第六話「最初の敗北」

 その日、風の向きが変わった。
 昼過ぎから吹き出した東風は、乾いた土の匂いに血の気配を混ぜて、森の奥から戦場へと押し寄せていた。
 矢野蓮は、それを肌で感じ取っていた。
 変だ――そう思った矢先だった。
 斥候のひとりが、前方斜面の林から駆け戻ってきた。
「来るぞッ! 敵襲だ――!」
 叫び声が響く。
 それは、空気を断ち切るようにして、隊の頭上へ降ってきた。
 矢野が立ち上がるより早く、敵の軍勢が木立の向こうから現れた。
 まるで地を這うような疾走。
 小柄で黒ずんだ鎧に身を包み、軽装で抜けるように動くその連中は、明らかに奇襲用の部隊だった。
 太一が斬り結びながら叫ぶ。
「くそ、こっちは布陣もしてねえぞッ!」
 混乱のなかで、兵たちは持ち場もわからず応戦に入った。
 静もすでに立っていた。
 白装束が、敵軍の群れにまぎれることなく、ただ一点の“標的”のように浮かび上がっていた。
 斬り結ぶ音、怒声、呻き、泥の弾ける音。
 それらが渦となって、風走組を包み込んでいく。
 矢野は太一と背中を合わせて応戦していた。
 敵の動きは速く、軽い。矢野が防ぎ、太一が討ち、交代しながら後退していく。
 けれど、数の差は歴然だった。
「まずいな……全滅もありうるぞ」
 太一が口元から血を流しながら呟く。
「静は……どこだ」
 矢野が目を走らせた。
 風の先に、白い影がひとつ。
 その瞬間だった。
「ッ……!」
 背に、気配。
 気づいたときには、もう遅かった。
 矢野は咄嗟に振り返ろうとした。
 だが、背中を刃がかすめた。
 頸筋を外れ、肩口から斜めに、刀が肉を裂く。
 視界が一気に赤に染まり、膝が崩れた。
 地に倒れ、唇を噛み、呻く。
 意識が揺れ、遠ざかる。
 敵が上から振りかぶる――その時、
 風が、走った。
 白が、舞った。
 剣が、火花とともに閃いた。
 斬られたのは、敵だった。
 その喉元から血が噴き、まるで紙人形のように崩れた。
 そして――
「……動けますか、矢野さん」
 視界に、静の横顔があった。
「……置いてけ。俺は足を引っぱる」
 矢野は、地面に片手をついて歯を食いしばった。
 肩から腕にかけての感覚が鈍い。指先は痺れ、もう刀を握る力もない。
「行け、静……俺のことはいい」
 だが、静は応えなかった。
 その代わりに――しゃがみ込み、矢野を背に担いだ。
「おい、やめろ……!」
「黙っていてください」
 静の声は、驚くほど静かだった。
 そのまま立ち上がり、矢野を背負ったまま、剣を抜いた。
 敵兵たちが迫ってくる。
 四方を囲まれた状態――ふたりとも生き延びられるはずがない。
 それでも静は、ただ前を向いていた。
 最初のひと太刀で、敵の首が飛んだ。
 二の太刀は、脚を切り裂き、三の太刀で胸を割る。
 担いだままの体勢で、静の剣はまるで重さを感じていないかのように動いた。
 矢野の体重が、足腰にかかっているはずなのに、その動きには一分の淀みもなかった。
 それがどれほどの負荷であるか、矢野には痛いほどわかった。
「……っく、静、お前……!」
 叫ぶが、答えはない。
 静はただ、進む。
 血と泥を踏みしめ、風のなかを抜けていく。
 五人目の敵兵を斬り伏せたとき、静の左腕に深い裂傷が走った。
 それでも、彼は声ひとつ上げなかった。
 代わりに、傷口を無視するように右腕一本で矢野を支え、再び刀を構える。
 敵はもういない。
 ようやく、森の外れが見えた。
 ふたりを包んでいた地獄が、少しだけ遠ざかる。
「……大丈夫です。まだ走れます」
 そう呟いた静の声音は、息も乱れず、まるでいつもの調子だった。
 やがて、合流地点に辿り着いたとき、風走組の残兵数名と周囲を見回す太一の姿が見えた。
「おい! おい、矢野っ!」
 太一が駆け寄ってきた。
 静が膝をつき、ゆっくりと矢野を地面へ下ろす。
「……静、お前……」
 言いかけた言葉を、矢野は呑み込んだ。
 静の白装束は、血と泥に塗れていた。
 左腕から肩へと裂けた布の下で、血が止まらずに流れている。
 だがその顔に、やはり痛みの色はなかった。
 戦いが終わった直後だというのに、そのまま立ち上がると、静は無言で剣の手入れに向かった。
 誰に礼を言われることも、戦功を称えられることも望まずに――。

 その夜、風走組の残兵たちは、傷を負った者を寝かせ、焚火のそばで身を寄せ合っていた。
 矢野は布団の上で左肩を固定されながら、ただ黙っていた。
 自分のせいで静が深手を負ったという事実が、じわじわと内側から彼を蝕んでいく。
 太一が、隣で煙草の火をぼうっと見つめながらぽつりと呟く。
「……背負ってきた時な、あいつ、泣いてるように見えた」
 矢野は顔を上げた。
「……泣いて? 静が?」
「声も出してねえ。目も伏せてた。けど、泣いてるんじゃねぇかって、なんかそう感じたんだよな」
 静という男が泣く。
 そんなことがあるのかと疑ったが、太一の目は冗談ではなかった。
    ※
 その頃、静は一人で外れの岩陰にいた。
 手当も受けず、黙って座り、剣を膝に置いて研いでいた。
 砥石が刃に触れるたび、金属音が乾いた空に響く。
 その音が途切れたとき、静はふと刀身を見つめた。
 己の顔が、剣の中にぼんやり映っていた。
「……誰かを背負うのも、誰かに背負われるのも、戦じゃ当たり前です」
 そう呟いて、再び砥石を取り上げた。
 その刃のきらめきは、夜風に揺れながら――まるで泣いているように、見えた。