第四十二話「祈りの跡」
静かなる寺の朝。
春の薄氷がまだ残る境内には、朝もやが漂っていた。禅堂の辺りでは、細やかな鐘の音がひそやかに揺れて、薄明の光と溶け合っている。
矢野蓮は、その寺の小道をひとり歩いていた。
腰には白い布包みを携え、中には名も知らぬ白鞘が収められていた。
かつて手に握りしめていた剣。
終わらぬ戦の夜に抱えていた“名なき希望”。
戦が終わって何年かを経た今、彼はその剣を、誰にも話さず、誰にも渡さず、ただここに置くと決めたのだった。
※
僧堂を抜けて、小さな祠へと続く石畳を進む。
左右には苔むした石仏が並び、春の露が花びらの縁を濡らし、杖を突くたびに金のわすれなぐさが踏まれる。
揚げた袈裟を纏う若い住職が、ふいに蓮に気づいた。
穏やかな眼差しで、ゆっくりと近づいてくる。
「矢野殿。ようこそいらしてくださいました」
礼を述べられたが、蓮は微笑を返し、その仕草だけで胸を整えた。
住職は、そっと一礼。
「こちらへ……どうぞ」
※
短い参道を進むと、小さな祠があった。
木造の、隅に狭い空間が囲われているだけの場所だったが、そこには静謐な祈りの気配があった。
蓮は布包みから二本の白鞘を取り出し、祠の奥の木箱に丁寧に納めた。
外には何も書かれていない。ただ、ひっそりと立つ箱の中に、名も刻まれていない古びた剣がある。
住職は静かに寄り添い、蓮の立つ影を遠巻きに見守っていた。
「これは……」
住職の声が柔らかく響いた。「どなたの剣でしょうか?」
その問いかけに、蓮は言葉を選びつつ答えた。
「……誰のものかは、わかりません。記録にも記されず、名前もない剣です」
住職は納得し、息を吐いた。
「ならば、どなたのためでもないのですね」
蓮は、軽く恩寵を感じたように頷いた。
「そうです。ただ、“祈りだけがこもっている”剣です」
※
住職は蓮の横顔をじっと見つめ、こう言った。
「この剣には、怨もなければ執もございませぬ。ただ――祈りだけがこもっておりますな」
その言葉が、不思議なほど確かなものに響いた。
蓮は息を止め、しばし唇をかすかに動かした。
「なら、間違ってなかった」
彼はそう呟き、初めて穏やかに笑った。
※
春の午後。少しずつ陽が傾いていく中、誰もいない祠には風が吹き、花びらがひとひら舞った。
その花は、春の季節ごとに自然と咲く、小さな白い山茶花だった。
誰が植えたのではない。だが、その剣が置かれた場所に、誰かが花を添えれば、それが祈りとなって祠を包んだ。
季節は移ろい、木々は葉を伸ばし、秋にはその祠が木漏れ日にかがやき、冬には雪に覆われた。
誰も剣の名を問わない。ただ、訪れた者はそっと手を合わせた。
「ありがとう」と。
言葉にせずとも、心の奥で、誰かが口にするその想いは、静かに存在していた。
※
蓮は雨を前に、祠を最後に見つめる。
住職も、離れた場所で膝をつき、剣に手を合わせている。
「名を持たなかった者ほど、人のために生き、言葉では残らなかったけれど、祈りを残したのでしょう」
住職の背中から、その言葉が静かな風とともに伝わってきた。
※
数年後。
その祠は、地域の人々の“記憶の場所”となった。
旅人が立ち寄り、剣の存在の痕跡を感じ取り、村人が訪れて花を添える。
誰も、剣の名を語らなかった。
しかし、誰もが「ありがとう」といいながら手を合わせていた。
それが、名も記録にも残らない剣の、最後の祈りだった。
※
夜。祠の前で、風が乾いた葉を鳴らす。
風の中に、かすかな声がある気がした。聞き間違いかもしれない。
けれど、祈った者の心の中には、確かに聞こえていた。
「ありがとう。さようなら」——そして。
「あなたは、あなたの道を」
※
蓮は遠くを見つめ、瞳を閉じた。
小さな祠の前に立つ小さな剣。名はないが、祈りはあった。
それで、よかった。
蓮はそっと脇腹をさする。そこには大きな病巣がある。
もう長くはないと医師に言われて、数か月が経った。
蓮の記憶の中から、静を解放する日が近い。
大地に、空に、風となり還った静の白い影を蓮は見た気がした。
静かなる寺の朝。
春の薄氷がまだ残る境内には、朝もやが漂っていた。禅堂の辺りでは、細やかな鐘の音がひそやかに揺れて、薄明の光と溶け合っている。
矢野蓮は、その寺の小道をひとり歩いていた。
腰には白い布包みを携え、中には名も知らぬ白鞘が収められていた。
かつて手に握りしめていた剣。
終わらぬ戦の夜に抱えていた“名なき希望”。
戦が終わって何年かを経た今、彼はその剣を、誰にも話さず、誰にも渡さず、ただここに置くと決めたのだった。
※
僧堂を抜けて、小さな祠へと続く石畳を進む。
左右には苔むした石仏が並び、春の露が花びらの縁を濡らし、杖を突くたびに金のわすれなぐさが踏まれる。
揚げた袈裟を纏う若い住職が、ふいに蓮に気づいた。
穏やかな眼差しで、ゆっくりと近づいてくる。
「矢野殿。ようこそいらしてくださいました」
礼を述べられたが、蓮は微笑を返し、その仕草だけで胸を整えた。
住職は、そっと一礼。
「こちらへ……どうぞ」
※
短い参道を進むと、小さな祠があった。
木造の、隅に狭い空間が囲われているだけの場所だったが、そこには静謐な祈りの気配があった。
蓮は布包みから二本の白鞘を取り出し、祠の奥の木箱に丁寧に納めた。
外には何も書かれていない。ただ、ひっそりと立つ箱の中に、名も刻まれていない古びた剣がある。
住職は静かに寄り添い、蓮の立つ影を遠巻きに見守っていた。
「これは……」
住職の声が柔らかく響いた。「どなたの剣でしょうか?」
その問いかけに、蓮は言葉を選びつつ答えた。
「……誰のものかは、わかりません。記録にも記されず、名前もない剣です」
住職は納得し、息を吐いた。
「ならば、どなたのためでもないのですね」
蓮は、軽く恩寵を感じたように頷いた。
「そうです。ただ、“祈りだけがこもっている”剣です」
※
住職は蓮の横顔をじっと見つめ、こう言った。
「この剣には、怨もなければ執もございませぬ。ただ――祈りだけがこもっておりますな」
その言葉が、不思議なほど確かなものに響いた。
蓮は息を止め、しばし唇をかすかに動かした。
「なら、間違ってなかった」
彼はそう呟き、初めて穏やかに笑った。
※
春の午後。少しずつ陽が傾いていく中、誰もいない祠には風が吹き、花びらがひとひら舞った。
その花は、春の季節ごとに自然と咲く、小さな白い山茶花だった。
誰が植えたのではない。だが、その剣が置かれた場所に、誰かが花を添えれば、それが祈りとなって祠を包んだ。
季節は移ろい、木々は葉を伸ばし、秋にはその祠が木漏れ日にかがやき、冬には雪に覆われた。
誰も剣の名を問わない。ただ、訪れた者はそっと手を合わせた。
「ありがとう」と。
言葉にせずとも、心の奥で、誰かが口にするその想いは、静かに存在していた。
※
蓮は雨を前に、祠を最後に見つめる。
住職も、離れた場所で膝をつき、剣に手を合わせている。
「名を持たなかった者ほど、人のために生き、言葉では残らなかったけれど、祈りを残したのでしょう」
住職の背中から、その言葉が静かな風とともに伝わってきた。
※
数年後。
その祠は、地域の人々の“記憶の場所”となった。
旅人が立ち寄り、剣の存在の痕跡を感じ取り、村人が訪れて花を添える。
誰も、剣の名を語らなかった。
しかし、誰もが「ありがとう」といいながら手を合わせていた。
それが、名も記録にも残らない剣の、最後の祈りだった。
※
夜。祠の前で、風が乾いた葉を鳴らす。
風の中に、かすかな声がある気がした。聞き間違いかもしれない。
けれど、祈った者の心の中には、確かに聞こえていた。
「ありがとう。さようなら」——そして。
「あなたは、あなたの道を」
※
蓮は遠くを見つめ、瞳を閉じた。
小さな祠の前に立つ小さな剣。名はないが、祈りはあった。
それで、よかった。
蓮はそっと脇腹をさする。そこには大きな病巣がある。
もう長くはないと医師に言われて、数か月が経った。
蓮の記憶の中から、静を解放する日が近い。
大地に、空に、風となり還った静の白い影を蓮は見た気がした。



