昼休み後の五限目は数学。教室の空気はどことなくゆるんでいる。夏の冷房の音と数学教師の声が心地よいBGMのようにも聞こえてきて、前方では眠ってしまっているクラスメートもいた。
 外は雲ひとつなく快晴。強い日差しは高熱を孕みながら容赦なく降り注いでいた。水たまりもすぐ蒸発してしまうだろう。
 僕もしっかりノートと教科書は開いていたが、気づけば、親指と人差し指で消しゴムのカスを丸めていた。小さな粒にして、机の端に置く。

――あ。『できそう』だ。

 突然、脳内でスイッチが入った感覚になり、シャープペンシルを持ち直す。
 数学の数式を写したノートの端に、「消しゴムの」と書く。五文字だ。なら、次は七文字、その次は五文字。そして七文字と七文字に言葉を収めていく。
 やがてノートの端にはいくつかの単語と取り消し線が引かれていき。

消しゴムのかすを考えなしに練りまるめかためてすみにおく午後

 こんな短歌ができた。出来はまあまあだと思う。後で短歌リストに加えておこう。
 短歌は、高校の部活ではじめた新しい趣味だが、思いのほか僕に合っていたらしい。毎日のように言葉が溢れてきて、短歌の形になっていく。
 先日は初めて新聞の歌壇に掲載されたので、多少なりとも才能があるかもしれないとうぬぼれている。

『環《たまき》くんはたくさん本を読むもんねえ。言葉をいっぱい知っているのは、そりゃあ有利だよー』

 中学からの同級生であり、同じ部活の亀山めぐみからはそのように評されている。
 その時の僕は苦笑いで返すほかなかったけれど。

――僕が多作なのは、それだけでもないんだよなあ……。

 僕の視線が「ある方向」へ向こうとした時。
 授業終わりのチャイムが鳴った。
 起立、礼、「ありがとうございました」。

「今日の日直の人は――」

 教師が日直を呼んだので僕は手を挙げた。

「おお、福永か。宿題プリントを後でまとめて配っておいてくれ」
「わかりました」

 数学教師が宿題用のプリントを手渡してきたので、僕は教壇まで行って受け取った。
 教壇から自分の席に戻る時はいつも緊張してしまう。
 クラス中の視線が集まるから――それも間違いではないが、それだけでもない。
 僕が気にしているのは、たったひとりだけ。
 どうして気にしてしまうのか、僕にもわからない。
 ただ、彼だけは周囲よりも輪郭が際立っているようで。
 彼が鋭い三白眼の持ち主だからそう思うのだろうか。それとも、どこか人を寄せ付けない孤高の雰囲気をまとっているから?
 しかし、この四月にこの高校へ入学した時から、カッコつけているわけでもなさそうなのに、自然体のままでカッコいい彼を目で追っている。僕よりはるかに恵まれた体躯に、きっと憧れているのだ。
 僕は目が合わないようにささっと自席に戻り、またこっそりと学生服に包まれた大きな背を眺めていた。

「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて

 また、新しい短歌が降りてきた。
 広野海斗《こうのかいと》。僕のクラスメート。
 彼を見つめていると、短歌が次々と湧いてくるのだ。




 放課後。グラウンドから野球部の練習の声がうっすらと聞こえてきた。
 教室には日直である僕ひとりだけ居残っている。
 日直用日誌を早く書いて担任に提出しなければいけなかった。
 今日は所属する文芸部のミーティングがあるのだ。

「そうだ。数学の時間に思いついたやつを書き写しておかないと……」

 日誌を埋める言葉に迷って、気を紛らわすために自前の短歌ノートを取り出した。ボールペンでささっと書き付ける。家のパソコンではきちんとリスト化しているが、やはりアナログな紙に書くと落ち着くのだ。
 これでひと心地ついたと日誌の続きを記入していく。
 冷房はすでに切れていたので、じんわりと額に汗が滲んでいく感覚があった。
 一ページ分の細かい項目と「その日あった出来事の自由記載欄」を埋めきった。時計を見ると、文芸部の集合時間まであと五分に迫っていた。
 文芸部は別校舎の最上階にある。そろそろ出ないとまずい。

「やば、担任にも日誌を提出しないと!」

 大きなひとりごとと一緒に机上の荷物を慌てて鞄に積み込み始めた。
 その時だ。
 がらりと教室のドアが開く。
 途端、どきりとした。
 広野が、教室に入ってきた。大きな獣のような体がゆっくりと教壇近くの入口から入るのを見て、俺の動揺はマッハを超えた。

「お、おつかれ! ……じゃあな!」

 僕はわけのわからないことを言っていた。
 自分でも驚くほどのスピードで残りの荷物をひとかきで鞄にぶち込み、そのまま担いで教室後ろの扉からダッシュで去った。
 この間、広野は何か言っていたかもしれないが、僕には聞く余裕がなかった。
 廊下を早足で歩き、光の速さで担任へ日誌を提出し、文芸部の部室へと向かった。

「間に合ったじゃん、おつかれ、環くん」

 や、とフラットに手を振ってくる亀山さんに、僕は息を切らせながら「いやあ、やばかった」とぼやいた。

「あはは、すっごい汗だね。校舎ダッシュしてきたのって感じ」
「それに近いかな……日誌が終わらなくて」

 本当は前触れもない広野の登場で焦ってしまったからとは言えなかった。

「適当に書けばいいのに」
「そうできたら楽なんだけどね……言葉を書くんだからちゃんとしようと思ってさ」
「まじめだね。文芸部の鑑だよ」

 亀山さんは小さく笑った。
 会話をしながら、僕たちは並べられたパイプ椅子に座る。すでに先輩たちは座っていて、和気あいあいと話している。
 文芸部には一年生が六人いて、僕以外は全員女子だ。
 僕は運動が得意でないし、本が好きだったので文芸部を選んでよかったと思っている。女子ばかりで気をつかう時ももちろんあるけれど、僕にとって居心地のいい場所だった。
 定例ミーティングを終えると、部は雑談へ移行する。
 文芸部男子はオタク気味かつおとなしさが売りなので、自然と主導権は女子が握っていく。時には僕が聞いてもいいのかと思うぐらいにぶっちゃけた話もしている。
 この時は、とある先輩が「一年生にいるイケメン男子」の話題を振ってきた。
 一年生はそれぞれに自分のクラスにいるかっこいいと思う男子を言っていくが、亀山さんはこう口火を切った。

「ああ、うちのクラスだとたぶん広野くんがそれですねー。身長も百八十センチ以上あるみたいだし、肌も少し浅黒いし、体格もいいし。ちょっと強そうなイケメン枠に入るかも」
「へえ。なら、恋人とかいたりするのかな?」

 先輩は興味津々に食いついてくる。
 僕はもぞもぞと落ち着かない気持ちでパイプ椅子に座り直した。

「どうなんでしょ。彼、自分のことは全然話しませんし。ま、いてもおかしくないでしょうね。え、先輩、狙います?」
「いやいや、無理って。自信ないよお」

 先輩は笑いながらぱたぱたと手を振った。
 女子たちが騒いでいるのを聞く限り、広野はモテると言っていいのだろう。
 先輩は次に僕を見た。

「ね、そんなに広野くんって子はかっこいいの? 環くんはどう思う?」
「あー、いえ」

 僕は困ったが、「そうですね」と無難な返答をするに留めた。
 嘘は言っていない。――言っていないが、言葉足らずのような気もしていた。

「環くんと言えば」

 亀山さんが俺の気持ちを知ってか知らずか、話を逸らしてくれた。

「短歌の新作は順調?」
「あぁ、うん。ちゃんと書けてるよ。えーと、待って」

 僕は鞄をごそごそと探り、短歌ノートを探す。ノートに書き留めた中から適当な一作を披露しようと思っていたのだ。
 だが。

「……あれ」

 顔から血の気が引いていくのがわかった。
 いくら鞄の中身を探っても、短歌帳がないのだ。つい先ほど教室で書き付けていたのに。――まさか、教室に忘れてきた?
 考えられるのは、自分の机の上か、その下に落としてきたか。

『お、おつかれ! ……じゃあな!』

 僕が広野から逃げるように教室を出ていった時、僕は慌てて鞄を肩に担いだ。その時に派手に床に落としたか。もう、それしか考えられなかった。

――もしもあのノートがだれかにみられたら。

 特にあの場にいた広野に見られでもしたら……。

「神さま」に気づかれた時 透明で見返されない壁がほしくて

 広野がいることで触発されて作った短歌もあの中には入っている。

「環くん、どうした?」
「あ、ううん。ごめん。いつも持ってる短歌帳を忘れたみたいで」
「そう?」
「でも、変わらずに短歌を作っているよ。次の部誌用にも準備しておかないと」

 亀山さんは少し心配そうな顔をしたが、深く追求してこなかった。
 雑談は続いていくが、その間も気が気でなかった。気ばかりが急いていく。

「す、すみません。ちょっと用事を思い出したので、少し早めに帰ります……!」

 やっと会話の隙間にそう言い置いて部室を出ることができた。午後六時前。
 早く教室に行かなければ。
 広野が短歌ノートの存在に気づかず、すぐさま教室を立ち去ってくれたらいいと願っていた。
 息を荒げながらたどり着いた一年四組。僕のクラスは――夕方の廊下にも教室からの照明の光がこぼれていた。

――だれか、いる!?

 足をゆるめ、そろりそろりと出入口へ近づき、そうっとガラスを覗く。
 席に座って外を眺める白シャツ姿のクラスメートがひとりいた。
 その輪郭は――広野のものだった。
 広野は、右手にノートを持っていた。若草色の表紙――間違いなく、僕の短歌ノートだった。
 広野が僕の短歌ノートを持っている。あまりの光景に僕は動揺し、鞄を思い切りドアにぶつけてしまった。
 ガンッ。
 派手な音とともに、広野の三白眼が僕の視線に絡んでくる。

「……福永か」

 広野の太くて低い声に呼ばれたら、僕は法廷の被告人のように前に出るしかない。
 昼間の暑さの名残とは違う、嫌な汗を全身で感じながら、僕は広野のいる教室に入ったのだった。