試験から数日経った。もう二次試験対策期間に入っているため、学校の授業はない。私も翠ちゃんも朝から佐々木進学塾へと来ていた。今日は通称・共テリサーチ、全国の受験生が自己採点の結果と志望校を入力して予備校に提出すると、判定が明らかになる仕組みの返却日になっている。
「佐々木さんとの面談終わったら、しゃべろう」
「あたしもそう提案しようと思ってた」
翠ちゃんとじっくり向き合う約束をして、まずは佐々木さんとの面談に入る。マーク式試験が苦手な私は、もともと二次試験で巻き返そうとは考えていたが、まさかここまで共テが難化するとは思っていなかったのだ。志望校について、しっかり考えて悔いのない選択を早めにしなければならない。ここから二次試験までたったの40日しかないのだから。
試験の翌日の朝起きると、ニュースが入ってきていた。各予備校が共テの難易度を分析した結果、全体的に難化、特に数1Aに関しては歴代最低点を更新するかもしれないくらいに難しかったらしい。やっぱり、自分の感覚も会場のみんなの反応も間違っていなかったんだ。そのニュース記事を読んで、少し安心した。終わった直後みたいな絶望はもうそんなにない。現実を少しずつ受け止め、この点数でどう戦うか、東大を諦めるにせよ、この先どうするかを考え始めるフェーズに入っている。
共テ対策のため、しばらくの間触れていなかった数3の計算練習をしていると、翠ちゃんが2階から戻ってきて、ほどなくして佐々木さんが呼びに来た。階段を上る足音すら、いつもと違って聞こえる。共テリサーチは塾で出しているため、佐々木さんは私の判定をすでに見ている。どう思っているんだろうか。
数日前、私の合計点を聞いた佐々木さんは、今回の試験で800取れているならひとまず致命傷ではないと思うと言っていた。でも、それも本心かはわからない。励ますために言っているだけかもしれないし。
「まずは、今回の異例の難化を予測できていなくて、本当にすまなかった。これは完全に僕がいたらなかったのが原因だよ。日和さんをこの道に引き摺り込んだ身として、本当に申し訳ないと思ってる」
面談の最初、突然謝られた。いつものように飄々とした態度で共テリサーチを返却して、きみなら行ける、とか言うんだと思っていた。最初のように。
今回のは、それだけ予測不可能な事態だったんだ。そして、私の点数も判定も、きっとそれだけ悪かったということだろう。
でも、それにしたって謝られるのは困惑してしまう。点数が取れなかったのは私で、悪いのも私なのに。——責められるべきは、私なのに。
「い、いや、私が取れなかった、だけです。すみません……」
「きみが謝ることじゃない。受験はこういうことも起こり得る。最初にこれを説明しなかった僕が悪いんだよ。都合のいいことだけ言って、きみを半ば無理やり東大受験生にしてしまった——」
いつものように何を考えているかわからない佐々木さんではない。後悔と申し訳なさが伝わってきて、戸惑う。
「……違います、佐々木さん。それは違いますよ。最初は確かに、佐々木さんと翠ちゃんに無理やり目指すように仕向けられたのかもしれないけど、私、いつの間にか本心から東大目指していました。これは紛れもない、自分の意志です。私が、私自身が、東大受かりたい……受かりたいです」
机に乗せていたこぶしをさらに強く握りしめる。人に言われてやり始めたら続かないなんていう言葉をよく聞く。でも、実際に経験してみたら、そんなことはなかった。唐突に提案されて驚いたし、東大受験がどれくらいきついもので、自分がどれくらい遠い旅路に足を踏み入れるのか、何一つ知らなかった。けれど、今は違う。夢はしっかり自分のものになったんだ。
「そっかそっか……それを聞いて安心したよ。じゃあ、切り替えて未来の話をしようか」
「はい」
佐々木さんはリサーチの結果を机の上に広げる。複数の予備校から届いたもの、すべてだ。結果は、どこもC。
「合格可能性なんてのは、目安に過ぎない。ただ、共テリサーチにおいて、大事なのはこのグラフだ。得点分布。理三志望者の中で、どれくらいの人数が自分より上にいるのかがわかる。もちろん、リサーチに出している人しか出ないから、もう少し多い可能性はあるけどね」
指差されたグラフでは、自分の位置とどの点数帯に何人くらいいるのかが一目瞭然になっている。
「理三志望にとっても、今年はやっぱり難しかったみたいなんだよね。高得点層が例年より少ない。とはいえ、やっぱり他の大学と比較すると、東大志望者は圧倒的に難化に耐えているようだね。その結果がこの判定ということだ」
ここから巻き返すには、確実に獲り切れる「二次力」が必須だ。現実的に考えて、正直自信はない。
これまで、このまま頑張れば受かるかもしれない、という可能性に賭けて進んできた。それなのに、いざ二次試験を目の前にして、合格という文字が薄れていく。
「日和さんに、ひとつ提案がしたい」
佐々木さんは静かに切り出した。いつもテンションを無理に上げていて、怪しいくらいに捉えどころのない人であるせいで、その静けさは異様に響いた。胡散臭い方が一周回って信用できる事態になっている。
「——第一志望を理科二類に変更しないかい?」
最初に思ったのは、理科二類って何するところ? だった。次にやって来たのは、やっぱり理三は諦めた方がいいんだ、ということ。佐々木さんがそう言うってことはきっとそうなんだ。思い返してみると、佐々木さんの言う通りにやってきて、間違えたと思ったことはほとんどない。怪しさ満載だけど、人を引っ張る力は本物だ。
「理二だったら、行けるんですか」
「ほら、ここ見てよ」
佐々木さんが次に指差したのは、リサーチの第二志望の判定だった。これまで、どの模試でも理三の次に理二をとりあえず書いておけ、と言われていたから、第二志望は理二にしている。第三志望以下は慶應医学部や慈恵医科大学、そして東京科学大学の後期と続けた。私大を受けるつもりはないけど、他の理三志望が受けそうなところを書いておけば、分析がしやすいから。
そこに書かれているのは、B判定の文字。そっか、理科二類なら、理三よりも合格可能性が高いんだ。
「きみはすでに知っているとは思うけど、東大には進振り制度というものがあるんだ。これは3年生の学部選択のときに、文理関係なくそれぞれの科類から好きな学部学科に進学できるっていう仕組み。だけど、各科類からどの学部に進むかは一定決まっていて、他の学部に行くためには限られている枠を争わなきゃいけない。そして、行きたい学部に行けるのは大学の成績がいい人なんだよね」
佐々木さんは少しだけ窓の外に目線を向けて、すぐにこちらを向き直した。
「理三はほとんどがそのまま医学部に行く。そして……理三以外の科類からも、もちろん医学部に進むことができるんだ。これがいわゆる『医進』。で、理二が一番医進しやすいって言われてる。そこを狙って、第一志望を理科二類に変えるっていう手はあるんだ」
聞いたことがあるような、ないような。でも、それって本当に難しいんじゃないか。
「入ってからが大変じゃないかって思ったでしょ。まあ大変であることは確かだね。でも、受験よりは厳しくないのも確か。なぜなら、大学受験は受験生全員が本気だけど、大学の勉強は全員が本気なわけじゃないから。——入ってから考えるでもいいんだけど、今軽く説明するね。東大は相対評価なんだ、つまり周りより頑張ればいい成績が降ってくる。それを根気よく集めることができれば、医進も視野に入ってくるはずだよ」
「——でも、東大の中で周りより頑張っても、周りは天才ばっかりで……」
「もう一回判定見てみる? 理科二類志望の中だったら結構いい成績取ってるんだよ? あんまり考えすぎなくて大丈夫。ここまで日和さんは本当によくやって来ているからね。そこは僕が保証しよう。——なんて、共テの読み外した僕が言っても信用ないけどね」
いや、そういうことは信頼できるよ。でも、そんなこと言うと調子に乗ってしまいそうだから、言わないけど。
「もちろん、これは日和さんが決めることだ。僕は選択肢をひとつ増やしたに過ぎない。そのまま理三目指すのもよし、理二に変えるもよし、他の学校にするにしても、僕が全力で導こう。今回のミスを挽回するつもりで頑張っちゃうからね」
——やっぱり胡散臭いかも。
「ちょっと考えてみます。リサーチもしっかり分析したいですし」
「いいねいいね。自分の立ち位置と理想のギャップを知ること。これは何よりも優先すべきことだからね。ただ、期限をつけよう。今週の日曜日まで、つまりあと4日で決めるんだ。二次対策はただでさえ40日しかないんだからね」
「わかりました」
息を吹き返した青い炎を確かめるように、左胸に手を当てる。あと4日で決めなくては。私の進む道を、私の意志で。
まだ、赤門の向こうを見られる可能性は残っているんだ。それだけが、本当に救いだった。いや、でもやっぱり東大は難しいのか……? 入学してから医学部に進学できるかどうかなんて、今時点ではさっぱり予想ができない。そんな雑に未来に努力を託していいのだろうか。
いつの間にか雪が降り出して、静かに積もり始めていた。雪の結晶が弱い風に揺られて、ちらちらといろんな方向に舞っているのが見えた。
「佐々木さんとの面談終わったら、しゃべろう」
「あたしもそう提案しようと思ってた」
翠ちゃんとじっくり向き合う約束をして、まずは佐々木さんとの面談に入る。マーク式試験が苦手な私は、もともと二次試験で巻き返そうとは考えていたが、まさかここまで共テが難化するとは思っていなかったのだ。志望校について、しっかり考えて悔いのない選択を早めにしなければならない。ここから二次試験までたったの40日しかないのだから。
試験の翌日の朝起きると、ニュースが入ってきていた。各予備校が共テの難易度を分析した結果、全体的に難化、特に数1Aに関しては歴代最低点を更新するかもしれないくらいに難しかったらしい。やっぱり、自分の感覚も会場のみんなの反応も間違っていなかったんだ。そのニュース記事を読んで、少し安心した。終わった直後みたいな絶望はもうそんなにない。現実を少しずつ受け止め、この点数でどう戦うか、東大を諦めるにせよ、この先どうするかを考え始めるフェーズに入っている。
共テ対策のため、しばらくの間触れていなかった数3の計算練習をしていると、翠ちゃんが2階から戻ってきて、ほどなくして佐々木さんが呼びに来た。階段を上る足音すら、いつもと違って聞こえる。共テリサーチは塾で出しているため、佐々木さんは私の判定をすでに見ている。どう思っているんだろうか。
数日前、私の合計点を聞いた佐々木さんは、今回の試験で800取れているならひとまず致命傷ではないと思うと言っていた。でも、それも本心かはわからない。励ますために言っているだけかもしれないし。
「まずは、今回の異例の難化を予測できていなくて、本当にすまなかった。これは完全に僕がいたらなかったのが原因だよ。日和さんをこの道に引き摺り込んだ身として、本当に申し訳ないと思ってる」
面談の最初、突然謝られた。いつものように飄々とした態度で共テリサーチを返却して、きみなら行ける、とか言うんだと思っていた。最初のように。
今回のは、それだけ予測不可能な事態だったんだ。そして、私の点数も判定も、きっとそれだけ悪かったということだろう。
でも、それにしたって謝られるのは困惑してしまう。点数が取れなかったのは私で、悪いのも私なのに。——責められるべきは、私なのに。
「い、いや、私が取れなかった、だけです。すみません……」
「きみが謝ることじゃない。受験はこういうことも起こり得る。最初にこれを説明しなかった僕が悪いんだよ。都合のいいことだけ言って、きみを半ば無理やり東大受験生にしてしまった——」
いつものように何を考えているかわからない佐々木さんではない。後悔と申し訳なさが伝わってきて、戸惑う。
「……違います、佐々木さん。それは違いますよ。最初は確かに、佐々木さんと翠ちゃんに無理やり目指すように仕向けられたのかもしれないけど、私、いつの間にか本心から東大目指していました。これは紛れもない、自分の意志です。私が、私自身が、東大受かりたい……受かりたいです」
机に乗せていたこぶしをさらに強く握りしめる。人に言われてやり始めたら続かないなんていう言葉をよく聞く。でも、実際に経験してみたら、そんなことはなかった。唐突に提案されて驚いたし、東大受験がどれくらいきついもので、自分がどれくらい遠い旅路に足を踏み入れるのか、何一つ知らなかった。けれど、今は違う。夢はしっかり自分のものになったんだ。
「そっかそっか……それを聞いて安心したよ。じゃあ、切り替えて未来の話をしようか」
「はい」
佐々木さんはリサーチの結果を机の上に広げる。複数の予備校から届いたもの、すべてだ。結果は、どこもC。
「合格可能性なんてのは、目安に過ぎない。ただ、共テリサーチにおいて、大事なのはこのグラフだ。得点分布。理三志望者の中で、どれくらいの人数が自分より上にいるのかがわかる。もちろん、リサーチに出している人しか出ないから、もう少し多い可能性はあるけどね」
指差されたグラフでは、自分の位置とどの点数帯に何人くらいいるのかが一目瞭然になっている。
「理三志望にとっても、今年はやっぱり難しかったみたいなんだよね。高得点層が例年より少ない。とはいえ、やっぱり他の大学と比較すると、東大志望者は圧倒的に難化に耐えているようだね。その結果がこの判定ということだ」
ここから巻き返すには、確実に獲り切れる「二次力」が必須だ。現実的に考えて、正直自信はない。
これまで、このまま頑張れば受かるかもしれない、という可能性に賭けて進んできた。それなのに、いざ二次試験を目の前にして、合格という文字が薄れていく。
「日和さんに、ひとつ提案がしたい」
佐々木さんは静かに切り出した。いつもテンションを無理に上げていて、怪しいくらいに捉えどころのない人であるせいで、その静けさは異様に響いた。胡散臭い方が一周回って信用できる事態になっている。
「——第一志望を理科二類に変更しないかい?」
最初に思ったのは、理科二類って何するところ? だった。次にやって来たのは、やっぱり理三は諦めた方がいいんだ、ということ。佐々木さんがそう言うってことはきっとそうなんだ。思い返してみると、佐々木さんの言う通りにやってきて、間違えたと思ったことはほとんどない。怪しさ満載だけど、人を引っ張る力は本物だ。
「理二だったら、行けるんですか」
「ほら、ここ見てよ」
佐々木さんが次に指差したのは、リサーチの第二志望の判定だった。これまで、どの模試でも理三の次に理二をとりあえず書いておけ、と言われていたから、第二志望は理二にしている。第三志望以下は慶應医学部や慈恵医科大学、そして東京科学大学の後期と続けた。私大を受けるつもりはないけど、他の理三志望が受けそうなところを書いておけば、分析がしやすいから。
そこに書かれているのは、B判定の文字。そっか、理科二類なら、理三よりも合格可能性が高いんだ。
「きみはすでに知っているとは思うけど、東大には進振り制度というものがあるんだ。これは3年生の学部選択のときに、文理関係なくそれぞれの科類から好きな学部学科に進学できるっていう仕組み。だけど、各科類からどの学部に進むかは一定決まっていて、他の学部に行くためには限られている枠を争わなきゃいけない。そして、行きたい学部に行けるのは大学の成績がいい人なんだよね」
佐々木さんは少しだけ窓の外に目線を向けて、すぐにこちらを向き直した。
「理三はほとんどがそのまま医学部に行く。そして……理三以外の科類からも、もちろん医学部に進むことができるんだ。これがいわゆる『医進』。で、理二が一番医進しやすいって言われてる。そこを狙って、第一志望を理科二類に変えるっていう手はあるんだ」
聞いたことがあるような、ないような。でも、それって本当に難しいんじゃないか。
「入ってからが大変じゃないかって思ったでしょ。まあ大変であることは確かだね。でも、受験よりは厳しくないのも確か。なぜなら、大学受験は受験生全員が本気だけど、大学の勉強は全員が本気なわけじゃないから。——入ってから考えるでもいいんだけど、今軽く説明するね。東大は相対評価なんだ、つまり周りより頑張ればいい成績が降ってくる。それを根気よく集めることができれば、医進も視野に入ってくるはずだよ」
「——でも、東大の中で周りより頑張っても、周りは天才ばっかりで……」
「もう一回判定見てみる? 理科二類志望の中だったら結構いい成績取ってるんだよ? あんまり考えすぎなくて大丈夫。ここまで日和さんは本当によくやって来ているからね。そこは僕が保証しよう。——なんて、共テの読み外した僕が言っても信用ないけどね」
いや、そういうことは信頼できるよ。でも、そんなこと言うと調子に乗ってしまいそうだから、言わないけど。
「もちろん、これは日和さんが決めることだ。僕は選択肢をひとつ増やしたに過ぎない。そのまま理三目指すのもよし、理二に変えるもよし、他の学校にするにしても、僕が全力で導こう。今回のミスを挽回するつもりで頑張っちゃうからね」
——やっぱり胡散臭いかも。
「ちょっと考えてみます。リサーチもしっかり分析したいですし」
「いいねいいね。自分の立ち位置と理想のギャップを知ること。これは何よりも優先すべきことだからね。ただ、期限をつけよう。今週の日曜日まで、つまりあと4日で決めるんだ。二次対策はただでさえ40日しかないんだからね」
「わかりました」
息を吹き返した青い炎を確かめるように、左胸に手を当てる。あと4日で決めなくては。私の進む道を、私の意志で。
まだ、赤門の向こうを見られる可能性は残っているんだ。それだけが、本当に救いだった。いや、でもやっぱり東大は難しいのか……? 入学してから医学部に進学できるかどうかなんて、今時点ではさっぱり予想ができない。そんな雑に未来に努力を託していいのだろうか。
いつの間にか雪が降り出して、静かに積もり始めていた。雪の結晶が弱い風に揺られて、ちらちらといろんな方向に舞っているのが見えた。



