつものように空気を温め、ゆらめかせている。それを見ていると、少しだけ落ち着いてきた。
「そう。頑張りすぎってこと。ちょっと休憩を挟んでもいいかもしれない。最近は毎日どの科目も過去問をガッツリ解いていると思うんだけど、東大の問題も冠模試の問題も、本当に頭を使うからね。根詰めすぎて体調崩したら元も子もない。——そうだな、ここから5日間、英語の過去問はやめてみよう」
「え? そんなに?」
「うん。文章が読めないっていうのは、結構心に負担がかかっているときに起こることなんだよね。そのサインを無視して頑張り続けるのはよくない。こういうときは、距離を取ってみるのが案外いい方法だったりするんだ。直前に勉強できないのは不安かもしれない。でも、健康に健全に受験を迎えるためには、一度立ち止まることも大事だ」
言われてみれば、最近は息抜きで漫画を読むこともなくなってしまった。共テで大失敗してから、さらに自分を追い込んで勉強に励んでいた気がする。いや、それくらいの気概でやらないと合格できないから、当たり前なんだけど。
——本当に、休んでいいの……?
佐々木さんの言うことは、大抵正しい。でも、休んでしまったら、私は合格できなかったとき、絶対に後悔してしまう。あのときやらなかったからだって。
「……英語には、まったく触らない方がいいですか?」
「できれば最初の3日間くらいは完全に忘れてほしいかな。不安?」
「はい。ここでやらなかったからって後悔することになりそうで。何か、いい案はないですかね……すみません。わがまま言っているのはわかってるんですけど」
「いや、きみが感じている不安は正しいよ。誰だってそう思う。そうだね……じゃあ、英文解釈の問題集をやろう」
英文解釈は、英文のSVOCを正確に把握して、構造を読み解き、正しく丁寧に意味を理解するいわゆる「精読」だ。東大の入試は、この精読を極めた先の速読、すなわち正しく英文を理解するスピードを極限まで高める読解方法で解く。つまり、佐々木さんは基礎に戻れと言っているのだ。この入試1ヶ月前に。
「内容が入って来なくなったんでしょ? それなら、ゆっくり読めばいい。時間に追われず、じっくり正確に和訳してみよう。そうしたらきっと、感覚が戻ってくるはず」
そう説明されると、確かにそんな気もしてくる。——信じよう。これまでも、この人についてきて、間違いなかったんだから。共テだって、佐々木さんがいなかったらあそこまで難化した試験であの点数は取れなかった。きっと独学だったらものすごく悲惨な点数を取っていたことだろう。
私はうなずいて、ありがとうございます、と礼を言う。青い炎は、熱さよりも不安で揺らめていたが、目指す光をまっすぐ見据えていた。
再度強く灯した炎をさらに熱く震わせる。
「よし、じゃあ残りすべてを賭けて二次力を上げていこう。数3の微積の感覚は戻ってきた?」
「はい、その辺は大丈夫そうです」
「おっけい! じゃあまずは直近10年分を回していこうか。2周目だし、この時期だからもちろん前より高得点狙ってね」
佐々木さんは、なんで? とか、理三がどうのこうのとか、何も言うことはなく、スッと飲み込んでくれた。何を言われるんだろうとちょっとビクビクしていたから、拍子抜けだ。
まずは赤本を使って直近10年分の過去問を解く。一度解いたことのある問題だし、復習もしっかりしているため、答案の流れが目に浮かぶようだ。早めにこれを終わらせて、あと残りの期間は、数学は以前購入した30ヵ年の問題集を使って単元ごとに問題を解きつつ、他の科目は各予備校の冠模試の過去問を回す。ひたすら演習演習で、ギリギリまで解ける問題を増やしに行くのだ。
過去問の解説は翠ちゃんが持っている青本とも比べながら、東大がどんな解答を求めているのか分析する。予備校が作っている解答例や赤本・青本に載っている解答は、問題を解いた予備校講師の解答と合格者が提出した「再現答案」が元になって作られている。つまり、点数が入っている解答を綿密に分析した結晶なのだ。
なぜその解答に点数が入るのか、自分の解答なら何点入って、どこが足りないのか、もしくはどこが余計なのか。それをじっくり考えてブラッシュアップしていく。結局、大学受験は大学との相性なんて言われたりするのは、得点のための解答のすり合わせが必要不可欠だからだろう。入試を研究され尽くしている東大が、その解答のすり合わせがやりやすいのは言うまでもなく、これが佐々木さんの言っていた「日本で一番、合格までの道筋が明らかになっている大学」の真意だ。やっとわかってきた。
それにしても、物理が一向にできるようにならない。もちろん、苦手を克服しようとまでは考えていない。残りの時間でそれは不可能な話。物理自体は基本問題だけ取り切って、他の科目でカバーするのが現実的な戦略だろう。そんなことはわかっているんだ。でも、そもそも基本問題を取り切るということすら叶っていない。夏秋の冠模試よりか、少しは解けるようになっているが、他の科目に比べて成長が感じられない。
「うーん、そうだねぇ……。まあ苦手な科目だから仕方ないところはあるね。だから日和さんが考えなきゃいけないのは、150分のなかでどれだけ長い時間を化学に割り振ることができるか、だよ」
「今でも結構長めに振ってますけど……」
「50と100くらいだっけ? じゃあもう10分ずらして、この冠模試の過去問やってみて」
佐々木さんに相談すると、アドバイスをくれた。東大入試の10分は本当に貴重だ。化学にあと10分振ることができたら、かなり解ける問題も増えるだろう。解答も丁寧に作れる。でも、その分急いで物理の基礎問題を見抜かなくてはならない。
「あと、これまでの物理の問題を、分野ごとに見比べてみるといいよ。力学なんか、装置の設定は毎年変わるけど、どういう流れでどの公式を使って解き進めるのかは結局同じだ。それを一般化してノートにまとめてみて。その上で、どこまでが基礎で取らなきゃいけない問題なのか、印をつけておくんだ。あとで僕が添削してあげよう」
佐々木さんの言われた通りにやってみることにした。分野ごとに解答の流れが決まっていることはわかっていたけど、いざそれをまとめて書き出してみようとすると、自分はその「流れ」がなんたるか何一つわかっていなかったことを知る。無知の知とはこのことだ。
問題文の条件を踏まえて、最初に立てるべき式を考える。問題の順番に沿って一つひとつ値を求めていくことで次に進める感覚。あれ? 物理って意外とパターンゲー? いや、そんな舐めたこと言ってはいけないけど、これなら最初の数問は確実に解けそうだ。もちろん、文字や条件を整理して正しく読み取らないと間違えてしまうけど。
それからは、物理の点数が少しだけ上がった。そして、基礎問題だけを効率よく選び出して、早めに解き終わらせ、化学に110分振る計画も順調。
あとは他の科目との折り合いを見つつ、満遍なく完成に向けてやるだけだ。——と思ったのも束の間。今度は別の問題が起きた。
「じゃあ、次英語ね。リスニング込みでやるから、とりあえず前半45分測るから。じゃあ、押すよ?」
「うん、おっけー」
リスニングがある英語は他の学生に迷惑にならないように、授業の時間を避けて2階の教室を使ってやっている。もちろん、翠ちゃんと一緒に。隣にやる気に満ち満ちた彼女がいるだけで、こんなにもモチベーションが維持しやすいのだと、最近気づいた。
タイマーが押され、私たちは佐々木さんがコピーしてくれた問題用紙をめくる。いつも通りの順番で解き始めようとした、その時だった。
目で単語を追っていく。いつもと同じ環境、同じスピード、4Aの文法問題で一問一問の文章はそこまで長くない。それなのに。なぜか内容がまったく頭に入って来ないのだ。
——待って、どうして、直前にトラブル? 何、これ……? きっと集中が足りていないだけ。もう一度最初から読もう。
そうやって何度も読み直したのに、一向に内容は入って来なかった。限られた過去問演習の機会で、解く順番を変えるのは悪手だと思ったが、背に腹は変えられない。何も解けずに終わる方がもっと最悪だ。とりあえず読む必要のない英作文からやろう。
英作文は問題なかった。でも、その他のどの問題も、他の問題は内容が理解できないと何もできず、45分を知らせるタイマーが鳴る。
暖房が十分に効いた暖かい、なんなら少し暑い部屋なのに、冷や汗で体はぐっしょり濡れていた。翠ちゃんがタイマーを止めても、手の震えは止まらず、震える声をやっとのことで絞り出す。
「あ、あの……ごめん、ちょっとトラブル……だから翠ちゃんはそのまま続けてて。私は佐々木さんのとこ行ってくる」
「え? ちょっと、どうしたのよ!」
翠ちゃんが呼び止めていたような気がしたけど、それに反応する余裕がなかった。早くどうにかしないと。まず誰かに伝えて落ち着きたい。1階の小学生ルームで勉強を教えていた佐々木さんの姿を見つけて、思わず叫ぶように名前を呼ぶ。
「……佐々木さん!」
「あれ? 日和さん、今は英語の途中じゃ……なんかあった? 大丈夫? 顔が真っ青だね、ちょっとそっちで座ろうか」
佐々木さんに肩を支えられるようにして休憩スペースへと向かった。状況を伝えようとするも、口元がはくはくと動くだけで、言葉にならない。
「ゆっくりでいいよ。無理しないで、とりあえず深呼吸しよう」
対小学生モードの優しい声で、こう言われる。ふぅ、とゆっくり息を吐き出して、私は話すことを整理しながら口を開いた。
「英語の過去問解いてたんですけど、文章がまったく頭に入って来なくて。いつもと同じスピードで読んでいるのに、頭の中で音読しながら読み進めているのに、内容が理解できないんです。精読しようと思えばなんとか意味は取れるんですけど、速読必須の東大入試じゃあ、それはダメで……ど、どうすればいいんですか? 直前にこんな……」
「そっかそっか。それは焦っちゃうよね。早く教えてくれてありがとう。——多分だけどね、日和さんはちょっとオーバーワーク気味なのかもしれない」
「オーバー……ワーク……?」
佐々木さんの声がとても落ち着いていて、縋りたくなってしまう。あれ? この人、こんなに頼り甲斐あったっけ……?
近くに置いてあるストーブが、いつものように空気を温め、ゆらめかせている。それを見ていると、少しだけ落ち着いてきた。
「そう。頑張りすぎってこと。ちょっと休憩を挟んでもいいかもしれない。最近は毎日どの科目も過去問をガッツリ解いていると思うんだけど、東大の問題も冠模試の問題も、本当に頭を使うからね。根詰めすぎて体調崩したら元も子もない。——そうだな、ここから5日間、英語の過去問はやめてみよう」
「え? そんなに?」
「うん。文章が読めないっていうのは、結構心に負担がかかっているときに起こることなんだよね。そのサインを無視して頑張り続けるのはよくない。こういうときは、距離を取ってみるのが案外いい方法だったりするんだ。直前に勉強できないのは不安かもしれない。でも、健康に健全に受験を迎えるためには、一度立ち止まることも大事だ」
言われてみれば、最近は息抜きで漫画を読むこともなくなってしまった。共テで大失敗してから、さらに自分を追い込んで勉強に励んでいた気がする。いや、それくらいの気概でやらないと合格できないから、当たり前なんだけど。
——本当に、休んでいいの……?
佐々木さんの言うことは、大抵正しい。でも、休んでしまったら、私は合格できなかったとき、絶対に後悔してしまう。あのときやらなかったからだって。
「……英語には、まったく触らない方がいいですか?」
「できれば最初の3日間くらいは完全に忘れてほしいかな。不安?」
「はい。ここでやらなかったからって後悔することになりそうで。何か、いい案はないですかね……すみません。わがまま言っているのはわかってるんですけど」
「いや、きみが感じている不安は正しいよ。誰だってそう思う。そうだね……じゃあ、英文解釈の問題集をやろう」
英文解釈は、英文のSVOCを正確に把握して、構造を読み解き、正しく丁寧に意味を理解するいわゆる「精読」だ。東大の入試は、この精読を極めた先の速読、すなわち正しく英文を理解するスピードを極限まで高める読解方法で解く。つまり、佐々木さんは基礎に戻れと言っているのだ。この入試1ヶ月前に。
「内容が入って来なくなったんでしょ? それなら、ゆっくり読めばいい。時間に追われず、じっくり正確に和訳してみよう。そうしたらきっと、感覚が戻ってくるはず」
そう説明されると、確かにそんな気もしてくる。——信じよう。これまでも、この人についてきて、間違いなかったんだから。共テだって、佐々木さんがいなかったらあそこまで難化した試験であの点数は取れなかった。きっと独学だったらものすごく悲惨な点数を取っていたことだろう。
私はうなずいて、ありがとうございます、と礼を言う。青い炎は、熱さよりも不安で揺らめていたが、目指す光をまっすぐ見据えていた。



