ストーブを囲むようにして椅子を置いて、腰をかける。コンビニで買ってきた肉まんの紙をはがす。向かいにいるのは、見慣れた黒髪のショートカット。切長の瞳が少し揺れているように見えるのは、ストーブによって温められた空気のせいだろうか。

「……あんたを選んだのは、」翠ちゃんがタイミングを掴み損ねたように唐突にしゃべり出す。「確かにあたしに敵わなそうで、でも一緒に頑張ってくれそうな人っていうのはあった。あんたに言われたように、あたしは本当にプライドが高くて、負けるのがどうしても嫌だったから。それは……ごめん」

 驚いた。プライドが高い人なのだから、絶対に謝らないと思っていた。

「ははっ、謝れるんだね。なんか、意外だ」
「なっ、ちょっと! 言い方!」
「ごめんって」

 久しぶりにこんな軽いやりとりをした。やっぱり、こうやってしゃべっている方が楽しい。あんなに一匹狼感満載で、私も遠ざけていた存在とこんなに軽口を叩き合えるなんて、いつの間にか私たちは通じ合う友達になっていたようだ。それを口に出すことはしないけど。

「でも、あんたにした理由はそれだけじゃないの。あんたが……このままじゃダメだって、今の自分を変えたい、でも変えられないって葛藤してるのが、これでもかってくらい伝わって来たから。ああ、あたしと一緒だって、そう思って声をかけた」
「私と、翠ちゃんが一緒……?」
「そう。あたしはね……」
 
 翠ちゃんは過去の経験を洗いざらい打ち明けてくれた。小学生のときに母が()()を発症し、闘病の末、中1のときに亡くなってしまったこと。それがきっかけで医者を目指そうと思ったこと。でも、お前はどうせ医者になれないと厳しく、口の悪い父に言われ、医学部を目指すことを真っ向から反対されていたこと。
 それなら理三に受かってやる! と啖呵を切って、中2以来誰とも遊ばず、ひたすら勉強だけして、理三を目指してきたのだと言う。中学の成績は余裕で学年トップ。県外の高校を目指すことを担任に提案されたが、地元の学校以外許さんと父が言い、泣く泣くこの高校に入ったらしい。
 自分ならやれると証明したい、母親のことも適当にしか看病していなかった、あんなゴミみたいな父親を見返してやりたい。ずっとそんな真っ黒い気持ちで進んできたんだ。
 そうやって言う翠ちゃんの声は何の色もついていなくて、それがかえって彼女の怒りを感じさせる。

「でも、あたし、そんな気持ちで医者になるの、ダメなんじゃないかって思うの。誰かを見返すとか、そんなことがしたくて誰かを助ける、命を預かる仕事に就いていいとは思えない。だから、母が亡くなったときの純粋な『助けたい』っていう気持ちを思い出したいの」

 翠ちゃんの弱々しい感情が、今初めて見えた。
 ——そうか、彼女はずっと、自分を責め続けていたんだ。怒りに任せて勉強しながら、その気持ちは間違いなんじゃないかって否定して、自分の感情を操って、自分を変えようともがいて来たんだ。
 ずっと、独りで戦ってきたのだろう。早くにお母さんを亡くしただけでも辛かっただろうに、お父さんにひどいことを言われて苦しかっただろうに。それでも走ることをやめずに、ここまで駆け抜けて来たんだ。

「あんたと一緒にやり出してからは、真っ黒い気持ちが紛れるようで、楽しくやれていたと思う。何より、あんたが純粋に医学の道を目指していたから、あたしも同じように純粋になれた気がしてた。でも、一度怒りが生まれてしまったら、なくならないの。紛れることはあっても、根底にある炎は消えない」彼女は静かに怒っていた。「自分勝手な理由であんたを引き込んで、怒りに塗れて嫉妬して、自分から遠ざけて。ほんと、救えないクズだと思うよ、あたし」

 何が彼女をそこまで駆り立てるんだろうと、ずっと不思議に思っていた。きっと、翠ちゃんの原動力は怒りなんだ。母が早くに亡くなってしまった理不尽への怒り、不自由に彼女を閉じ込める父への怒り、そして、純粋に医学を志せない、怒りがいつまで経っても消えない自分への、怒り。
 彼女の静かで高温の青い炎の正体は、これだったんだ。

「ちょっと、なんであんたが泣いてんのよ」

 翠ちゃんに困ったように言われて初めて自分が泣いていることに気づく。最近は人に言われて涙に気づくことが何かと多い。自分では気づかないの、どれだけ精神的に切羽詰まっているんだろう。まあ、試験直前だし、これくらい仕方ない。
 
「私、翠ちゃんにひどいこと言ったなぁって……それに、私のこと見下してるって誤解してたし、いや、正確には誤解ではないんだろうけど……とにかく打ち明けてくれて嬉しかった。ありがとう。そして、翠ちゃんの過去、本当に壮絶で、同情とかそういうんじゃないけど、辛かっただろうなって……」
「——それを同情って言うのよ……」

 ストーブの周りがゆらめく。そこに手をかざして温める。顔にこの空気を当てれば、涙も乾くかなと思ったけど、ものすごく乾燥しそうだったから、やめた。美容云々ではなく、乾燥は受験生の大敵だから、という理由が真っ先に浮かぶあたり、私はどこまでも東大受験生なのだろう。すぐ近くにあった加湿器のスイッチを入れる。

「あたしさ、共テ、887点だったんだ。9割届かなかった。このままだとちょっと不安だけど、やっぱりあたしは理三行きたい。未だに怒りに塗れちゃうこともあるけど、やっぱり助けたいっていう気持ちは本物だと思いたいから。理三出て、国境なき医師団に入る。佐々木さんには理二に落とすことを提案されたけど、あたしはこのまま特攻するって言った」
「そう、だったんだ……」

 佐々木さんは翠ちゃんにも理二を勧めたのか。8割後半でも……? 少しだけ自信をなくしてしまうが、でもそれ以上に、どうしても翠ちゃんの言葉に感化される心を止めることはできなかった。

「私の点数ね、811だったの。これだと理三は届かないと思う。何回も計算した。理二に変えること、私も提案されたけど、大学入ってからまたさらに頑張らなきゃいけないなんて、本当に大丈夫かなって何度も考えた。東大志望降りようかなって、ちょっと迷ってた。でも、今覚悟決まったよ」私はまっすぐ翠ちゃんの目を見て言う。「私、やっぱり翠ちゃんと一緒に東大受けたい。本当は理三一緒に受けたいよ。でも、現実的じゃないと思う。だから……理二に変える」

 私は私なりの戦略を取る。これは、紛れもない私の意志だ。

「あと……この間、翠ちゃんは『青春も何もかも捨てて受験にすべてを捧げてる』って言ってたけど、私、それは違うと思う。これが、この受験にまっすぐ向かう日々そのものが、私たちの青春なんだよ。私はそう胸を張って言える」
「ふーん、たしかに。いいじゃん、それ」

 あ、いつもの偉そうな翠ちゃんに戻った。それで、いいんだ。これで、いいんだ。私たちのこの会話だって、青春の1ページなんだから。
 ストーブの前で、翠ちゃんの白くて細い手とこぶしをぶつける。

「二次試験まで、全力で駆け抜けて行くよ、そして絶対合格掴んでやる」
「当たり前でしょ」

 見慣れた自習スペースの景色。畳の上に置かれた机と椅子。白い机の上に問題集とお馴染みの筆記用具が並べてある。顔を上げれば、佐々木さんチョイスの名言が貼ってある。そして、隣を見れば——前と同じように、黒髪のクールな少女が、必死で過去問を解いている。よし、と小さく呟いて、シャー芯をカチカチと押し出した。