名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第四十話「誰が語るべきか」

 二十年。時が経ちすぎたのか、それとも、まだ十分ではなかったのか。
 矢野蓮がそれほど長く、“名なき剣士”について語らずにいた年月である。
 戦が終わって、しばらく後、彼はあの丘に木を植えた。そこには記録も碑文もなく、ただ風が通るのみだった。
 あれから四十を過ぎた今も、庭先で妻が野菜を育て、子が山里の道を走っているなか、蓮はひっそりとした暮らしを続けていた。
 その日、彼は村の小さな道場を訪れていた。紋の入った袴姿の若い兵たちが、型を稽古している。
 その一角に、ひとりの新参者がいた。近畿から来た若い兵卒で、武の道を志して足を踏み入れたという。
「矢野様……あの剣士の話、本当ですか?」
 声は震えていた。
 剣を握りながら彼は立ち止まり、蓮の袴の裾を軽く掴む。
 誰もが“伝説”として知る白装束の剣士の噂。若者の瞳には、確かな真実を求める光が浮かんでいた。
 蓮は、黙ったまま目線をそらした。
 語れば、「伝説」になる。
 黙れば、「忘れられる」。
 どちらも、沖田静の本意ではなかった気がした。一介の剣士ではなく、一人の人間だったはずだと――その間を、どう埋めればいいのか。
 帳場でも、太一と語らうこともなくなって久しい。彼もまた、談話などしない坊主になっていた。
 二人の間には、長い沈黙が続いていた。
 だがその若い兵の問いかけは、蓮の胸の奥を揺らした。
 ――語るのは、名ではない。
 語るべきは、剣を握る理由だ。
 蓮はゆっくりと息を吐いた。時間が止まったように、剣士たちの稽古の音が遠ざかった。
「……あれは、私の物語ではない」
 蓮は静かに語り始めた。不思議と、声は震えなかった。
「名も、流派も、記録にも残らぬ剣士の話をするということは、その者の意志に背くことなのかもしれない。だが——」
 胸に抱えた手を強く握りしめ、続けた。
「語るべきは、どこで、なぜ、剣を振ろうとしたのか。名を捨てた理由、記録に背を向けた覚悟……それらを、自分の言葉として伝えることこそ、尊いのだ」
 若い剣士の目に、初めて理解の光が浮かんだ。その横顔に、怯えだけでなく、何か柔らかな決意が芽生えているように見えた。
「教えてください。その剣士のことを」
 蓮は振り返らず、道場の奥へ進んだ。剣を構える若者たちの列のなかで、ひとりの剣先が揺れた。
 斬ったのか。
 救ったのか。
 一つの刀が、ある者には正義を、ある者には祈りを示した。
 蓮は遠くに立ち、その刃筋を目で追うように見つめた。
 その夜、蓮はその若い兵を呼び止め、紙と筆を向けた。
「書くか? 私が語った記憶を」
 若き剣士は戸惑ったが、蓮は微笑んだ。
「記憶は、風聞よりも確かなものだ。そこに真実が生きている――」
 その筆記は、やがて村の道場に小さな記録として残るかもしれない。
 しかしそれは、歴史を変えるほどのものではなく、誰かの心に火を灯す“種”のようなものだった。
 村の泉に刻まれる碑ではない。
 むしろ、小さな冊子、あるいは口伝として代々に届くかもしれない。
 語られるのは、名ではない。
 剣を握る理由。
 命と剣を前にしたとき、なぜ斬るのか、なぜ斬らないのか。
 その選択と覚悟こそが、語るに値するものだった。
 若い兵は墨を含み、初めて自分の思いでその剣士の物語を書き始めた。
 書くことが許されるのは、名を語らぬ者を理解しようとした者だけだった。
 そして蓮は、道場を出て丘へと帰った。
 長い影の先には、あの木がある。風に揺れるその幹と葉影が、静と太一と、剣と誓いを記憶の中に灯していた。
 誰が語るべきか──
 それは、剣士自身ではない。
 だが、語る価値は、確かに残されていた。
 剣を握る者たちよ。
 語る者たちよ。
 聞く者たちよ。
 心ある者ならば、名ではなく、その覚悟を語ってほしい。
 それこそが、名を持たぬ剣に与えられた、もう一つの“剣の行き場所”だと、矢野蓮は信じた。