カレンダーの日付にはどんどんスラッシュが入っていく。早く成績を上げないと、一問でも解けるようにならなきゃ、と毎日を全速力で駆け抜けている私は、時が過ぎていくそのスピードにまだ慣れないでいる。
夏の冠模試がまとめて返ってきた。多分、すでに届いていたのを、まとめて渡すために佐々木さんが持っておいたのだろう。塾の2階には、どっさりと書類を抱えた佐々木さんと、定位置についた翠ちゃんと私がいる。
「はーい、じゃあ今から、待ちに待った夏の冠模試を返却しまーす」
いつにないテンションで、教卓に両手をついた佐々木さんが、まずは翠ちゃんね、と言って冊子や返却された答案、そして成績表をセットで渡した。翠ちゃんはそのまま席に戻る。
「はい、次。日和さん」
そろそろ返ってくるとは思っていたけど、まだ覚悟ができていない。
冠模試は当然のことだが、判定が出る。ここでもし、全部E判定とかだったら……私はそれでも走り続けられるだろうか。唇を噛んで緊張を押し殺す。
佐々木さんから紙の束が渡される。私も席に戻った。
「よし、じゃあ見ていいよ。僕は結果知ってるけど。オープン!」
おちゃらけている佐々木さんを見ると、あまり結果が良くなかったのかな、なんて想像してしまう。恐る恐る成績表を開く。
1つ目は一番最初に受けたものだった。判定は——E。そうか、そりゃそうだよな、と渇いた笑みが浮かんだ。
覚悟を決めて次の成績表を開ける。佐々木さんが順番に並べてくれたのか、受けた順になっているようだ。
こっちの判定はD。そして、もう一つもDだった。E1つにD2つ。これが私の実力。D判定は合格可能性が30%程度、E判定は20%だ。つまり、私は5分の1の確率でしか、合格できない。
——わかっていた。そんな簡単な大学じゃない。ましてや理三。Cくらいは取れるかもしれないなんて1ミリでも思っていた私が甘かったんだ。全部Eじゃなかっただけ、まだマシか。
「翠ちゃん、日和さん。模試の判定で落ち込んでいる暇はない。判定はあくまで目安でしかないんだ。A判定を取っても浮かれ過ぎず、E判定を取っても落ち込み過ぎない。次の糧にする。これが受験生の鉄則だよ」
佐々木さんはこう言う。
でも、これが落ち込まずにいられるか。悔しい、悔しい。これだけ全力を出して、解答にすべてをぶつけて、それでも、E? もっとやらなきゃいけなかったのか。それとも、始めたのが遅すぎた?
夏の冠模試は現役生は取りづらいと言われている。理科なんて学校によっては高校範囲を履修し切っていないところも多い。もちろん、うちの高校はその典型だ。その分、浪人生は取りやすいらしい。すでに習い終えた範囲の問題しか出ていないからだ。
「翠ちゃんは……?」
どうせ後でお互いに聞くことになるのだ。早く聞いてしまおう。そう思って隣を見ると、彼女は悔しそうに顔を歪めていた。今聞くべきじゃなかったかも。タイミングを間違えた? でも、私より悪いはずないし。大丈夫だろう。
「A2つとB1つ」
呟くように言われた結果に、目を見開く。A判定を取っているんだ。いや、そりゃそうだ。だってこの人は翠ちゃん。神童と言われた全国模試1位、常に学年トップの天才兼秀才なのだから。逆にA判定じゃない方がおかしい。
——なんで? それなのになんで、そんな顔をしているの? どうしてそんなに悔しそうなの? 全部A判定じゃないと納得できないってこと? そんなの……。
「あんたは?」
「E1つとD2つ」
「そう……」
お通夜のような空気。沈黙の気まずい時間。
「翠ちゃん。何に悔しがっているのかな? 現役生で夏にA判を取るなんて、すごいことじゃないか」
「叔父さん、それ本気で言ってる? ……全部A判獲るつもりでやった。でも、Bを取ってしまった。許せない、自分が許せない」
「……きみは自分を追い込み過ぎなんだよ。少し冷静になりなさい」
チッと舌打ちをしたかと思えば、翠ちゃんは教室を出て行ってしまった。いつも理性的で自信家で偉そうな彼女が、あそこまで感情を露わにしているところを見たことがない。それほどまでに悔しいことなんだ。彼女の気持ちを考えれば、追いかける気にもならなかった。
いや、きっと違う。私は悔しいのだ。あれだけいい判定を取っておいて、あんなに悔しがれる翠ちゃんがすごくて、尊敬の念が湧き上がってきて、隣に立ちたいと思っているのに、どうしても遠く感じられてしまう。
人一人分の影を失った教室の蛍光灯はやけに眩しく感じられる。
「あの子はいつも冷静沈着でいるように見せて、ずっと心に誰も止められないほど熱い炎を抱えているんだ。しばらくはそっとしておいてあげて。——それで、日和さん。きみはスタートが遅かったんだ。夏は取れなくて当たり前。ここで辞めるのは、これからの伸び代を捨てるのと一緒だ」
「わかっています。やめない、絶対やめない」
これが私と翠ちゃんの差。ずっとあの炎を抱えて、それを勉強にぶつけてきたんだ。自分への怒り。そして、何か他の大きなものに対する、怒り。それを必死でコントロールしてきたんだ。そんな気がした。
私は最近初めて、その怒りを知った。悔しさという燃料を知った。そして、これを勉強に注ぎ込めばいいということを、炎を灯し続けるための原動力にすればいいということを、知っている。
やめられるわけなんかない。秋は絶対、翠ちゃんに追いついてやる。
まずは模試の分析から始めた。佐々木さんに手伝ってもらいながら、解答のどの部分がダメだったのか、どの分野の点数が低めで、どこの得点率が高いのか、単元別にチェックして、まとめていく。
「テストっていうのは、その時点の自分の立ち位置を知るためのものなんだ。だから必ず分析して、その都度苦手を潰しつつ、得意を伸ばすように勉強法を変えていかないといけない」
「はい」
どの模試も国語は意外と点数が取れていた。問題はやっぱり数学と理科。もちろん、理科は受験範囲が終わっていないから、まだ伸び代はあるが、それでも既習範囲もおぼつかないところがある。
数学の中でも、整数は得点率が高く、一方で立体図形の積分と複素数平面ができていないことが多かった。購入した過去問集で該当の問題に印をつけていく。
「ちょっと前まで、しばらく立体図形の問題は出ていなかったんだけど、また最近出始めたんだよね。だから、この苦手は克服していこう。どの平面で切断するか、どの文字を固定するか、経験を積めばわかってくるから、大丈夫」
物理は結構致命的だ。60点満点のうち6点しか取れていない回が存在するくらい。苦手科目だからといって捨てすぎているのかもしれない。でも、それくらい全然わからなかったのだ。
今だったら、流石にもう少し取れるだろう。基礎問題を回収するだけでも、意外と点の積み上げは可能なのだ。最低でも20点は取りに行かないといけない。
東大物理は毎年、第3問で熱力学と波動がほとんど交互に出題されている。去年は熱力学だったから、今年は波動だろうとみんな読んでいるが、真実は東大しか知り得ない。私は熱力学よりも波動の方が得意だから、順当に出題してくれるとありがたいのだが、どちらも対策しておくに越したことはないだろう。
実際、夏の冠模試では1回だけ熱力学が出ている。私が6点しか取れていない時のものだ。どんな問題が出ても、安定した点数を取ることができるように、熱力学はもう一度基礎から復習し直そう。
化学は現役生にしてはそこそこ取れている方だと佐々木さんに言われた。30点くらいかき集められている時もある。私に取っては、第2問の無機化学がキーのようだ。暗記だから点数が取りやすいと言われている無機化学。知識問題は確実に取り切りたい。忘れないように頭に刻んでおかないと。
「大丈夫。まだ時間はある。じゃあ、これを踏まえて秋の冠模試の目標点数を決めていこうか」
季節は次々めぐっていく。まだ夏と言える暑さが続いているが、これは残暑という名前がついているもので、すぐに秋がやってくるのだろう。木々が色づいて、風が舞って、いつの間にか葉は散り、裸になった枝に雪が積もるようになるのだ。そうすれば、受験はもうすぐそこ。今のうちに、まだ暑いと言えるうちに、やれることをやっておこう。
翠ちゃんはしばらく戻ってこなかったが、気づけばすぐ、また隣で勉強していた。
夏の冠模試がまとめて返ってきた。多分、すでに届いていたのを、まとめて渡すために佐々木さんが持っておいたのだろう。塾の2階には、どっさりと書類を抱えた佐々木さんと、定位置についた翠ちゃんと私がいる。
「はーい、じゃあ今から、待ちに待った夏の冠模試を返却しまーす」
いつにないテンションで、教卓に両手をついた佐々木さんが、まずは翠ちゃんね、と言って冊子や返却された答案、そして成績表をセットで渡した。翠ちゃんはそのまま席に戻る。
「はい、次。日和さん」
そろそろ返ってくるとは思っていたけど、まだ覚悟ができていない。
冠模試は当然のことだが、判定が出る。ここでもし、全部E判定とかだったら……私はそれでも走り続けられるだろうか。唇を噛んで緊張を押し殺す。
佐々木さんから紙の束が渡される。私も席に戻った。
「よし、じゃあ見ていいよ。僕は結果知ってるけど。オープン!」
おちゃらけている佐々木さんを見ると、あまり結果が良くなかったのかな、なんて想像してしまう。恐る恐る成績表を開く。
1つ目は一番最初に受けたものだった。判定は——E。そうか、そりゃそうだよな、と渇いた笑みが浮かんだ。
覚悟を決めて次の成績表を開ける。佐々木さんが順番に並べてくれたのか、受けた順になっているようだ。
こっちの判定はD。そして、もう一つもDだった。E1つにD2つ。これが私の実力。D判定は合格可能性が30%程度、E判定は20%だ。つまり、私は5分の1の確率でしか、合格できない。
——わかっていた。そんな簡単な大学じゃない。ましてや理三。Cくらいは取れるかもしれないなんて1ミリでも思っていた私が甘かったんだ。全部Eじゃなかっただけ、まだマシか。
「翠ちゃん、日和さん。模試の判定で落ち込んでいる暇はない。判定はあくまで目安でしかないんだ。A判定を取っても浮かれ過ぎず、E判定を取っても落ち込み過ぎない。次の糧にする。これが受験生の鉄則だよ」
佐々木さんはこう言う。
でも、これが落ち込まずにいられるか。悔しい、悔しい。これだけ全力を出して、解答にすべてをぶつけて、それでも、E? もっとやらなきゃいけなかったのか。それとも、始めたのが遅すぎた?
夏の冠模試は現役生は取りづらいと言われている。理科なんて学校によっては高校範囲を履修し切っていないところも多い。もちろん、うちの高校はその典型だ。その分、浪人生は取りやすいらしい。すでに習い終えた範囲の問題しか出ていないからだ。
「翠ちゃんは……?」
どうせ後でお互いに聞くことになるのだ。早く聞いてしまおう。そう思って隣を見ると、彼女は悔しそうに顔を歪めていた。今聞くべきじゃなかったかも。タイミングを間違えた? でも、私より悪いはずないし。大丈夫だろう。
「A2つとB1つ」
呟くように言われた結果に、目を見開く。A判定を取っているんだ。いや、そりゃそうだ。だってこの人は翠ちゃん。神童と言われた全国模試1位、常に学年トップの天才兼秀才なのだから。逆にA判定じゃない方がおかしい。
——なんで? それなのになんで、そんな顔をしているの? どうしてそんなに悔しそうなの? 全部A判定じゃないと納得できないってこと? そんなの……。
「あんたは?」
「E1つとD2つ」
「そう……」
お通夜のような空気。沈黙の気まずい時間。
「翠ちゃん。何に悔しがっているのかな? 現役生で夏にA判を取るなんて、すごいことじゃないか」
「叔父さん、それ本気で言ってる? ……全部A判獲るつもりでやった。でも、Bを取ってしまった。許せない、自分が許せない」
「……きみは自分を追い込み過ぎなんだよ。少し冷静になりなさい」
チッと舌打ちをしたかと思えば、翠ちゃんは教室を出て行ってしまった。いつも理性的で自信家で偉そうな彼女が、あそこまで感情を露わにしているところを見たことがない。それほどまでに悔しいことなんだ。彼女の気持ちを考えれば、追いかける気にもならなかった。
いや、きっと違う。私は悔しいのだ。あれだけいい判定を取っておいて、あんなに悔しがれる翠ちゃんがすごくて、尊敬の念が湧き上がってきて、隣に立ちたいと思っているのに、どうしても遠く感じられてしまう。
人一人分の影を失った教室の蛍光灯はやけに眩しく感じられる。
「あの子はいつも冷静沈着でいるように見せて、ずっと心に誰も止められないほど熱い炎を抱えているんだ。しばらくはそっとしておいてあげて。——それで、日和さん。きみはスタートが遅かったんだ。夏は取れなくて当たり前。ここで辞めるのは、これからの伸び代を捨てるのと一緒だ」
「わかっています。やめない、絶対やめない」
これが私と翠ちゃんの差。ずっとあの炎を抱えて、それを勉強にぶつけてきたんだ。自分への怒り。そして、何か他の大きなものに対する、怒り。それを必死でコントロールしてきたんだ。そんな気がした。
私は最近初めて、その怒りを知った。悔しさという燃料を知った。そして、これを勉強に注ぎ込めばいいということを、炎を灯し続けるための原動力にすればいいということを、知っている。
やめられるわけなんかない。秋は絶対、翠ちゃんに追いついてやる。
まずは模試の分析から始めた。佐々木さんに手伝ってもらいながら、解答のどの部分がダメだったのか、どの分野の点数が低めで、どこの得点率が高いのか、単元別にチェックして、まとめていく。
「テストっていうのは、その時点の自分の立ち位置を知るためのものなんだ。だから必ず分析して、その都度苦手を潰しつつ、得意を伸ばすように勉強法を変えていかないといけない」
「はい」
どの模試も国語は意外と点数が取れていた。問題はやっぱり数学と理科。もちろん、理科は受験範囲が終わっていないから、まだ伸び代はあるが、それでも既習範囲もおぼつかないところがある。
数学の中でも、整数は得点率が高く、一方で立体図形の積分と複素数平面ができていないことが多かった。購入した過去問集で該当の問題に印をつけていく。
「ちょっと前まで、しばらく立体図形の問題は出ていなかったんだけど、また最近出始めたんだよね。だから、この苦手は克服していこう。どの平面で切断するか、どの文字を固定するか、経験を積めばわかってくるから、大丈夫」
物理は結構致命的だ。60点満点のうち6点しか取れていない回が存在するくらい。苦手科目だからといって捨てすぎているのかもしれない。でも、それくらい全然わからなかったのだ。
今だったら、流石にもう少し取れるだろう。基礎問題を回収するだけでも、意外と点の積み上げは可能なのだ。最低でも20点は取りに行かないといけない。
東大物理は毎年、第3問で熱力学と波動がほとんど交互に出題されている。去年は熱力学だったから、今年は波動だろうとみんな読んでいるが、真実は東大しか知り得ない。私は熱力学よりも波動の方が得意だから、順当に出題してくれるとありがたいのだが、どちらも対策しておくに越したことはないだろう。
実際、夏の冠模試では1回だけ熱力学が出ている。私が6点しか取れていない時のものだ。どんな問題が出ても、安定した点数を取ることができるように、熱力学はもう一度基礎から復習し直そう。
化学は現役生にしてはそこそこ取れている方だと佐々木さんに言われた。30点くらいかき集められている時もある。私に取っては、第2問の無機化学がキーのようだ。暗記だから点数が取りやすいと言われている無機化学。知識問題は確実に取り切りたい。忘れないように頭に刻んでおかないと。
「大丈夫。まだ時間はある。じゃあ、これを踏まえて秋の冠模試の目標点数を決めていこうか」
季節は次々めぐっていく。まだ夏と言える暑さが続いているが、これは残暑という名前がついているもので、すぐに秋がやってくるのだろう。木々が色づいて、風が舞って、いつの間にか葉は散り、裸になった枝に雪が積もるようになるのだ。そうすれば、受験はもうすぐそこ。今のうちに、まだ暑いと言えるうちに、やれることをやっておこう。
翠ちゃんはしばらく戻ってこなかったが、気づけばすぐ、また隣で勉強していた。



