一週間経って、文化祭の日を迎えていた。
 高校はいつもと様変わりして、お祭りモードになっている。
 手作りの看板や出店などが建物の内外に点在し、体育館などもライブらしき音が漏れている。
 僕のクラスは郷土史のパネル展示という地味なものを選んだため、当日にやることがない。
 だから僕も文芸部の部誌販売当番に回っていた。
 我が校の文芸部は目立った成果こそないものの、毎年、部誌のコアなファンがいるらしい。用意した部数はちゃんとはけていくとのことだ。
 部室におんぼろ机をふたつ並べて、パイプ椅子で客を待つ。
 待つが、ひまだ。
 開始一時間の時はそこそこ売れて、少々賑わっていたと聞くが、そこから当番が僕に代わってさらに一時間経っていた。
 時計をみても、次の当番が来るまでは間があるし、完売もしていないので、離れるわけにもいかない。
 僕は例の短歌ノートを広げることにした。シャーペンをかちかちと鳴らして、芯を出す。
 いざ作歌するぞ、と身構えたものの、言葉は出てこない。
 数分ほど格闘し、今日はだめだと窓の外の空をながめる。
 今日は雲ひとつなく、晴れていた。
 十月に入るとさすがに暑さも緩み、冷房もいらなくなっている。
 快適なはずなのに、最近の僕はなんだか調子が上がらないのだった。

――短歌を見せるのも、控えているしなぁ。

 広野も気づいていても、何も言わない。
 そういうものかもしれない。なんとなく始まった交流はなんとなくで終わるものだ。
 この文化祭だって、広野がどうしているのか、僕は知るよしもない。
 僕はひまつぶしに部誌をぱらぱらとめくってみる。
 部誌にはマンガ、イラスト、小説、随筆……短歌が寄り集まっている。
 みんな好きな方法で自分を表現している。みんなの個性が雑多に混じり合い、読み手も楽しめるのが、部誌なのだ。

――広野も、これ買ったかな。

 広野にも見せてやりたいと思った。
 広野が好きだと言っていた僕の短歌も入っている。
 部誌に載せたものは、広野がよかったと言っていた作品ばかりだ。

「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて

糸を吐き包まれた繭はほぐれて 透けゆくへだて それもうれしく

シャープペンシル ゆっくりと芯足していく手つきに時は寄り添っている

両肩をぐるんと回す大胆さ オオカミだって本気になること

 そして、広野が気になりだして、はじめて彼のことを考えながら作った短歌が冒頭にある。

教室の背はまばゆくて 新しい手触りを詠むことの不思議さ

 これで五首連作だ。当初は乱雑になんでも詠んでいたけれど、そのうちに広野のことを詠むようになっていった過程がわかる。
 この部誌に提出していた時は並べても「よくできたな」 ぐらいにしか感じていなかったが、今思えば……。

――「好き」がダダ漏れじゃん。

 これを読んだ文芸部員の中に気づいた人もいるかもしれない。ただ、気づいてもそっとしておいてくれていたのだろう。そうだとしたら、ありがたい話だ。
 そう思いながら見本の部誌を閉じて、顔を上げた時。
 部室に、広野が、入ってきた。

「広野?」

 広野は顎を引き、僕の前まで来た。少しぎこちない動作。文芸部の部室がもの珍しいのもあるだろう。視線が観察するように動く。

「福永は店番か」
「そう。もう少しで終わるけど」
「ここでは、部誌を販売しているんだな?」
「そうだよ。五百円ね」

 僕は机に張り出してある値札を指差した。

「福永の短歌も、あるのか?」
「うん。でもほとんどもう広野に見せたやつばかりだけどね」
「でも買う」

 広野は右手の拳を開いて見せた。五百円玉が手のひらでびかびか光っている。
 僕はその硬貨を慎重につまみとり、硬貨ボックスに入れ、代わりに部誌を手渡した。
 広野は部誌にじっと目を落としたが、両手で取ろうとして……僕の手の甲に触れた。
 時がとまった瞬間だった。
 電撃がびりりと走り、体を駆け抜けていくような。それでいて。

――熱い……。

 広野の手の感触に息を呑む。
 だが、それは広野にとっても同様だったらしく……。

――広野の首が、真っ赤だ。

 固まった表情の下で熱を持った首。そんな広野の姿を見たことがなく、心中を知りたいけれども、自分にも余裕はない。
 きっと、自分の方は全身がゆでだこのようになっている。

「……悪い」

 広野はなにごともなかったかのように、もう一度部誌を持ち直し、受け取った。
 去ろうとする背中に、僕は思わず声をかけていた。

「広野……今でも僕の短歌を、好きか?」

 広野は顔だけ振り向くと、重々しく頷いた。

「好きだ」

 広野の声と、視線。それはまるで僕に言われたのようにも聞こえて――体が震えた。

――勘違いしちゃだめだ。純粋に、広野は僕の短歌を気に入っているだけで。それだけで。

 僕は口を開きかけたところで――。
 広野の大きな身体の脇からひょっこりと亀山さんが現れた。

「あ、広野くん。部誌を買いにきてくれたんだ、ありがとう〜。福永くんと仲良しだもんね! 福永くんもおつかれ〜」

 亀山さんが部室に入ってきて、僕に話しかけた。
 広野が、亀山さんの動きを視線で追っていったのが印象的だった。
 僕はつとめていつもどおりを装った。
 どうせ、次に広野へかける言葉なんて思いついてはいなかったから。
 
「亀山さん、おつかれさま。まだ当番の時間じゃないのに、どうしたの?」
「いや、ちょっと個人的に文学を布教しなければならないヤツがいてさ。まだ部誌が残っているなら追加で買おうと思って」

 亀山さんはなぜかちょっと、ぷりぷりと怒っていた。
 広野はもう教室にいなかった。出店などをまわりにいったのだろう。
 もう少し話していたかったな。
 名残惜しい気持ちを引きずりつつ、僕は亀山さんに向き直る。

「へぇ、部誌を買って、だれに布教するの」
「大林」
「大林くん!?」
「先日もあったでしょ、福永くんの短歌ノートをとりあげた件」

 亀山さんは声をひそめた。
 
「あの時は広野くんがおさめてくれたからいいけどさ。ああいうことがまた起こってはかなわないわけよ、文芸部としては! だから、我々のよさをすりこむべく、洗脳する」
「布教よりも悪化してない?」
「いいの、あんなヤツ! かえるみたいな面《ツラ》しやがって!」
「まあまあ、落ち着いてよ」

 僕は亀山さんからまた五百円を受け取り、部誌を手渡した。
 部誌には亀山さんのイラストも収録されている。彼女にとっても宝物の一冊になっているはずだ。

「福永は、あれから大林たちからなにか言われてない?」
「なにもないよ、大丈夫」
「そっか。ま、あの時の広野くん、静かにガチギレしてたから効果抜群だったもんね。普段は全然そんなタイプじゃなかったから、みんな度肝抜かれていたし」

 亀山さんは雑談しながら部誌をぺらぺらめくる。

「あれはまじでかっこよかった。尊敬する」
「そうだね……」
「あ、でも恋愛的な意味ではないよ? あったらここで福永くんに言わないし」
「そう……」

 亀山さんは中学からの同級生でもあるが、どうにも彼女は僕を異性枠としてみていない節がある。まぁ、それでいいが。

「で、福永くんに聞きたいんだけどさ」
「おう」
「なんで私、さっきここに入ってきた時、広野くんからものすごい目で見られたんだけど、私、なにかしたと思う?」

 僕は頭を巡らせてから、首を捻る。

「……していないんじゃない?」
「そっか。ならいいか」

 思い直した亀山さんはすっかり頭を切り替えたようで、時計の時刻を確認するや、「交代の時間だね」と呟く。

「せっかくの文化祭だし、楽しんでおいでよ」

 亀山さんに見送られ、僕は校内を巡ることにした。
 はじめての高校の文化祭。華やかに飾り付けられた校内ではあるけれど、僕には目当ての出し物もなく、なんとなくでそぞろ歩きをしているだけだ。
 そして、大勢の人間が外部からも来ているとはいえ、さして大きくもない敷地の中で、広野と出会わないはずもなく……。

「広野」

 僕の口からこぼれた声に、人混みにいた広野はすぐさま気づいた。
 広野は、ひとりだった。
 だれかと一緒なら諦めがついただろうに、広野の側にはだれもいなかったのだ。

「さっきは部誌を買ってくれてありがとう」

 僕は自分から話しかけにいっていた。
 広野は立ち止まって、僕が隣に立つのを待っていた。
 そう申し合わせたわけでもないのに、自然とふたり連れ立って歩きだしていた。
 広野は文化祭の場でも落ち着いていて、はしゃいでいる様子もない。大型の野生獣がしなやかに歩行しているさまを思い出させた。

「たいしたことじゃない。手に入れたかったから」

 少し憂いを帯びた目の位置は僕より高い。筋肉質な体も、いい。言葉すくなに、しかし威力高く放たれる言動には芯があって。
 やはり僕は広野海斗という人間が好きなんだと実感する。

「僕以外にも文芸部の人たちがたくさん書いてるし、貴重な発表の場だからさ、またじっくりと読んでよ」
「そうする。……でもたぶん、それでも福永のが一番だと思う」
「あ、りがとう」

 言葉が詰まってしまった。動揺が伝わってやいないかと隣を盗み見るが、広野もまた僕を見ていた。
 互いに視線を逸らし合ったのがわかった。
 広野は口元を大きな手で隠していた。

「広野は、どこをまわっていたの?」
「なんか、適当に」
「じゃ、じゃあさ、出店でフランクフルトでも買う?」
「あぁ」

 僕たちは外に移動し、出店のフランクフルトを買った。
 高校の出し物なので、そこらの業務用スーパーで買ったものを焼いて出しただけだろうが、それはそれとして青空の下で食うのは美味い。
 広野は、僕がフランクフルトやジュースを買うのを見るだけで、自分では買わなかった。

「広野は買わないわけ?」
「今は腹が減ってない」
「そう。せっかくの文化祭だし、ひとくちだけでも飲んでみたら? このミックスジュースおいしいよ」

 言ったあとで、いやまずかったか、と思ったが。
 広野は何の迷いもなく、僕の手元にあったドリンクのストローに口をつけ、少し飲んだ。

「広野は飲みかけとか、気にしないタイプ?」
「……気にしないが」

 広野は少し思案した様子で言う。
 僕はやや気にしながらもストローからミックスジュースを飲んだ。先ほどより、味を感じられなくなっている気がする。

「福永が、同じことをだれかにやっていたら、気にする、と思う」
「それは……」
「福永は、気にしないでくれ」

 広野はがしがしと後頭部をかいた。
 また、広野の首が赤くなっている。
 僕も広野もいったいどうしてしまったのだろう、と考えた。
 すべては祭りで盛り上がっているせいなのか、それとも――。

 

 最後に僕たちがたどり着いたのは、空き教室にあった生物科学部のブースだった。ここには研究発表の展示と、一部体験コーナーがある。
 体験コーナーでは星砂を顕微鏡から覗き込むことができた。

「へぇ、とげとげしてるなぁ」

 星砂は、海で生きる小さな生き物の殻からできているのだ、とキャプションには書いてあった。
 僕と同じように顕微鏡をのぞきこんだ、広野が呟く。

「ひとつひとつが、いのちだったんだな」

 近くには、非売品だったが、星砂を集めたガラス瓶が置いてある。瓶から砂があふれそうにみえた。
 広野はこれが気に入ったらしく、その前からなかなか動かなかった。
 午後五時のチャイムが鳴る。
 文化祭終了の合図だった。
 夢のような時間が終わる。

「じゃあ、僕は文芸部のほうがあるから……」
「そうか。俺は教室にもどる」
 
 僕たちはそのまま片付けのために別れた。
 日が落ち切ってから家路につく。
 見上げると、空には星が、点々に瞬いているのを眺めながら、僕は決意を、かためた。

――告白、するか。

 思いがこぼれおちそうなほどに、満ちてしまったから。
 僕は、広野から特別な眼差しを向けられる相手になりたかったのだ、と気づいてしまったのだから。
 告白するための言葉も、すでに、できていた。


二文字をかたどるための星砂は壜をあふれてあかるくなる「好き」
 




 家に帰った俺は、夜、自室で文化祭で買ったものを机で読む。
 読むといっても、目当ては福永の作品だけだった。
 他の部員の作品も悪いとは言わない。ただ、福永の短歌が自分にとって、特別「いい」と思えるだけで。それがファン心理というものだろう。
 福永の作品ページを開いて、じっくりと読む。丹念に、何度も。
 福永は5首載せていた。タイトルはシンプルに「クラスメート」となっていた。
 クラスメート……。
 今まであまり意識してこなかったが、先日に福永に

『さっきの短歌は、俺に向けてのものか?』

 と尋ねて以来、別の意味でとってしまいそうになる。
 横並びになった一首同士の行間に意味を見出そうとしてしまうのだ。
 距離をとろうとして、福永が短歌を見せにこようとしなくなったことにも反応しないようにしていたが……。
 それでも文化祭の日にわざわざ部室に足を運んでいる自分がいた。それも、福永が店番をしている頃合いを見計らって。
 話しかけたら、福永はうれしそうにしていた。福永がうれしくなっている理由が、自分なのも、うれしかった。
 だが、クラスメートの亀山がやってきて、福永に楽しそうに話しかけてきた時に、心の奥底から黒々としたものが湧いてくるのをとめられなかった。
 あれこそが嫉妬というものなのだろう。無意識のうちに亀山に向けていたら申し訳ないことをしたと思う。
 だが、こんなことを自分がするとは思ってもみなかった。
 これでは……本当に、自分は心から、福永のことを。
 少しわけてもらったミックスジュースの味がいまも舌に残っているし、俺が口をつけたストローを少し気にしながら飲んでいる福永の顔も忘れられず。
 一緒に頭をつきあわせるように、同じ星砂のオブジェをながめたことも、脳裏に焼きついてしまったように、離れない。
 そもそもその前から、教室で福永の短歌をみせてもらっていたあの時間を、自分はとても気に入っていたことにも気づく。
 あの中に、べつのだれか……たとえば福永と同じ部活の亀山を入れたり、大林を加えたりすることなど、はじめから考えていなかった。
 俺と福永はいつだって、一対一の関係だった。短歌を詠む福永をひとりじめしたかったのは、俺のほうだった。
 だから大林がそれを壊そうとしたことに、腹の底から苛立ち、腹が立ったのだ。それはけして福永を思いやってのことばかりでもなかった。
 自分の中にもほの暗い欲望があったのだ。

――福永は、どう思っているんだろうな。

 今日も文化祭を一緒にまわったのだ、悪く思っているわけではないだろう。
 だが、友人以上に――恋愛対象として俺を見るのは、難しいかもしれない、とも思う。
 俺はベッドに横になり、枕元にあった本を手にとる。
 以前、福永にすすめてもらった短歌の本だった。

『広野になにか伝えたいことがあるなら、いつか短歌の形にもなるかもしれないね』

 福永がすすめた一冊は薄いグレーの表紙で、薄くて軽い本だ。短歌の作り方がわかるのにいい本なんだと言っていた。

――俺の伝えたいこと、か。

 ぱらぱらとめくって、すぐに起き上がり、机に向かう。
 手元にはノートとペンを用意した。本を読みながらメモを取るためだ。
 ペン先をノートに置いたとき、頭は真っ白になり、途方にくれた。
 それでも、少しずつ、少しずつでも。

――伝えたいことは、ある。

 俺がためらいがちに置いたペンも迷いながら動き出していく。
 短歌の形でなら、届く気持ちもあるかもしれない。