翠ちゃんの逆鱗に触れてしまった日から、週間計画表が新しくなり、同じ曜日がめぐってきた。喧嘩してしまったことを佐々木さんに話すと、ひとしきり爆笑したあと、まあ仕方ないな、あの子はそういう子なんだ、とだけ言った。
 私はそんな簡単に済ませられない。大人じゃないから。佐々木さんはなんというかものすごく大人なんだと思う。だから、胡散臭いし、信用できない。でも、実際にすごい人だし、尊敬すべきところはたくさんある。私はああはなれない。
 今日は冬に入りかけなのに夏みたいな大雨で、低気圧特有の倦怠感と頭痛に、教室のあちらこちらでPTPシートがパキッと音を立てる。私も服用した。受験本番に大雨なんてこともあるかもしれないし、そうなった場合、頭痛で集中できないなんてことは避けたい。そしてさらに言えば、薬の副作用でコンディションが左右されるのも避けたい。どの鎮痛剤が合うか試してみておくに越したことはないだろう。
 授業は真面目に受ける。でも、視界の端に翠ちゃんが入ってしまって、どうしても思考があの日のことに流されてしまう。今日こそ、翠ちゃんに言ってやるんだ——。

 放課後、昇降口で翠ちゃんを待つ。外の道路に激しく打ちつける雨の音が、緊張と少しの怒りで高鳴る心音と共鳴する。

「翠ちゃん! そろそろ避けるのやめてよ、ちゃんと話そう」
「……」
「翠ちゃんが私を避けてるのはさ、私がA判取ったから? そうだよね、私なんかがA判取ったらうざいし焦るもんね」

 黒髪のショートカットは私を素通りしようとしたが、傘を差す直前に肩を掴んでこちらを向かせる。ちょっと強行突破だけど、この際仕方ない。
 翠ちゃんは何も言わない。でも、立ち止まってはくれたから、私は話し続けていいものだと判断する。周りはなんだなんだと少し騒ぎになっているが、そんなことは気にしない。

「……わかってるよ、わかってたよ、最初から。翠ちゃん、私が東大に絶対受からないくらいのレベルなのわかってて、でも一緒に受験する仲間が欲しいから、私を引き込んだんだよね?」

 ずっとわかってた。だって、ありえないことだ。合格圏内と言われている天才兼秀才が、わざわざ学年平均点しか取れない何も抜きん出ていない私を誘うなんていうことは、ありえない。
 そしてそれは、翠ちゃんも同じ見解のはずだ。あれだけ本気で理三を目指しているのなら、なおさら。つまり、落ちると確信して、私を誘ったんだ。そうとしか考えられない。
 これまで、わかっていたのに、見て見ぬふりをしてきた。それを認めてしまったら、前に進めなくなりそうだったから。それくらいこの受験勉強は翠ちゃんに頼り切りだったし、でも同時にそれくらい本気だった。

「A判定取ったんだから、受かるでしょ……」
「そういう話してるんじゃないでしょ? それに、A判1つで浮かれんなって言ったの、翠ちゃんじゃん」
「ああ、そうだよ! あんた課題くらいはやってるっぽかったけど、医学部志望のくせにそれ以上のこと何一つやってなさそうだったから。絶対に東大に受からない、でも東大を一緒に目指してくれるちょうどいい相手が欲しかったの。これまで完璧な勉強計画でやってきた。あと必要なのはライバルだけだったんだよ!」
「じゃあ翠ちゃんの次に成績いい人でよかったじゃん! プライド高いから、負けるのは絶対嫌なんだよね? でも自分の合格のピースは揃えたい。自己中にもほどがあるよ。それで私の人生狂わせに来たわけ? で、私の成績が伸びてきたから、今度は責任取らずに関係切って、さよならバイバイ、あとは勝手にやってねってこと? どんだけ勝手なの?」
「うるっさいな! プライド高いのなんて自分でもわかってんの! でも乗ってきたのはそっちじゃん、別に乗らない手だってあったわけで……それに十分成績だって伸びたでしょ? これ以上何を責任取れっていうの? あとは一人でもやれんでしょ」

 雨音が強くなる。野次馬のざわめきも、部活の声も遠くに感じられる。

「そうやって拗ねてんの、マジでダサいよ」
「はあ? 拗ねてないし」
「思いっきり拗ねてんじゃん。そうやって突き放して……だったら最初から最後まで一人で戦えよ!」

 翠ちゃんはチッと静かに舌打ちすると、きびすを返して土砂降りの中を傘も差さずに走り去って行ってしまった。
 私はしばらく昇降口に呆然と立ち尽くす。あいつやべー、めっちゃキレてたな、もう一人誰だっけ? ああ、あの天才ちゃんね、顔はいいんだけど性格がなー……なんていろんな声が聞こえてくる。
 チッ。
 思わず飛び出てしまった舌打ちに自分でも少し驚きながら、傘を差して塾へと向かった。傘に打ちつける雨はそのスピードによる重さが感じられて、傘を持つ手が震える。
 心臓にある青い炎が強風と大雨に煽られて、ゆらめく。頬を濡らしているのは、斜めに吹き荒れて顔に飛んでくる雨粒なのか己の涙なのか。悔しい、悔しいよ。5月から今日まで、本当に全力で楽しみながら走り抜けてきたんだから。この日々が打算の末の真っ赤な嘘だったというのか。
 ——違う。少なくとも、私にとってはそうじゃない。
 心臓の鼓動を確かめるように、深呼吸しながら手のひらを胸に当てる。わかってる、絶対に立ち止まっちゃダメだ。この青い炎だけは、この温度を保ったまま、灯し続けなきゃいけない。

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 たまに雪が降るようになった。あれだけ暑い暑いと言っていた季節はどこかへ消えてしまって、今度は至るところで寒い寒いという言葉が聞こえてくる。春の匂い、夏の匂い、秋の匂いはある。でも、冬だけは匂いがない。雪が積もれば、あたりはただただ真っ白で、秋のようなカラフルさもない。
 年が明けても、受験生としての日々は何一つ変わらない。2週間後に共通テストが迫っているからだ。
 あれから、翠ちゃんとは口を利くことはなかった。佐々木さんを通じてお互いの情報は得ているが、面と向かって会話することはない。そろそろ話さないといけないな、と思うけど、なんだかんだ共テ対策が忙しくて、ゆっくり話す時間などないのだ。どちらにも。翠ちゃんは完全に拠点を塾から図書館に移し、毎週日曜の計画面談くらいでしか顔を出さない。
 孤独の戦いは、本当に味気がないものだ。翠ちゃんはこれまでずっと独りでやってきたんだ、と思うと同情しないでもないが、それでもやっぱりああやって人を使って自分の夢を叶えようとするのはいかがなものかと思う。
 ——私はただ、翠ちゃんを信じて必死でついてきた青く燃えている明るい日々を本当のものだったと証明したい。それだけ。
 自分の気持ちを確認して、私はマークシートを綺麗に埋めるために、鉛筆を削り直した。