初日が終わった。帰り道の記憶はない。どうやってバスに乗ったのか、まったく覚えていないが、気づいたら住んでいるマンションが見えて、なだれ込むようにして帰ったのだった。
——全然ダメだった。
世界史はまだよかった。何個か微妙な問題はあったが、90は乗っているだろう。最後の英語リーディングとリスニングもまあまあ。練習通りといったところだろうか。
問題は国語だ。私は元来、マーク式、すなわち選択問題が苦手だ。記述なら部分点を狙いに行けるし、出題者がどんな解答を求めているか予想して書くことができる。でも、選択問題はダメなのだ。最後の2択まで絞ることができても、そこから正解を選ぶことがいつもできない。その悪い部分が全部出てしまった気がする。
国語は200点満点で、一問一問の配点が最も高い科目だ。内容の理解を問う問題は、ことごとく7点や8点がつけられていて、とにかくダメージがデカい。
やってしまった感が否めない。どれほど失点してしまったのだろう。明日に向けて切り替えていかなくてはならないのはわかっている。でも、どうしても取れなかった問題の数ばかり考えてしまう。
『1日目が終わっても、絶対に絶対に自己採点だけはしないこと。それくらい我慢できないようじゃ、東大を受ける資格はないと思って。たとえどんなに失敗した、と思っても、予備校の解答速報だけは、何があっても開いちゃダメだよ』
佐々木さんの忠告が聞こえてくる。わかっています、そんなことはしません、切り替えます。頭の中で答える。
仕方ない、提出したマークシートは変えられない。今日は疲れているし、さっさと寝よう。頭の疲れを取ることが最優先だ。そうすれば、悪い思考も消えてなくなって、きっと切り替えられるはず。
私はそう思って、入浴後すぐに泥のように眠った。
✳︎✳︎✳︎
2日目、起きたら意外と切り替えはすんなりできて、初日と同じように会場に足を運ぶ。佐々木さんに励まされて、翠ちゃんとはまたうなずき合って、理系科目の試験に臨んだ。
結果は、——惨敗だった。
数1Aの試験が終わった瞬間、教室がざわめいたのがわかった。これは、あれだ。伝説になるやつだ。すぐに悟った。「異例の難化」とかいって平均点が史上最低を更新するんだ。
みんなの反応を見て、安心した。だって、全然できなかったから。これまで、模試でも過去問でも、ひどくたって8割に乗せることはできていた。調子がいいときや問題との相性がいいときは9割に届くこともあった。こんなにひどい出来の回はなかった。よかった、私だけじゃなくて。どうか、他の理三志望もみんな、取れていないでくれ。失点していてくれ。
試験終了5分前、解けていない問題の多さに、これまでにないほど焦った。冠模試だってこんなに焦ったことはない。それは、試験本番だからと言われればそれまでなのだけど、文字が書けないほどに手がブルブル震えて、必死で頭を回そうとしても、あと5分しかない、間に合わない、落ちちゃう、とそんなことしか考えられない。問題文が何も頭に入ってこない。軽いパニックに陥っていたのだろうと思う。手の震えには慣れたつもりだった。緊張にも。でも、そんな次元ではなかった。
そのままの精神状態で、数2Bを迎えることになってしまった。数1Aほどひどくはないと思う。後半はまだ集中できていた。でも、やっぱり影響は少なからずあった。いや、かなりあった。時間配分も何もかも、練習通りには行かなかった。
理科と情報は問題なかったと思う。思いたい。初日の国語と今日の数学だけで致命傷なのだ。これ以上はやめてほしい。
試験が終わり、とぼとぼと帰路についた。バスに乗って、なんとなく外の景色を眺める。もうだいぶ遅い時間だが、街の明かりが煌々と眩しい。
降りるとき、運転手さんにありがとうございます、と言ってICカードをかざす。できるだけ、いつも通り振る舞おうとする。知らない人だけど。
「あんた、大丈夫かい? 何か嫌なことがあったのかい?」
話しかけられて驚く。私の家の最寄りはバスの中継所みたいな役割をしているため、終点になっている。他に客は乗っていない。
何について大丈夫か尋ねられたか、一瞬わからなかった。でも、すぐに答えにたどり着く。
——ああ、私、泣いてるんだ。
自覚した途端、涙はとめどなくこぼれ落ちてきた。
「ちょっとちょっと、本当に大丈夫か? 帰れる?」
「……大丈夫です、ごめんなさい、ありがとうございました」
なんとか声を振り絞って、ピッと音が鳴ったのを確認し、涙を拭いながらバスを降りる。
——ダメなんだ。私の実力じゃあやっぱり、理三なんて夢のまた夢なんだ。
よろよろと歩いて家にたどり着くと、お母さんが心配そうにしていたけど、それに構う余裕もなく、自室にこもる。学校で配られたタブレットに「共通テスト 解答速報」と入力して検索をかけると、初日の分はもちろん、すでに今日の分も上がっていた。
実際の点数を知るとなると、悔しさも悲しさも出てこない。ただただ緊張するだけだ。涙は引っ込み、また手が震え出した。昨日今日で私は何度この震えを体験したのだろう。寿命が縮みそうだ。
時間割に沿って、1科目ずつ自己採点していく。タブレットに直接丸バツを書き込む。丸が続いてくれればいいものを、いつもよりもバツの割合が高くて、心の中で何度も叫んだ。
もう、間違っていないでくれ! もうやめて、これ以上失点させないで!
いつか、翠ちゃんが言っていた、「失点は失血と同じと思え」という残酷な言葉をふと思い出す。そうか、このことなんだ。私はバツ印を書き込むたびに、体を傷つけて血を失って行っているんだ。どうりで痛いわけだ、心が。
数1Aは本当にひどかった。覚悟して自己採に臨んだつもりだったけど、その覚悟の上を行くような間違いの多さに、奥歯をぎゅっと噛みしめる。どうしよう、どうしよう、と騒ぎ立てられる環境の方がマシだったのかもしれない。誰かと一緒に採点していた方が。一人で点数を見ていると、発狂してしまいそうだ。
合計点は、1000点満点中811点。8割5分で留めるどころか、8割にギリギリ乗ったくらいだった。9割なんてまったく見えていない、遠い遠い向こうの話だ。電卓を叩いて、110点満点に換算する。89.21点。思わず電卓を落としてしまう。
110点中100点を超えよう、そうすれば二次試験で安心して戦える。
東大受験生はよくこんなことを言われる。私も佐々木さんにそう教えてもらった。全然だった。90点にも届いていない。何度も合計点を計算するも、結果は何も変わらない。
ああ、諦めるしかないのかな。ここが諦めどきなのかもしれない。
人って、もうダメだと思うと力が抜けて声も出ないし何もできないんだと知った。感情に名前をつける気力すら湧かない。ただただ何も考えず、電卓で毎年の理三の合格最低点の目安である380点から89.21点を引く。表示された結果は290.79。二次試験でこれくらい取らなければ、勝ち目は見えてこない。
瞬間的に各科目に点数を振り分けていく。国語35点、数学70点、英語80点、物理35点、化学45点。これじゃあダメだ、合計は265。足りない。全科目5点ずつ引き上げないと。国語40、数学75、英語85、物理40、化学50。……何それ、何その点数。無理に決まってる。
どの科目もずば抜けているわけじゃない私は、オールラウンダーとしてバランスを求めていかないといけないのに、そうやってなんとかかき集めてきた点数ですら足りそうにない。せめて、1科目でも飛び抜けて高得点を取れるものがあれば。数学100点越えとか、英語100点越えとか、物理化学は両方50点以上取れますとか! いや、今更だな——。
そもそも、元の目標点数ですら、ギリギリ取れるかどうかというところなのだ。これ以上引き上げて、残りの期間で完成させるのは現実的じゃない。
少し前まで力強く燃え上がっていた青い炎は、今や風前の灯火となってしまった。
——全然ダメだった。
世界史はまだよかった。何個か微妙な問題はあったが、90は乗っているだろう。最後の英語リーディングとリスニングもまあまあ。練習通りといったところだろうか。
問題は国語だ。私は元来、マーク式、すなわち選択問題が苦手だ。記述なら部分点を狙いに行けるし、出題者がどんな解答を求めているか予想して書くことができる。でも、選択問題はダメなのだ。最後の2択まで絞ることができても、そこから正解を選ぶことがいつもできない。その悪い部分が全部出てしまった気がする。
国語は200点満点で、一問一問の配点が最も高い科目だ。内容の理解を問う問題は、ことごとく7点や8点がつけられていて、とにかくダメージがデカい。
やってしまった感が否めない。どれほど失点してしまったのだろう。明日に向けて切り替えていかなくてはならないのはわかっている。でも、どうしても取れなかった問題の数ばかり考えてしまう。
『1日目が終わっても、絶対に絶対に自己採点だけはしないこと。それくらい我慢できないようじゃ、東大を受ける資格はないと思って。たとえどんなに失敗した、と思っても、予備校の解答速報だけは、何があっても開いちゃダメだよ』
佐々木さんの忠告が聞こえてくる。わかっています、そんなことはしません、切り替えます。頭の中で答える。
仕方ない、提出したマークシートは変えられない。今日は疲れているし、さっさと寝よう。頭の疲れを取ることが最優先だ。そうすれば、悪い思考も消えてなくなって、きっと切り替えられるはず。
私はそう思って、入浴後すぐに泥のように眠った。
✳︎✳︎✳︎
2日目、起きたら意外と切り替えはすんなりできて、初日と同じように会場に足を運ぶ。佐々木さんに励まされて、翠ちゃんとはまたうなずき合って、理系科目の試験に臨んだ。
結果は、——惨敗だった。
数1Aの試験が終わった瞬間、教室がざわめいたのがわかった。これは、あれだ。伝説になるやつだ。すぐに悟った。「異例の難化」とかいって平均点が史上最低を更新するんだ。
みんなの反応を見て、安心した。だって、全然できなかったから。これまで、模試でも過去問でも、ひどくたって8割に乗せることはできていた。調子がいいときや問題との相性がいいときは9割に届くこともあった。こんなにひどい出来の回はなかった。よかった、私だけじゃなくて。どうか、他の理三志望もみんな、取れていないでくれ。失点していてくれ。
試験終了5分前、解けていない問題の多さに、これまでにないほど焦った。冠模試だってこんなに焦ったことはない。それは、試験本番だからと言われればそれまでなのだけど、文字が書けないほどに手がブルブル震えて、必死で頭を回そうとしても、あと5分しかない、間に合わない、落ちちゃう、とそんなことしか考えられない。問題文が何も頭に入ってこない。軽いパニックに陥っていたのだろうと思う。手の震えには慣れたつもりだった。緊張にも。でも、そんな次元ではなかった。
そのままの精神状態で、数2Bを迎えることになってしまった。数1Aほどひどくはないと思う。後半はまだ集中できていた。でも、やっぱり影響は少なからずあった。いや、かなりあった。時間配分も何もかも、練習通りには行かなかった。
理科と情報は問題なかったと思う。思いたい。初日の国語と今日の数学だけで致命傷なのだ。これ以上はやめてほしい。
試験が終わり、とぼとぼと帰路についた。バスに乗って、なんとなく外の景色を眺める。もうだいぶ遅い時間だが、街の明かりが煌々と眩しい。
降りるとき、運転手さんにありがとうございます、と言ってICカードをかざす。できるだけ、いつも通り振る舞おうとする。知らない人だけど。
「あんた、大丈夫かい? 何か嫌なことがあったのかい?」
話しかけられて驚く。私の家の最寄りはバスの中継所みたいな役割をしているため、終点になっている。他に客は乗っていない。
何について大丈夫か尋ねられたか、一瞬わからなかった。でも、すぐに答えにたどり着く。
——ああ、私、泣いてるんだ。
自覚した途端、涙はとめどなくこぼれ落ちてきた。
「ちょっとちょっと、本当に大丈夫か? 帰れる?」
「……大丈夫です、ごめんなさい、ありがとうございました」
なんとか声を振り絞って、ピッと音が鳴ったのを確認し、涙を拭いながらバスを降りる。
——ダメなんだ。私の実力じゃあやっぱり、理三なんて夢のまた夢なんだ。
よろよろと歩いて家にたどり着くと、お母さんが心配そうにしていたけど、それに構う余裕もなく、自室にこもる。学校で配られたタブレットに「共通テスト 解答速報」と入力して検索をかけると、初日の分はもちろん、すでに今日の分も上がっていた。
実際の点数を知るとなると、悔しさも悲しさも出てこない。ただただ緊張するだけだ。涙は引っ込み、また手が震え出した。昨日今日で私は何度この震えを体験したのだろう。寿命が縮みそうだ。
時間割に沿って、1科目ずつ自己採点していく。タブレットに直接丸バツを書き込む。丸が続いてくれればいいものを、いつもよりもバツの割合が高くて、心の中で何度も叫んだ。
もう、間違っていないでくれ! もうやめて、これ以上失点させないで!
いつか、翠ちゃんが言っていた、「失点は失血と同じと思え」という残酷な言葉をふと思い出す。そうか、このことなんだ。私はバツ印を書き込むたびに、体を傷つけて血を失って行っているんだ。どうりで痛いわけだ、心が。
数1Aは本当にひどかった。覚悟して自己採に臨んだつもりだったけど、その覚悟の上を行くような間違いの多さに、奥歯をぎゅっと噛みしめる。どうしよう、どうしよう、と騒ぎ立てられる環境の方がマシだったのかもしれない。誰かと一緒に採点していた方が。一人で点数を見ていると、発狂してしまいそうだ。
合計点は、1000点満点中811点。8割5分で留めるどころか、8割にギリギリ乗ったくらいだった。9割なんてまったく見えていない、遠い遠い向こうの話だ。電卓を叩いて、110点満点に換算する。89.21点。思わず電卓を落としてしまう。
110点中100点を超えよう、そうすれば二次試験で安心して戦える。
東大受験生はよくこんなことを言われる。私も佐々木さんにそう教えてもらった。全然だった。90点にも届いていない。何度も合計点を計算するも、結果は何も変わらない。
ああ、諦めるしかないのかな。ここが諦めどきなのかもしれない。
人って、もうダメだと思うと力が抜けて声も出ないし何もできないんだと知った。感情に名前をつける気力すら湧かない。ただただ何も考えず、電卓で毎年の理三の合格最低点の目安である380点から89.21点を引く。表示された結果は290.79。二次試験でこれくらい取らなければ、勝ち目は見えてこない。
瞬間的に各科目に点数を振り分けていく。国語35点、数学70点、英語80点、物理35点、化学45点。これじゃあダメだ、合計は265。足りない。全科目5点ずつ引き上げないと。国語40、数学75、英語85、物理40、化学50。……何それ、何その点数。無理に決まってる。
どの科目もずば抜けているわけじゃない私は、オールラウンダーとしてバランスを求めていかないといけないのに、そうやってなんとかかき集めてきた点数ですら足りそうにない。せめて、1科目でも飛び抜けて高得点を取れるものがあれば。数学100点越えとか、英語100点越えとか、物理化学は両方50点以上取れますとか! いや、今更だな——。
そもそも、元の目標点数ですら、ギリギリ取れるかどうかというところなのだ。これ以上引き上げて、残りの期間で完成させるのは現実的じゃない。
少し前まで力強く燃え上がっていた青い炎は、今や風前の灯火となってしまった。



