第四十六話「最後の約束」
――その声は、もう聞こえない。けれど、確かにここにいた。
雪が降っていた。風はほとんど吹かず、空から舞い落ちる白は静かに地を覆っていく。あの丘の上、かつて焚火の灰が散り、白鞘が置かれた廃寺に、高山太一はひとり、膝をついていた。
かつて矢野蓮が白鞘を納めた、あの寺だ。当時の住職は亡くなり、跡継ぎもおらず、今は荒れ果てていた。
足跡はすぐに雪に埋もれる。背後の斜面には、まだ誰の踏み跡もなかった。つまりここに来た者は、今日、太一が初めてだった。
彼の掌には、一輪の小さな花があった。冬に咲くはずのないその花は、江藤親子が矢野蓮から引き継いだ温室で育てていたものを分けてもらったのだ。白い地面に、ひときわ控えめな黄色がひとつ――まるで、誰かに声をかけるように。
太一は、雪を押しのけて土を撫でた。石は置かれていない。ただ、剣を埋めた痕跡だけがある。そこにそっと、花を置いた。
「……俺はな、静。お前がいなくなってから、ずっと考えてた」
声はかすれ、けれど明確だった。沈黙に慣れた丘に、それはよく響いた。
「名もないまま、生きた意味を。戦を終えて、皆が帰って、それぞれの場所でそれぞれの名を持って生きて――それでもお前だけが、“何も持たずに”消えた。それで、よかったのかって、ずっと……」
自問のような問いだった。答えは風の中にすらない。だが矢野は、そういう問いを誰かに投げかけることでしか、前へ進めない日々を幾度も越えてきた。
「矢野はお前の遺志を守った。それはわかっていた。けどな、誰も異を唱えなかったら、本当にお前が……沖田静がいたことが幻になっちまいそうでな……それが俺は怖かったんだ……」
指先に、雪が降る。
掌に置いた小さな花の上にも、白が積もってゆく。けれど、太一はそれを払おうとはしなかった。ただ、じっとそれを見ていた。まるで、その花が雪の重みに耐えて咲きつづけるかを試すように。
「……でもな、最近、わかるようになったんだ。いや、違うな。思い出した、って言うほうが正しい」
雪を前にして語る声は、どこか少年のようだった。
「お前は、名を持たないことで、誰よりも多くの“場所”に残った。名を記されないからこそ、剣を持つ者の心に留まる。物語のように語られず、でも、どこかで誰かの呼吸のなかに混ざって、生きてる」
ふと、太一は背後を振り返った。
白い地面のなかに、二本の足跡がついていた。それは彼がここに来るときに残したものだが、そこには――なぜか、もう一対の、大きな足跡が横に並んでいた。
先ほどまでは、なかったはずのもの。
風の悪戯だろうか。もしくは、気づかぬうちに誰かが先にここへ来たのだろうか。だが、気配はなかった。音も、風もなかった。
「……矢野、お前も来てたんだな……」
そう言って、太一はそっと目を閉じた。
木の根元、かつて静が腰かけていた窪みに目を向ける。そこには、雪が薄く積もり、そして、ごくわずかに融けた痕跡があった。
人が、そこに座っていたかのような。
そういえば昨夜、夢を見た気がした。夜の山道を歩く白い背中。声をかけても、振り返らなかった。けれど、ただその背に向かって手を伸ばしたとき、こんな言葉が返ってきた。
――「あなたは、あなたの道を」
静かだった。悲しみでもなく、喜びでもない。まるで、最初から決まっていた別れのような、それでいて拒絶でもなく、ただ背中越しに告げられる理解だけが、そこにあった。
あの日、剣を持ったまま風に消えた背中は、もう現実のものではない。だが太一にとって、それは記憶のなかに在り続ける、現在進行形の存在だった。
(俺は――)
太一は改めてその場所に膝をつくと、彼の魂の眠る根元へ手を添えた。冷たい。けれど、それがどこか、懐かしかった。
「……矢野もな。晩年になって”最近ようやくあいつのことを語れるようになった”って言ってたんだ」
ふ、と笑みが漏れた。
「あの俺がなぁ。静。“死んでるかどうかもわからねえ奴を、祀ってやる義理なんてあるのか?” って、昔は思ってたくせにな」
あの戦から、矢野は道場の師範となった。彼から何人もの若者たちが剣を学び、彼自身が戦のない日々に身を置きながらも、彼は「剣を持つ理由」に戸惑っていた。
そのたびに、矢野蓮は語った。名もなき剣士のことを。名を記さぬことを望み、自らの“剣の在り方”を静かに選んだ男の話を。
「“誰かを守るために剣を抜いたわけじゃない。ただ、それが、自分であったからだ”ってよ。矢野のやつ、いっちょ前に語るんだ……まるで、静、お前さんが矢野のやつに乗り移ったかのようだったぞ……」
それは決して、英雄譚にはなり得ない。大義もなく、誉もなく、たったひとつの生き様だけがそこにある。
「それでも……それでも、俺は、あの日の戦でお前に助けられた。心を、命を、全部、支えてもらった」
沈黙が、再び辺りを包んだ。
遠く、梢の上に白い雪が降る。音もなく、風もなく、ただ重力に従って、地に落ちていく。
太一はその音なき舞いを見上げたまま、目を細めた。
「だから今日、お前に伝えに来た。ようやく、言葉にできるようになったから」
ぽつりと、小さな声で告げた。
「会えたな、静。おかえり。よく帰ってきたな」
言葉のあとに続くのは、ただ風の音だけだった。けれど、その風は、どこか優しかった。
太一は立ち上がると、背を向けて歩き出す。
振り返らない。今度はもう、追いかける背中はない。守る背中もない。
だが、足元に残るその足跡は、雪のなかに確かに“さんにん分”刻まれていた。
――最初に気づいたのは、太一ではなく、誰か別の者だった。次の物語は、もう太一の口から語られるものではない。
けれどそのときまで、白鞘は静かに、名を持たぬまま眠っていた。
――その声は、もう聞こえない。けれど、確かにここにいた。
雪が降っていた。風はほとんど吹かず、空から舞い落ちる白は静かに地を覆っていく。あの丘の上、かつて焚火の灰が散り、白鞘が置かれた廃寺に、高山太一はひとり、膝をついていた。
かつて矢野蓮が白鞘を納めた、あの寺だ。当時の住職は亡くなり、跡継ぎもおらず、今は荒れ果てていた。
足跡はすぐに雪に埋もれる。背後の斜面には、まだ誰の踏み跡もなかった。つまりここに来た者は、今日、太一が初めてだった。
彼の掌には、一輪の小さな花があった。冬に咲くはずのないその花は、江藤親子が矢野蓮から引き継いだ温室で育てていたものを分けてもらったのだ。白い地面に、ひときわ控えめな黄色がひとつ――まるで、誰かに声をかけるように。
太一は、雪を押しのけて土を撫でた。石は置かれていない。ただ、剣を埋めた痕跡だけがある。そこにそっと、花を置いた。
「……俺はな、静。お前がいなくなってから、ずっと考えてた」
声はかすれ、けれど明確だった。沈黙に慣れた丘に、それはよく響いた。
「名もないまま、生きた意味を。戦を終えて、皆が帰って、それぞれの場所でそれぞれの名を持って生きて――それでもお前だけが、“何も持たずに”消えた。それで、よかったのかって、ずっと……」
自問のような問いだった。答えは風の中にすらない。だが矢野は、そういう問いを誰かに投げかけることでしか、前へ進めない日々を幾度も越えてきた。
「矢野はお前の遺志を守った。それはわかっていた。けどな、誰も異を唱えなかったら、本当にお前が……沖田静がいたことが幻になっちまいそうでな……それが俺は怖かったんだ……」
指先に、雪が降る。
掌に置いた小さな花の上にも、白が積もってゆく。けれど、太一はそれを払おうとはしなかった。ただ、じっとそれを見ていた。まるで、その花が雪の重みに耐えて咲きつづけるかを試すように。
「……でもな、最近、わかるようになったんだ。いや、違うな。思い出した、って言うほうが正しい」
雪を前にして語る声は、どこか少年のようだった。
「お前は、名を持たないことで、誰よりも多くの“場所”に残った。名を記されないからこそ、剣を持つ者の心に留まる。物語のように語られず、でも、どこかで誰かの呼吸のなかに混ざって、生きてる」
ふと、太一は背後を振り返った。
白い地面のなかに、二本の足跡がついていた。それは彼がここに来るときに残したものだが、そこには――なぜか、もう一対の、大きな足跡が横に並んでいた。
先ほどまでは、なかったはずのもの。
風の悪戯だろうか。もしくは、気づかぬうちに誰かが先にここへ来たのだろうか。だが、気配はなかった。音も、風もなかった。
「……矢野、お前も来てたんだな……」
そう言って、太一はそっと目を閉じた。
木の根元、かつて静が腰かけていた窪みに目を向ける。そこには、雪が薄く積もり、そして、ごくわずかに融けた痕跡があった。
人が、そこに座っていたかのような。
そういえば昨夜、夢を見た気がした。夜の山道を歩く白い背中。声をかけても、振り返らなかった。けれど、ただその背に向かって手を伸ばしたとき、こんな言葉が返ってきた。
――「あなたは、あなたの道を」
静かだった。悲しみでもなく、喜びでもない。まるで、最初から決まっていた別れのような、それでいて拒絶でもなく、ただ背中越しに告げられる理解だけが、そこにあった。
あの日、剣を持ったまま風に消えた背中は、もう現実のものではない。だが太一にとって、それは記憶のなかに在り続ける、現在進行形の存在だった。
(俺は――)
太一は改めてその場所に膝をつくと、彼の魂の眠る根元へ手を添えた。冷たい。けれど、それがどこか、懐かしかった。
「……矢野もな。晩年になって”最近ようやくあいつのことを語れるようになった”って言ってたんだ」
ふ、と笑みが漏れた。
「あの俺がなぁ。静。“死んでるかどうかもわからねえ奴を、祀ってやる義理なんてあるのか?” って、昔は思ってたくせにな」
あの戦から、矢野は道場の師範となった。彼から何人もの若者たちが剣を学び、彼自身が戦のない日々に身を置きながらも、彼は「剣を持つ理由」に戸惑っていた。
そのたびに、矢野蓮は語った。名もなき剣士のことを。名を記さぬことを望み、自らの“剣の在り方”を静かに選んだ男の話を。
「“誰かを守るために剣を抜いたわけじゃない。ただ、それが、自分であったからだ”ってよ。矢野のやつ、いっちょ前に語るんだ……まるで、静、お前さんが矢野のやつに乗り移ったかのようだったぞ……」
それは決して、英雄譚にはなり得ない。大義もなく、誉もなく、たったひとつの生き様だけがそこにある。
「それでも……それでも、俺は、あの日の戦でお前に助けられた。心を、命を、全部、支えてもらった」
沈黙が、再び辺りを包んだ。
遠く、梢の上に白い雪が降る。音もなく、風もなく、ただ重力に従って、地に落ちていく。
太一はその音なき舞いを見上げたまま、目を細めた。
「だから今日、お前に伝えに来た。ようやく、言葉にできるようになったから」
ぽつりと、小さな声で告げた。
「会えたな、静。おかえり。よく帰ってきたな」
言葉のあとに続くのは、ただ風の音だけだった。けれど、その風は、どこか優しかった。
太一は立ち上がると、背を向けて歩き出す。
振り返らない。今度はもう、追いかける背中はない。守る背中もない。
だが、足元に残るその足跡は、雪のなかに確かに“さんにん分”刻まれていた。
――最初に気づいたのは、太一ではなく、誰か別の者だった。次の物語は、もう太一の口から語られるものではない。
けれどそのときまで、白鞘は静かに、名を持たぬまま眠っていた。



