8月は怒涛の模試オンパレードだった。冠模試が毎週のようにあって、その度に土日は丸潰れ。他にも共通テスト模試やら記述模試やらとにかくテストだらけ。その復習をしつつ、でも夏休みは基礎固めの最後の時間だから、と佐々木さんにも翠ちゃんにも言われまくったので、合間を縫って苦手な単元潰しに奔走していた。
 アブラゼミの声はヒグラシのそれに取って代わり、まだまだ暑さは引かないが、あれだけ長かった日が徐々に短くなってきているのを感じる。夏休みが明け、日常が戻ってきた。
 と言っても、これまでの夏休みのように、午後まで寝て夜までスマホを貪るように眺める怠惰な生活をしていたわけではなく、毎朝早起きして夜までびっちり勉強三昧だったから、全然夏休み感はなかったわけだが。
 ここから本格的な二次対策が始まるよ、と佐々木さんは言っていた。あれから基本的には教材は貸し出してもらっていたが、この先過去問集は常に自分で持っておいた方がいいから、ということで、それだけは買い揃えるように言われる。
 いわゆる赤本と青本があるわけで、赤本の方が有名だから、そっちを買おうとしていたら、翠ちゃんに止められた。

「青本の方にしな。東大は赤本より青本だよ」
「そうなの?」
「まあ個人の好みではあるけど。一緒に書店に行こうか」
「え? 通販でよくない?」
「ダメに決まってんでしょ!」

 問題集は実際に手に取って見てみないとだめだと言う。学校が終わると、勉強時間を減らさないために、ダッシュで本屋へと向かった。赤本も青本も東大のものはすでに発刊されており、大学入試問題集のコーナーにデカデカと置かれていた。分厚いからかなり目立つ。
 中身をパラパラと見比べる。最初の方に出題傾向や試験の情報がまとめてあり、次に問題が載っていて、その後ろに解説が書かれている。構成も解答の詳しさも正直似たようなもので、何が違うのかいまいちわからない。

「これ、何が違うの?」
「あー、じゃあそう思うなら赤本でいいかも。あたしは青本買ったから、解説見たけりゃお互いに交換すればいいし」
「え? さっきは青本って」
「違いがあると思ったら青本がいいんだよ、癖の問題」

 まあそれなら、と赤本を手に取ってレジへと向かう。そしてもうひとつやらなければならないことが。

「すみません、この問題集が欲しいのですが、在庫はありますか?」
「理三合格の会の『東大数学過去問集30ヵ年』ですね? お調べします」

 理三合格の会とは、東京にある理三合格のための専門塾だ。合格率は圧倒的で、最近特に知名度が高まってきている。
 その塾が出している過去問集は、東大合格のためのすべてが詰まっていると佐々木さんが言っていた。数学くらいは持っていてもいいんじゃないか、と。

「申し訳ございませんが、在庫はありませんね。お取り寄せしましょうか?」
「はい、お願いします」

 取り寄せの書類に名前や電話番号を書いて、翠ちゃんと一緒に退店し、さっさと塾に向かう。

「理三合格の会のやつ、買うんだ」
「うん。佐々木さんが買った方がいいって言ってたし。解説丁寧だって聞いたから。やっぱり、冠模試で思ったんだよね。数学もっと上げないと合格は厳しいって」
「まあ、理系だからね、あたしらは。120点分あるわけだし」

 そう、理系は二次試験が440点満点で、そのうち数学は120点分を担っている。翠ちゃんの言う「数学一点突破型の天才」が、例えば国語を捨てても合格してしまうくらいには、数学は重要な科目なのだ。
 東大数学過去問集30ヵ年の値段を調べた時はかなりびっくりした。約2万円。問題集にそんな金額がつくんだと本当に驚いたし、戦慄した。うちは裕福ではない。2万円はかなり大きな数字だ。でも、この青い炎を最後まで灯し続けるために必要だと思ったから、お母さんに直談判した。

「お母さん。この問題集が欲しいの。高いのはわかってる。でも、しばらくお小遣いだっていらない、我慢する。これがどうしても合格のために必要なんだ。だから、買ってほしい」

 お母さんも金額にびっくりしていたけど、優しい顔で私の手を握ってくれた。

「日和がね、最近ずっと頑張ってるから。お母さん、応援してるんだよ。前は、近くの大学でいいとか、塾の先生にもきつく当たっちゃって、ごめんなさいね。どうしても、日和が心配だったの。そんなに無理しなくていいんじゃないかって。でも、やっぱり嬉しいものね。こうして、我が子が本気になれるものを見つけたって。……やっぱり、あの子が不登校になってから、日和、何も手につかなくなってたから……」

 お母さんの手は温かくて、どこまでも優しかった。

「だからね、全然気にしないでいいのよ。お小遣いだって我慢しなくていいの。こういう時のために、貯金しているんだから。あと残り半年、頑張りましょうね」

 こうして、お母さんは購入を許してくれた。
 お父さんは相変わらずバカにしているみたいだけど、お母さんが味方でいてくれることがわかったから、とても安心した。少しだけ涙腺が緩んだけど、ちゃんと泣くのは合格した時にしようと思って、目をぱちぱちさせて無理やり引っ込めた。

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 書店に過去問集が届いたと連絡があり、また学校帰りに走って向かった。今日は翠ちゃんとは別行動だ。カルトンに2万円を置くのは少し手が震えたけど、最近はテスト慣れしてきたからか、手が震えても行動自体に影響はない。新しい発見だ。
 それでも、2万円は重い。実際、過去問集自体も結構な重量があるのだが、余計に重く感じる。これを完璧にするんだ。そうすればきっと、数学で70点くらい狙える。佐々木さんはそう言ってる。頑張らなきゃ。
 最近は、数学の大問を真っ白のコピー用紙に一から解答を書いて、それを佐々木さんに添削してもらい、どこがダメだったか考え直して、繰り返し解き直す勉強法を取り入れている。コピー用紙はファイルに挟んですべて保管。定期的に見返すのだ。自分の答案と模範解答を両方分析することで、理想と現実のギャップを何度も測り直すことができて、その度に理想に近づいていける、と翠ちゃんは表現していた。彼女はずっとこのやり方をやってきたらしい。それは差が出るわけだと、妙に納得してしまう。
 実際、このやり方は本当に効果があるようで、答案を書き慣れてきた、という感覚が芽生え出した。仮に解法が浮かんでいなくても、最低限の情報は書き残せるようになったし、自分がわかっている情報をどうやって最初の方に採点官にアピールすればいいのか、感覚を掴んできたようだ。
 佐々木さんは胡散臭いけど、5月から着実に自分が成長している実感があって、その実力は認めざるを得ない。何者かは相変わらずわからないし、そう思うのは癪で悔しいけど、本当にすごい人だ。
 何より、最近は勉強が楽しくなってきた。最初は義務感に駆られてやっているだけだったが、どうにもプライドが生まれたようだ。解けない問題があるとどうしても悔しくて、絶対に解いてやる、と燃える。解けた時は本当に嬉しくて、自習室でガッツポーズをすると、いつも翠ちゃんに笑われてしまう。

「あんた、結構感情的よね」
「え? 翠ちゃんが理性的なだけじゃない?」
「そういうところだよ」

 二人で声をあげて笑う。自習に来ていた中学生に睨まれて、私たちは顔を見合わせ、再度勉強に集中する。こういうことがよくある。
 最初は無理やり引き連れられて始めた受験勉強だったが、いつしかそれが自分の目標になっていて、隣には翠ちゃんがいるのが当たり前になっていて。まっすぐ駆け抜けていく毎日が、どうしようもなく青くて熱かった。