1月15日土曜日。大した実感が湧くこともなく、気づけばその日はやって来ていた。大学入学共通テスト。大学進学を目指すほとんどの受験生が受けるこの試験は、最近、センター試験から共通テストに名称が変わり、問題もより現代に添ったものへと変更になった。さらに、学習指導要領の変更を踏まえて、新課程への移行も経ている。結果、最大10科目1000点満点のテストとなり、2日間全力で受験生のライフを削りに来る。
 試験会場へは、バスで向かう。不思議とあまり緊張はしていなかった。忘れ物をしていないかだけが少し気がかりだったけど、前日に何度も確認したからきっと大丈夫。
 東大は、共通テストの点数を110点に圧縮し、440点満点の二次試験との合計点で合否を決める。つまり、二次試験の配点が圧倒的に高いのだ。でも、共通テストを捨てることはできない。いわゆる「足切り」が存在するからだ。
 足切りは、全国平均点などを踏まえて、共通テストで一定の点数以下しか取れていない受験生を落とす仕組みだ。ここで落とされてしまったら、二次試験に参加することすら叶わない。
 もちろん、東大に受かるレベルの勉強をしていれば、基本的に足切りに引っかかることはない。でも、マークミスなどの致命的な失点を避けないと危ないことは確かだ。二次試験を受ける前から不合格が決まってしまうなんて、そんな不戦敗のようなことは絶対に嫌だ。
 足切りを突破したとしても、それだけでは安心できない。周りは理三志望者なのだ。共通テストレベルの問題なんて難なくこなしてしまう。何食わぬ顔をして9割5分を超えてくる化け物だらけなのだ。
 私の目標は、ひとまず9割に乗せること。調子が悪かったり、難化したりしても、8割5分で留めることだ。たくさん過去問を解いたけど、9割に乗せるのは簡単じゃなかった。でも、うまく行った時は9割4分くらい取れた。だから、これくらいの目標。現実を見つつ、高みを目指す。
 ——まあ、でもとにかく、今日は無事に試験を終えること、力をちゃんと発揮することに集中しよう。
 交通系ICをかざして支払いを済ませ、バスから凍った道路へとゆっくり降り立つ。滑るなんてことは許されない。縁起でもない。雪が降る地域に住んでいる受験生は滑って転ぶ機会が多いから、ちょっと不利なんじゃないかと思う。その度にメンタルにかすり傷程度のダメージを喰らい続ける。かすり傷でも、繰り返せば致命傷だ。雪が降らない場所の受験生が羨ましい。
 なんて、こんなことを考えている場合じゃない。
 理系の1日目は、文系よりもスタートが遅い。最初の科目が社会で、2科目受験の文系と違って1科目しか受験しないからだ。世界史の一問一答を見ながら、雪の上を気をつけて歩く。会場となっている大学の構内には、学校の先生やら塾の先生たちが受験生の応援に駆けつけていた。
 佐々木さんも応援に来ると言っていた。その飄々とした怪しい姿を探してキョロキョロしていると、端っこの方で手を大きく掲げて振っているのを見つけた。恥ずかしいからやめてほしい。隣には翠ちゃんもいた。気まずいけど、ここは佐々木さんの応援を受け取るべきだよね。
 ざくりざくりと雪を踏み締めながら近くへと向かう。夜中に降り積もったであろう新雪はすでに踏み荒らされていて、受験生がたくさんいることを実感した。

「日和さん。まずは無事にたどり着いてよかった。ここからの長丁場、頑張ってね。寒いけどカイロある? 手はあっためて、でも会場内は暑いと思うから、適宜服装は脱ぎ着するんだよ」

 佐々木さんが過保護になっている。きっと緊張しているのだろう。

「どう? 緊張してる?」
「いえ、正直あんまり。実感が湧いてないんだと思います。——佐々木さんの方が緊張してそう」
「やだなー、そんなことないよ。僕はいつも冷静だからね」

 翠ちゃんとふと目が合ってしまう。試験前に変なことはしたくない。できるだけ自然に目を逸らした。いや、自然に目を逸らしたって、逸らしたことに変わりはないから、感じは悪いんだけど。

「……日和さん。共テが終わったら、話そう。今日明日は絶対9割獲らなきゃだし」

 意外にも、翠ちゃんの方から話しかけてきた。約1ヶ月ぶりに聞いた低めの声。でも、いつもの偉そうな感じは成りを顰め、少し弱々しかった。

「うん……」

 そんな翠ちゃんがなんだか少し哀れにも見えてきてしまった。ただ、これ以上このことを考えている暇はない。あとは終わってから考えればいい。
 入室の時間が近づいてきて、佐々木さんに挨拶をする。

「来てくださってありがとうございます。頑張ってきます」
「うん、明日の朝も来るからね」

 佐々木さんは大きな両手で私と翠ちゃんの肩をそれぞれポンと叩くと、会場内へと促してくれた。手は少し冷たくて、早くに来て寒いなか待っていてくれたことがわかる。いや、緊張しているからだろうか。
 どこまでも怪しいし、未だに信用できないことだらけだけど、ほんのりと心が温かくなる。この安心感だけは本物だ。信用していいものだろう。
 なんとなく、翠ちゃんと一緒に会場内に入る。お互い何もしゃべらないまま、受験番号に沿って割り振られた教室へと向かう。受験番号は学校ごと、名前順になっているため、翠ちゃんとはだいぶ離れている。教室も違うようだった。顔を見合わせてしまい、気まずい雰囲気が流れるが、お互いにうなずき合ってそれぞれの教室に入った。
 受験番号と机の番号を照らし合わせて自席を探し、座る。まずは机に慣れないと。荷物を片付け、いつも使っている筆記用具を取り出す。定位置に並べたあと、世界史の勉強を始めた。最終確認だ。
 共通テストは基礎基本が固まっていれば解けるとされている。でも10科目全部で基礎を完璧にするのは正直かなり難しい。とはいえ、理三合格のためには少しの失点でも大きな痛手となる。満遍なくできて当たり前なのだ。
 試験監督と思しき数人が教室に入ってくる。バタバタと慌ただしく動き回っている。机に置いた腕時計を確認すると、そろそろ着席時間だ。試験開始の25分前には、すべての問題集をしまって試験監督の説明を聴かなくてはならない。

「筆記用具以外のすべてのものをかばんの中にしまってください。机の上に出していいものは、受験票、シャープペンシル、鉛筆、電動ではない鉛筆削り、消しゴム、腕時計、目薬、袋から出したティッシュのみです。そのほか、机の上に出さなくてはならないものがある場合には、手を挙げて試験監督に申し出てください」

 大学教授らしき、60代くらいの男性が話し始める。教室内の受験生、といってもほとんどは同じ高校の見知った顔だが、問題集やノートをガタガタと片付け始めた。私もその一人。
 試験についての注意事項が長々と説明されている間、私は机の上のものを何度も確認する。顔写真の貼られた受験票、削った鉛筆5本、消しゴムは2つ、念のためシャーペンも1本、百均で買った小さな鉛筆削り、ティッシュ、目薬。大丈夫そうだ。
 そうこうしているうちに、注意事項の説明は終わったのか、ついに問題用紙とマークシートが配られ始めた。試験監督たちが一人ひとりに一枚ずつ直接渡す形式だ。手間がかかるだろうが、不正防止のためにはそれが一番だろう。
 目の前に問題用紙が置かれる。表紙に目を通す。すると今更実感が湧いてきたのか、心臓がバクバクと音を立て始めた。教室は暑いほど暖房が効いているのに、指は凍るように冷たい。
 本番は一度切り。失敗は許されない。他の科目で挽回、などという生ぬるいことは言っていられない。絶対に、取り切る。
 腕時計の秒針がカチリカチリと静かに、でも確かに動くたび、その合間の水を打ったような静寂が際立ち、会場の緊張感を底上げする。

「それでは、時間になりましたので、大学入学共通テスト1日目、地理歴史・公民の1科目選択の試験を開始します。解答、はじめ」

 広い教室に詰め込まれた受験生が一斉に問題用紙を開く。——さあ、開戦の合図だ。