日に日に気温は高くなり、日差しに肌が焼き付く感覚と湿気で全身がベタつく感覚が混ざり合っていく。本格的な夏がやってきた。
 夏を制する者は受験を制す! と書かれたポスターが塾の自習室には貼ってある。よく聞くフレーズだけど、いまいちピンと来ない。
 受験が近づいてきているのは頭ではわかる。3年生の中で大学進学を希望している人は基本的に、夏休み中も課外授業があるため、学校に行かなければならない。そうやって毎日登校するうちに、だんだんと周りも受験を意識し始めてきているのが伝わってきた。
 でも、実感という実感は湧かない。ただ、数ヶ月後には強制的にやって来るイベントに、焦りではなく、義務感で足を動かしている感じ。
 やる気はある。翠ちゃんという秀才がいつも隣にいるおかげで、やらなきゃという気持ちが常に出てくる。でも、ふとした瞬間に、将来という訳のわからない大きなものが表面のツルツルな壁のように立ちはだかっているように感じて、何のためにどこを向いて走ればいいのかまったくわからなくなるのだ。将来の夢だってある。でも、それに達するまでの道のりが果てしないもののように感じられて、道に迷っているような気さえする。
 だからこそ、佐々木さんは努力の道筋が見えている東大受験というルートに私を引き摺り込んだのかもしれない。
 とはいえ、このままでは走り続けることはできない。
 ポスターの隣には、佐々木さんのチョイスだろうか、名言がいくつか貼ってある。
 "Life is like riding a bicycle. To keep your balance, you must keep moving."
 アインシュタインの名言だそうだ。「人生は自転車のようなもの。バランスを保つには、ペダルを漕ぎ続けなければならない」その通りなんだろう。でも、漕ぎ続けるためには、何かを変えなければいけない気がする。私は、自分の気持ちを確かめてみることにした。

「翠ちゃんはさ、なんで東大目指し始めたの?」

 塾の階段下にある休憩スペースでご飯を食べながら、隣の美少女に話しかける。コンビニで買った幕の内弁当と古文単語帳を並べて交互に見ている彼女は、気怠そうにこちらを見た。

「んー、特にこれといった理由はない。国境なき医師団に入りたいんだよね、あたし。で、そのためにはやっぱ国内一番の大学入った方が行きやすいかなーって。資格的な感じ? ほら、結局日本って学歴社会じゃん? まずは日本の事務局に審査されるだろうから、印象がいいのって東大医学部卒っていう肩書きだろうと思ってさ。合理的でしょ?」
「……まあ確かに、合理的ではあるね」
「なんでそんなこと聞くのさ」

 お弁当に入っている冷食のメンチカツを箸で持ち上げて、衣から透けて見える中の肉の色をちょっとだけ眺めてから、私は答える。

「私さ、精神科医を目指してるんだ」

 ✳︎✳︎✳︎

 あれは、中学1年の冬だった。私には入学してすぐから仲良くしている大の親友がいて、すべての行動は基本彼女と共にしていた。喧嘩することもあったが、その日の夜にはすぐに笑って仲直りする。彼女が隣にいるのが当たり前で、お互いなんでもしゃべったし、どんな秘密でも打ち明けた。お互いの好きな人はもちろん、家の悩みや部活の悩み、授業で面白かったこと、なんでも語り合った。知らないことはない——はずだった。
 突然、本当に突然、彼女は不登校になった。あの日は雪で学校に着くのが少し遅れてしまって、彼女がまだ来ていないことにも特に疑問は抱かなかった。寝坊したのかな、バスが遅れているのかな。でも、授業が始まっても、彼女は姿を現さなかった。連絡が来ているかも、と机の中に隠したスマホを見るも、何も来ていなかった。
 よくお互いの家にも行き来していたから、その日はすぐに彼女の家に向かった。
 
「ごめんね、ちょっと今は会わせられないの。すぐに学校に行けるようになると思うから……」

 彼女のお母さんは、これ以上踏み込まないでくれという顔をしていた。私は諦めて家に帰る。どうしたの? 大丈夫? と送ったメッセージは未読のまま、それからしばらく何の音沙汰もなかった。
 1ヶ月が過ぎた。学校で担任に呼び出され、私は職員室に向かう。

相田(あいだ)さんのことなんだが……精神疾患になってしまってだな。学校に来られないと言っているそうなんだ。いじめなどはないと本人も言っているが、学校としては一応確認がしたいんだ。きみは相田さんと仲が良かっただろう? 何か彼女が不登校になる原因になりそうなことは聞いたことないかね?」

 ——彼女が、精神疾患?
 目の前の先生が言っていることなど、何ひとつ理解できなかった。精神疾患ってなんだ? 鬱とか言われているやつ? それに、あの子がなった……?

「いえ……何も。何も聞いていません」
「そうか。何かわかったことがあったら、教えてくれ」

 そんなそぶり、一度も見せなかった。ずっと明るいままだった。悩みを打ち明けてくれることもあったけど、そんなに深刻に悩んでいるわけではなさそうだった。私には、何も教えてくれなかったんだ。いや、誰にも言わなかった、言えなかったのだろう。
 しばらくして、とある噂が流れてきた。それは、彼女の兄が不同意性交渉で訴えられ、それ以来家庭が崩壊の一途を辿ったというものだった。もともと仲のいい家族だったはずだ。それが、どんどん変わっていってしまったことに耐えられなかったのが、精神疾患の原因だったのだろう。
 結局、あれから彼女は一度も学校に来られなかった。私は彼女に会うことなく、いつしかそれが当たり前の日常になり、こうして普通に高校に入ってJKとして暮らしている。

 それからというもの、どうしても引っかかっている。私はどこかで彼女のSOSを受け取ってはいなかったのか? そもそも精神疾患とは何なのか。色々調べた。検索履歴はそればかりになった。でも、いまいち何も掴めなかった。よくわからないまま。何もかもがあの日で止まったまま、私は今まで来てしまった。
 だって、私のせいだ。私が彼女の変化に気づけなかったから、彼女は戻れないところまで来てしまったんだ。
 何をしていても、誰かから責められているような気がした。お前のせいだ、一緒にいたお前が気づかないでどうするんだ、親友だったんだろう? ずっと行動を共にしていただろう? お前が気づいていたら、彼女は救われていたかもしれないのに。そうやって後ろ指を指されているような気がしてならなかったのだ。
 責められるのが怖くなった。誰かに影響を与えるのが怖くなった。「変化」が人をいとも簡単に壊してしまうことを知ったから。
 じゃあ、どうすれば責められないか? 答えは簡単。「現状維持」を選び続ければいい。自分からは何も変わらない、変えない。そうすれば、自分が誰かに影響を及ぼすことは極限まで減らせる。何も変えず、ただひたすら「普通」に「空気」のように、世界に溶け込んでいればいい。失敗して誰かに影響を与えてしまって責められるくらいなら、何もチャレンジしない方がいいに決まっている。
 きっと人間は、大人になるにつれて、現実を知っていき、自由に夢を語れなくなっていくのだろう。その過程で、誰かに責められたり、何度も挫折を繰り返して、少しずつ自信というライフを削っていく。そしてある一線を超えた瞬間、新しいことにチャレンジするのはやめよう、このままひっそりと生きていこう、と決める日が来るのだろう。こどもの頃は純粋無垢に何にでもなれると信じていたけど、そうじゃなくなっていくのだ。私は彼女が不登校になった日に、その一線を一気に超えてしまった。だから、何もしないことを選んできたんだ。
 精神科医になりたい。そうして、彼女のような救いを求めている子を助けてあげたい。それだけはあの時に決めた。でも、そこに辿り着くまでの道のりがぼんやりしていて何も見えなかった。いや、見ようとして来なかった。見てしまったら、変わらなければいけなくなってしまうから。
 そんな私を、佐々木さんと翠ちゃんが軌道に乗せてくれた。ここを進めば大丈夫だよって、もし失敗しても、別の大学に志望を下げてもいいんだよって言いながら。

「——本当、情けないよね。ああ、でもしゃべってまとまった気がする。私、やっぱりこの道を走り続けなきゃいけないんだ」
「なるほどね……まあ辛かっただろうけど、そうやって自分の進む道にまっすぐ向き合えるあんたがちょっと羨ましいかも」

 翠ちゃんはどこか寂しそうに笑った。私は何も言えなかった。でも、こうして口に出したことで、改めて覚悟はできた。

「私、絶対東大受かる」
「うん。それはあたしも一緒」

 変化が怖くて、でも変わらないと前に進めないことはなんとなくわかっていて。そうやってもがいてきたこの数年間。やっと私は前に進む決意ができたのだ。自分で自分の望む未来に手を伸ばしたい。青い炎は、さらに温度を増して、辺りの酸素を存分に取り込んで大きくゆらめいた。