第四十三話「白き面影」
冬が深まるにつれ、桶狭間の名は再び人々の口の端に上るようになった。血に塗れたその戦の名ではなく、戦場をさまよう“白き影”として。
最初に噂が立ったのは、村の炭焼きが語った話だった。夜明け前の山道、雪を踏まずに通ったような白装束の者がいたという。振り返るとそこには誰もおらず、だが雪の上には、片足だけの足跡が残っていたのだと。
「ありゃあ人じゃねえ。風だ」
そう言って炭焼きは肩をすくめ、囲炉裏の火に手をかざした。隣でそれを聞いていた子どもは、まるで物語を聞くように目を輝かせていた。
別の日には、旅の僧がこんな話をした。
「夜の峠を越えようとしておったのです。すると、谷間の向こうから剣戟の音が聞こえましてな……。月もない闇の中で、火花のような閃きが、ひとつ、ふたつ。だが、音はすれども姿はなし。まるで、亡霊の稽古でも見たような心地でした」
誰もが“それ”の姿を見たとは言わない。だが、気配があった。音がした。風が逆巻き、木々の影がざわめき、誰かがそこにいたような錯覚が残る――そんな、“記憶の亡霊”のような存在が、いつの間にか“白装束の鬼神”と呼ばれるようになっていた。
矢野蓮の耳にも、その噂は届いていた。
ある晩、太一がふと漏らした。
「なあ、矢野。知ってるか? 最近、村の連中が“白装束の亡霊”の話ばっかしてやがる。まるで、また戦が始まるんじゃねえかって雰囲気だ」
矢野は手元の湯呑みを見つめたまま、黙っていた。
あの頃は大槍を振り回していた腕ももう、湯呑みを持ちあげるのもままならない。
こうして身体を起こしておくのも一苦労だ。
軋む両手でゆっくりと湯呑みを口に運び、ひとくち飲んでから、矢野は言った。
「もう、あいつを戦から解放してやれ」
太一は鼻を鳴らした。
「相変わらずだな、お前は。あいつが生きてりゃ、今ごろどこかで新しい名前でも名乗って、剣の道でも説いてるかもしれねぇなって、俺は思っちまうよ」
その言葉に、矢野はかすかに眉を動かしたが、返事はしなかった。
――“さまよう”とは、“帰る場所がない”ということか?
数日前、矢野はふと口にしたその言葉を、今また胸の内で繰り返す。
沖田静という男は、名を捨て、記録を拒み、誰にも知れぬように消えた。自らが生きた証を、この世に残すことを望まなかった。
それは、彼にとっての“赦し”だったのか。それとも、“罰”だったのか。
夜が更け、風が軒を叩いた。外には雪が舞い始めている。まるで、あの夜のように。
※
その翌日、矢野は弟子であるあの若き剣士――江藤忠邦の手を借りて、旧戦地の外れ――かつて静と夜を明かしたあの丘へと足を運んだ。もうひとりで長くを歩くことは不可能だった。
冬の山道は、陽が高いうちから薄暗い。背の高い木々が積もり始めた雪を受け止め、枝からしんしんと零れ落ちるたび、遠くで何かが歩いたような錯覚を呼び起こす。
音が少ない分、気配ばかりが際立つ。
山裾から風が這い上がってくるたび、矢野の背中にかすかな冷たさが這った。足音が雪に沈み、言葉が喉に引っかかった。何かを言えば、白い息がそのまま“誰か”を呼び寄せてしまいそうで、口を閉じたまま歩を進める。
「ここでいい」
矢野は案ずる若者の手をそっと離し、杖をついて歩き出した。
やがて、見慣れた木の根元が視界に入った。
あの日、彼が植えた一本の若木は、今では立派に幹を伸ばしていた。葉を落とし、裸の枝だけを天に向けていたが、その姿には不思議な凛とした佇まいがあった。
その根元に、誰かが立っていたような気がした。
見間違いか。あるいは……風に揺れる枝の陰が、かつての白装束の輪郭を映し出しただけか。
それでも矢野は、足を止めた。
「――静」
誰の耳にも届かぬような声で、ぽつりと名を呼んでみた。
「今日はな、別れを告げにきた」
返事はなかった。ただ、雪が一枚、彼の肩に落ちただけだった。
それでも、矢野の胸には確かに、誰かの気配が残った。
かつて、戦場で何度となく背中合わせに立ったあのときの感覚。
風が、枝を揺らす音。
雪が、誰かの足跡を隠していく気配。
それらすべてが、言葉をもたないまま、彼に語りかけてくる。
“まだ、ここにいるよ”
そんな錯覚のような、祈りのような――。
矢野は膝を折り、そっと地面に手を触れた。
冷たい霜が指先を刺したが、それもまた、生の証に思えた。
「……ここに来るのは、もう最後になるだろうからな」
矢野は目尻に皺を寄せて地面を撫でる。
その手は何よりやさしかった。
「すぐ、そっちへ行くだろうから。短い別れになるだろうよ」
そう呟くと、雪がもう一枚、矢野の掌に舞い降りた。
彼はそのまま、しばらく動かなかった。
風が、止むまで。
※
風が止み、辺りに沈黙が満ちていくと、矢野はゆっくりと立ち上がった。
白い世界のなかで、自分の立つ足元だけが濡れている。雪がそこだけ、少し早く解けていた。まるで、誰かが先にそこにいた痕のように。
「……やっぱり、幻じゃなかったのかもしれんな」
誰に言うでもないひとことをこぼすと、矢野は着物の懐から、石を三つ取り出した。
それはあの日、太一と拾った小石――。
矢野はそれをそっと木の根元に置いた。
「返しに来た」
声は、かすれていた。
「お前はもう、“斬るための剣”じゃない。……いや、きっと最初から、そうじゃなかったんだよな」
長い時間をかけて、矢野はそのことに気づいた。
あの日、剣を持って、誰よりも多くの命を奪いながら、それでも最後の最後に、剣を置いて去った男のことを思う。
己の名を拒み、功績を拒み、ただ“剣”であることすら捨てようとした男。
その姿は、鬼ではなかった。
人でもなかった。
祈るようにして刃を抜き、祈るようにして斬り、そして祈るようにして消えていった。
「……ありがとうな」
矢野はそう言って、深く頭を下げた。
枝の上で、雪が小さく鳴って崩れ落ちる音がした。
それは返事ではなかった。
だが、充分だった。
矢野はゆっくりと踵を返し、ふたたび雪道へと歩を戻した。
振り返らなかった。
そこに白い影が立っているような気がしても、それを確かめようとはしなかった。
それが――“静を思う”ということの作法のような気がしたからだ。
風が再び吹き始め、枝の揺れる音が遠ざかる。
ひとりの剣士の名を知らぬまま、雪がまた世界を包み始めていた。
冬が深まるにつれ、桶狭間の名は再び人々の口の端に上るようになった。血に塗れたその戦の名ではなく、戦場をさまよう“白き影”として。
最初に噂が立ったのは、村の炭焼きが語った話だった。夜明け前の山道、雪を踏まずに通ったような白装束の者がいたという。振り返るとそこには誰もおらず、だが雪の上には、片足だけの足跡が残っていたのだと。
「ありゃあ人じゃねえ。風だ」
そう言って炭焼きは肩をすくめ、囲炉裏の火に手をかざした。隣でそれを聞いていた子どもは、まるで物語を聞くように目を輝かせていた。
別の日には、旅の僧がこんな話をした。
「夜の峠を越えようとしておったのです。すると、谷間の向こうから剣戟の音が聞こえましてな……。月もない闇の中で、火花のような閃きが、ひとつ、ふたつ。だが、音はすれども姿はなし。まるで、亡霊の稽古でも見たような心地でした」
誰もが“それ”の姿を見たとは言わない。だが、気配があった。音がした。風が逆巻き、木々の影がざわめき、誰かがそこにいたような錯覚が残る――そんな、“記憶の亡霊”のような存在が、いつの間にか“白装束の鬼神”と呼ばれるようになっていた。
矢野蓮の耳にも、その噂は届いていた。
ある晩、太一がふと漏らした。
「なあ、矢野。知ってるか? 最近、村の連中が“白装束の亡霊”の話ばっかしてやがる。まるで、また戦が始まるんじゃねえかって雰囲気だ」
矢野は手元の湯呑みを見つめたまま、黙っていた。
あの頃は大槍を振り回していた腕ももう、湯呑みを持ちあげるのもままならない。
こうして身体を起こしておくのも一苦労だ。
軋む両手でゆっくりと湯呑みを口に運び、ひとくち飲んでから、矢野は言った。
「もう、あいつを戦から解放してやれ」
太一は鼻を鳴らした。
「相変わらずだな、お前は。あいつが生きてりゃ、今ごろどこかで新しい名前でも名乗って、剣の道でも説いてるかもしれねぇなって、俺は思っちまうよ」
その言葉に、矢野はかすかに眉を動かしたが、返事はしなかった。
――“さまよう”とは、“帰る場所がない”ということか?
数日前、矢野はふと口にしたその言葉を、今また胸の内で繰り返す。
沖田静という男は、名を捨て、記録を拒み、誰にも知れぬように消えた。自らが生きた証を、この世に残すことを望まなかった。
それは、彼にとっての“赦し”だったのか。それとも、“罰”だったのか。
夜が更け、風が軒を叩いた。外には雪が舞い始めている。まるで、あの夜のように。
※
その翌日、矢野は弟子であるあの若き剣士――江藤忠邦の手を借りて、旧戦地の外れ――かつて静と夜を明かしたあの丘へと足を運んだ。もうひとりで長くを歩くことは不可能だった。
冬の山道は、陽が高いうちから薄暗い。背の高い木々が積もり始めた雪を受け止め、枝からしんしんと零れ落ちるたび、遠くで何かが歩いたような錯覚を呼び起こす。
音が少ない分、気配ばかりが際立つ。
山裾から風が這い上がってくるたび、矢野の背中にかすかな冷たさが這った。足音が雪に沈み、言葉が喉に引っかかった。何かを言えば、白い息がそのまま“誰か”を呼び寄せてしまいそうで、口を閉じたまま歩を進める。
「ここでいい」
矢野は案ずる若者の手をそっと離し、杖をついて歩き出した。
やがて、見慣れた木の根元が視界に入った。
あの日、彼が植えた一本の若木は、今では立派に幹を伸ばしていた。葉を落とし、裸の枝だけを天に向けていたが、その姿には不思議な凛とした佇まいがあった。
その根元に、誰かが立っていたような気がした。
見間違いか。あるいは……風に揺れる枝の陰が、かつての白装束の輪郭を映し出しただけか。
それでも矢野は、足を止めた。
「――静」
誰の耳にも届かぬような声で、ぽつりと名を呼んでみた。
「今日はな、別れを告げにきた」
返事はなかった。ただ、雪が一枚、彼の肩に落ちただけだった。
それでも、矢野の胸には確かに、誰かの気配が残った。
かつて、戦場で何度となく背中合わせに立ったあのときの感覚。
風が、枝を揺らす音。
雪が、誰かの足跡を隠していく気配。
それらすべてが、言葉をもたないまま、彼に語りかけてくる。
“まだ、ここにいるよ”
そんな錯覚のような、祈りのような――。
矢野は膝を折り、そっと地面に手を触れた。
冷たい霜が指先を刺したが、それもまた、生の証に思えた。
「……ここに来るのは、もう最後になるだろうからな」
矢野は目尻に皺を寄せて地面を撫でる。
その手は何よりやさしかった。
「すぐ、そっちへ行くだろうから。短い別れになるだろうよ」
そう呟くと、雪がもう一枚、矢野の掌に舞い降りた。
彼はそのまま、しばらく動かなかった。
風が、止むまで。
※
風が止み、辺りに沈黙が満ちていくと、矢野はゆっくりと立ち上がった。
白い世界のなかで、自分の立つ足元だけが濡れている。雪がそこだけ、少し早く解けていた。まるで、誰かが先にそこにいた痕のように。
「……やっぱり、幻じゃなかったのかもしれんな」
誰に言うでもないひとことをこぼすと、矢野は着物の懐から、石を三つ取り出した。
それはあの日、太一と拾った小石――。
矢野はそれをそっと木の根元に置いた。
「返しに来た」
声は、かすれていた。
「お前はもう、“斬るための剣”じゃない。……いや、きっと最初から、そうじゃなかったんだよな」
長い時間をかけて、矢野はそのことに気づいた。
あの日、剣を持って、誰よりも多くの命を奪いながら、それでも最後の最後に、剣を置いて去った男のことを思う。
己の名を拒み、功績を拒み、ただ“剣”であることすら捨てようとした男。
その姿は、鬼ではなかった。
人でもなかった。
祈るようにして刃を抜き、祈るようにして斬り、そして祈るようにして消えていった。
「……ありがとうな」
矢野はそう言って、深く頭を下げた。
枝の上で、雪が小さく鳴って崩れ落ちる音がした。
それは返事ではなかった。
だが、充分だった。
矢野はゆっくりと踵を返し、ふたたび雪道へと歩を戻した。
振り返らなかった。
そこに白い影が立っているような気がしても、それを確かめようとはしなかった。
それが――“静を思う”ということの作法のような気がしたからだ。
風が再び吹き始め、枝の揺れる音が遠ざかる。
ひとりの剣士の名を知らぬまま、雪がまた世界を包み始めていた。



