第五話「名もなき者たちの誓い」

 戦の喧騒が過ぎ去ったあとの夜は、どこか虚ろだった。
 泥と血の匂いを含んだ風はまだ野を渡り、兵たちは焚火を囲んでその残り香を肺に収めている。
 その夜の話題は、妙に現実的だった。
 戦功と名――つまり「誰が記録に残るのか」という話。
「今回の斥候戦、隊の手柄として報告が上がったらしいぜ。名前が本陣に提出されるとか」
 最年長格の兵士が、手の酒をまわしながらそう呟く。
 その場にいた数人の若い兵は、互いに顔を見合わせ、冗談めかして言い合った。
「おいおい、まさか俺の名も書かれるんじゃねえだろうな」
「お前は逃げ足しか見えなかったぞ」
「うるせえ、斬ったぞ、ちゃんと一人!」
 笑いが生まれた。だが、その明るさはどこか空虚だった。
 皆、知っているのだ。誰が戦を決めたのかを。
 白装束の剣士――沖田静。
 彼が一太刀で敵斥候を潰し、道を拓いた。
 あの瞬間がなければ、自分たちは“名を残す”どころか、野の露と消えていたかもしれない。
 その静本人は、やや離れた場所にいた。
 火から少し外れた木陰で、膝に手を置いたまま、じっと空を見上げている。
 焚火の灯はそこまで届かず、白装束が闇の中に浮かんで見える。
 矢野蓮は、その影を見つめていた。
「なあ」
 静かに声をかけると、白い影がゆっくりと首だけをこちらへ向けた。
 蓮は近づき、隣に腰を下ろす。
「さっき、戦功の話が出てた。……本陣に名前が報告されるって」
 静は短くうなずいた。
「そう、みたいですね」
「お前も書かれるだろう。あれだけの働きをしたんだ。斥候を一太刀で五人も落とすなんて、並みじゃない」
 静はしばらく何も言わなかった。
 やがて、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「……でも、僕は名を残すつもりはありません」
 その声音は、ひどく穏やかだった。
 まるで、あたりまえのことを述べるように。
「どうしてだ?」
 矢野の問いに、静は焚火をちらりと見やった。
 炎の光が、彼の瞳にかすかに揺れた。
「名は、誰かのためのものだと思っています。誰かに呼ばれるためにあるもの。……けれど、僕には、もうそういう“誰か”がいません」
 矢野は、何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
 それを遮るように、太一が焚火から歩いてきた。
「おいおい、何を寂しいこと言ってんだ」
 酒気を帯びた声で、太一が笑った。
「記録に名を残せば、どこかの家に召し抱えられることもある。そうやって出世してくもんだろ、普通は」
 静はそれにも首を横に振る。
「僕は、“普通”じゃありませんから」
 太一が言葉に詰まる。
「……じゃあ、何のために戦ってるんだ」
 太一の問いは、どこかで矢野自身も感じていた疑問だった。
 名も家もいらぬという者が、なぜ命を賭ける戦に出てくるのか。
 静は、その質問にすぐには答えなかった。
 風が、白装束の裾をそっと揺らす。
 その揺れは、まるで彼という存在そのもののようだった。
 ここにいて、けれども“定まらぬ”何か。
 ようやく、静が低く言う。
「……自分が生きているのか、確かめるためです」
「は?」
「僕は、斬ることでしか、自分の存在を感じられない。……手の感触、血の温度、息の重さ。そうやって、今ここにいるんだと、ようやく思える」
 それは、あまりにも虚ろな言葉だった。
 人を斬ることでしか“生”を感じられないという静の在り方に、矢野はどう言えばよいのかわからなかった。
 だが一方で、彼の剣には、確かに“生”が宿っていた。
 何もかもを拒むような冷たさと、なにかを守ろうとするような強さ――
 その相反する気配が、矢野の心に刺さっていた。
「でもな……」
 矢野は膝に手を置いたまま、前を見つめた。
「お前がそうやって、名もなく死んでいくのを、俺は受け入れられない」
 静が顔をわずかに向ける。
「……どうしてですか?」
「お前の剣は、あまりにも鮮烈すぎる。名を持たぬまま消えるには、惜しすぎるんだ」
 その言葉に、静は微かに目を伏せた。
「……惜しい、ですか」
「そうだ。俺にはできない剣を、お前は振るえる。人が人であるための、怒りとか悲しみとかを全部捨てて、それでも“剣”として在る。……そんなやつ、他にいない」
 焚火の灯が、二人の間に揺れていた。
 太一は何も言わず、その場をそっと離れていった。
 静と矢野、二人だけが、焚火の前に残る。
「なあ、静」
「はい」
「俺は、お前の名を憶えているぞ」
 静は、目を見開いた。
「記録に残らなくても、書状に載らなくてもいい。……たぶん俺は、忘れねぇ。というより、きっと忘れられねぇ。だから俺の中に、お前の名は生き続ける。残念ながらな」
 その言葉は、まるで風のように柔らかく、剣のように鋭かった。
 静は、一瞬だけ目を伏せ、そして――
「それは、困りますね」
 小さく、笑った。
 本当に、小さく、かすかに。
 月明かりの下で、初めて見るその笑みに、矢野は息をのんだ。
 たったそれだけの笑みが、どれほど長い旅の果てに浮かんだものか。
 それを思うと、胸の奥が締めつけられるようだった。
「困る、か?」
「ええ。……でも、嬉しくもあります」
 ふたりの間にあった距離が、ほんのわずかだけ近づいた気がした。
    ※
 その夜、風がやんだ。
 空には星がちらばり、静寂だけが夜営を包んでいた。
 矢野は眠れず、静もまた目を閉じることはなかった。
 だが、言葉はなかった。
 言葉など必要ないと思えた。
 “名もなき者たち”が誓ったことは、記録には残らない。
 けれど、それは確かにあった。
 ただ剣を交えただけの仲間ではなく、何かもっと深いもの――それが確かに、芽生えていた。
    ※
 翌朝、朝靄のなかを歩く静の背を、矢野は見送った。
 その姿は、どこまでも薄く、
 まるで人ではなく、“名もなき風”そのもののようだった。