その日は、朝から緊張していた。アブラゼミがうるさく鳴いていて、ひたすらに暑い8月の土曜日。朝の8時半前。私と翠ちゃんは、佐々木進学塾の2階に閉じ込められていた。

「いよいよだね」
「めっちゃ緊張してるじゃん、まあその方が本番に近い環境だし、いいことか」
「緊張してないの? 翠ちゃん」
「まあ多少は緊張するけど。そんなあんたほどガチガチじゃないよ」

 今日は初めての冠模試だ。試験当日と同じ日程で行われるため、1日目の今日は午前中に国語、午後に数学が待っている。
 そわそわしてどうにも落ち着かない。今日まで、冠模試で点数を取れるように対策してきた。もちろん、それがそのまま東大入試に直結するからだ。
 ——ちゃんと取れるだろうか。
 目標点は佐々木さんの言う通り細かく決めている。国語だったら、現代文は40点満点のうち20点。古文は20点満点のうち8点、漢文は同じく20点満点のうち10点。計38点。本当は現代文でもっと取れたら嬉しいけど、現実的な目標点にしている。
 とりあえず開いている目の前の古文単語帳も今は何も頭に入ってこない。こんなんで評論文読めるの? いや、無理だよね。落ち着かないと。深呼吸を繰り返すと、また翠ちゃんに笑われた。
 あっという間に時間は過ぎていき、佐々木さんが問題用紙と解答用紙を配る。解答用紙の使い方を少しだけ教えてくれた。

「この予備校の解答用紙が一番本番に近いって言われている。紙質とか覚えておくといいよ。結構書きやすいし、消しゴムで消しやすい。まあでもあんまり何度も消しているとやっぱりどうしても破れたりするから、気をつけなね」

 開始数分前になって、問題集をしまうように言われる。机の上に出ているものを確認する。シャーペン2本、消しゴム2個、シャー芯数本。
 ドキドキと心臓の音がはっきり聞こえる。手に血が行き渡っていないのがわかる。ぎゅーっと拳を握りしめて、無理やり血液を回す。

「試験開始」

 佐々木さんの声が教室に響き渡り、私と翠ちゃんはその瞬間、問題用紙を開いた。もう一度深呼吸をして、評論文を読み始める。
 いつも使っている塾なのに、いつもとは空気がまるで違って、文章がまったく頭に入ってこない。でも、その環境でもなんとか読み進めていく。時計の針が音を立てるのに、まだ始まったばかりなのに焦ってしまう。

『いい? 全部解こうっていう気概も大事だけど、捨て問を見極めるのも相応に大事だよ』
『大学入試の評論文は問題の型があるの。内容説明と理由説明の2つね。内容説明っていうのは、【〜とはどういうことか】って聞かれる問題のこと。これは答え方が決まっていて、傍線部を文節で区切っていくの。そしてその一つひとつを本文の言葉を使いながら言い換える。これで大抵の場合、結構な点数をもらえるから、意識してみて』
『もう一つの理由説明の方は、【〜とあるが、それはなぜか】って聞かれるタイプの問題。理由を書けってことね。これは書き方が決まっていないから面倒なのよ。その文章に文脈に合わせて、どこまで遡ればいいか考えなきゃいけないから、まあ要するに経験を積むしかないのよね』

 問題を解いていると、佐々木さんや翠ちゃんの教えてくれたことが蘇ってくる。どれもこれも、東大を目指すまでは知らなかったことだ。新しい世界、初めて知る景色。それが、徐々に当たり前の知識として自分の身に備わっていくのが、なんだか新鮮で不思議な感覚だ。
 時計をチラチラ確認しながら、評論の解答を作っていく。絶対に出題される、本文全体の要旨を踏まえた上での100字以上120字以内の記述問題。問題用紙には、下書き用のマス目もあって、それを使いながら簡潔で明快な解答を心がける。
 漢字は3問。2問は書けたが、1問は忘れてしまった。思い出せなくて焦りもしたが、ここで立ち止まっていては古文も漢文も終わらなくなってしまう。

 だんだんと雰囲気に慣れてきたのか、手の震えもおさまり、集中して読めるようになってきた。ギアを数段階上げていく。
 そうして、国語の時間が終わった。

「試験終了。筆記用具を置いてください」

 佐々木さんの真面目なしゃべり方に非日常を実感してしまう。胡散臭い人の真面目なしゃべり方ほど、胡散臭いことってないんだな。
 解答用紙は回収され、お昼休憩となった。

「当たり前だけど、答え合わせなんかしないからね? 漢字とか、特に」

 翠ちゃんが眉を顰めて言う。

「わかってるよ。そんな時間あったら、数学やるし」
「ふーん、よくわかっているようで安心したよ」

 公式の導出を確認したり、最近解いた問題の間違えた部分を見返したりしているうちに、すぐに14時が近づいてくる。ここから150分の長丁場だ。
 最初に試験時間を聞かされた時は、正直発狂した。長すぎでしょ! と誰もが思うだろう。でも、実際はそんなことはない。解けない、早く解かないとと焦って、150分間止めることなく頭と手を動かしても尚、解き切れない。時間が足りることなどないのだ。
 冠模試の対策で150分測ってかなり古めの過去問を解いてみたことがある。全然足りなかった。昔の自分なら、きっとまったく手も足も出ないだろうから、時間が余って退屈だっただろうが、少しずつ成長しているからか、少し手が出てしまうため、逆に解き切れなくて悔しいのだ。

「試験開始」

 佐々木さんの声で問題用紙を開く。本日2回目。数学は6問構成で、解答用紙はA3サイズのものが2枚配られる。1枚目の表に第1問と第2問、裏に第3問の解答スペースがあり、2枚目も同様の構成になっている。つまり、第3問と第6問の2つは他の問題よりも幅広いスペースが与えられているのだ。
 問題番号を間違えないように気をつけながら、第1問から果敢に挑んでいく。複素数、数Ⅲの内容だ。あまり得意ではないが、とりあえず捨て問か否かを判断するためにも、答案の道筋を組み立てていかなくてはならない。

『数学は特に、捨て問を見極めることが大事だ。解かせる気のない難問が平然と混ざっていることもあるから、分野に惑わされず、でも自分の得意不得意も考慮しながら、どれに命を賭けるか、考えるんだよ』
『解けないと思っても、そこで諦めちゃダメだよ。東大は記述式解答がほとんどなんだから、わからなくてもわかっていることをアピールすればいい。そうやって、部分点を少しでも狙いにいくんだ。二次試験は得点集めゲームなんだから』
『第3問と第6問は解答欄が広いけど、だからと言ってこの2問が特別難しいとは限らない。配置に惑わされてはいけないよ』

 佐々木さんの声が聞こえる。翠ちゃんの声も聞こえる。そうだよね、そうですよね、わかっています、頑張ります、と返しながら、必死で手を動かす。

「数学の点数を上げる方法?」
「うん。東大目指す前から課題はそれなりにちゃんとやってたし、基本問題はまあまあ解けるんだけど、どうしても実践レベルに立てないというか……過去問解くと解法はちょっと思いついたりして、試してはみるけど、完答までは辿り着かないっていうか……」
「それでいいでしょ」
「え?」
「完答なんてしなくていい。目指すのは大事だけど、1問20点からどれだけ部分点をかき集められるかが勝負なんだよ。1問完答しただけの人と、3問から10点ずつ集めてきた人だったら、後者の方が点数高いじゃん」

 以前、数学がどうしてもうまくいかなくて、翠ちゃんにこうやって聞いたことがあった。翠ちゃん曰く、数学一点突破の天才じゃない限り、完全解答を目指すよりも要点を押さえて、どの問題も少なくとも(1)は確実に獲り、それ以降は解けそうなところから搾り取っていくしかないんだそう。
 今、それを実感する。この限られた150分という時間の中で、いかに効率よく点数を稼ぐか。それが求められていることを強く感じる。
 さあ、あと20分。どこを攻めようか——。

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「試験終了。筆記用具を置いてください。——はい、お疲れさま。この後解説会やるから、ちょっと休憩しておいてね」

 翌日、2日目の16時。午前の理科、そして午後の英語が終わる。佐々木さんの声にシャーペンを放り出した。
 果敢に挑んだ。どの科目も、解答の一文字一文字にすべてを賭けるくらいの気持ちで臨んだ。
 でも——惨敗だった。終わりの合図に、放心するしかなかった。

「ちょっと、大丈夫? 今のうちに休憩しておかないと、こっから復習するんだよ? 模試は復習が一番大事なんだからね?」
「……あれだけやっても、全然わかんなかった……」
「あーあー、まあ手応えのなさに浸るのも大事か?」

 5月から勉強を始めた。今は8月。そう早く結果が出るものでもないのはわかっている。それでも、少しは進んでいると思った。いや、進んではいる、それは実感している。でも、立ちはだかる壁が高すぎる。
 それでも、ここで折れるわけにはいかない。

「もっと、やんなきゃ。やるしかないんだから」

 佐々木さんが戻ってくる。
 全問解けるようにしっかり復習してやる。壁が高ければ、乗り越える方法を考えるまでだ。迂回はしない。どうにかして、絶対に上り切ってやる。待ってろよ、赤門——。