名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第三十七話「風聞」

 戦が終わって二年が過ぎた。
 桶狭間という地名は、尾張の内外でゆっくりと重みを増していた。
 織田信長の名は戦の勝者として響き渡り、彼に従った武将たちの名もまた、褒めそやされることが多くなった。
 それは勝者の時代が始まったことを告げる風だった。
 けれど、そこには記録されぬ名もあった。
 戦を語る声のなかに、ときおり混じるのは――「白装束の剣士」の話だった。
 どこにも記されず、誰もその名を知らない。
 けれど、“そういう者がいた”という噂だけは、風のように各地に残っていた。
   ※
 ある農村の夕刻。
 年端もゆかぬ子らが、納屋の隅でこそこそと何かを語っていた。
「ほんとうにいたんだってば」
「どこに?」
「南の山ん中。おじが戦のあとで通ったとき、見たんだよ。白い着物着て、剣を抜いてないのに、敵が逃げてったって」
「うそだあ」
「ほんとだって! 目が光っててな、“近づくな”って風が言ってたって」
 その声に、近くで干し藁を束ねていた女房が、くすりと笑った。
「また“白い剣士”の話かい。あんたたち、好きだねえ」
「だって、かっこいいんだもん」
「おっかないのに、やさしそうなんだ」
「でもさ、なんで名前がねえんだ?」
 誰も答えられなかった。
 けれど、誰も“嘘だ”とは言わなかった。
 ――そこにあったのは、根拠のない話ではなく、“信じたくなる何か”だった。
   ※
 太一は、その噂を野戦病院で聞いた。
 風邪の蔓延で寝床が足りなくなったため、古寺を一時的な療養所にしているところだった。
 彼は食料や薬の配給の手伝いをしていたが、その合間に兵たちが語る声が耳に入った。
「……そいつが出てきたのは、夜だったな。雨がしとしと降っててさ。目を開けると、焚火の向こうに白い人影が立ってた」
「そいつが斬ってきたのか?」
「いや。斬らねぇんだよ。それが妙だった。火の向こうからこっちを見て、なんにも言わずに、ただ立っててさ」
「怖えな、それ」
「でもな……怖くなかったんだ。不思議だけど、あのときだけは、誰も剣を抜かなかった。向こうも抜かなかった。で、いつのまにか、雨といっしょに消えてた」
「なんだよそれ、夢みてたんじゃねえのか?」
「かもな。でも、……それでも、俺は“助かった”って思ってるんだ」
 太一は、片手に布包みを持ったまま、話の輪に加わることはなかった。
 ただ、柱の陰で静かに耳を澄ましていた。
 聞き終えると、ゆっくりと寺の裏手に回り、空を見上げた。
 そこには雨もなく、風もなかった。
 けれど、ひとつの感情が胸に満ちていた。
「……それでいい」
 小さく、太一は呟いた。
 静が何を願ったのか、太一は知っている。
 名を残さぬこと、語られぬこと――だが、それは“誰の心にも残らない”ということではなかった。
 語られぬことで、むしろ“心に残るもの”もある。
 それが、あの男の選んだ“生き方”だったのだ。
   ※
 矢野蓮もまた、町に出た折、酒場の隅でその話を耳にした。
「……白い剣士が、戦の最中に橋を守ってたって話、知ってるか」
「なんだそれ、知らねえ」
「敵も味方も、その橋に近づけなかったってんだ。斬ったわけでもねえのに、皆が立ち止まった。で、戦が終わったら、姿が消えてたってよ」
「名は?」
「誰も知らねぇ。たぶん“風”だったんだよ、あれは」
「風ねぇ……」
 話の輪の中に、蓮は加わらなかった。
 だが、その夜はひときわ酒の味が沁みた。
 語られぬはずの剣士が、こうして声に出されている。
 それは、矢野にとって“名を刻まれること”よりもずっと重いものだった。
 名を持たぬ者が、名を問われぬままに語られていく。
 それは不思議な“風聞”だった。
 だがそこには、確かに“静”の面影があった。
   ※
 夏の終わり。
 風がようやく柔らかくなった頃。
 矢野は、久々に白鞘を手にしていた。
 包みに入れたまま、触れずにいたそれを、ひさしぶりに磨いた。
 剣のことを誰かに話すことはない。
 けれど、話されていることを知っている。
 町でも、野でも、僧侶の説法でも、子どもの遊び歌でも――“白い剣士”の話は、生きている。
 そして、誰も名を訊かない。
 誰も「それは誰だ」とは問わない。
 ――それでいい、と、蓮は思う。
 誰かが“名を忘れる”ことでしか、救われない魂もある。
 あの男が最後に残したものは、“名ではない生き方”だった。
   ※
 月が昇る夜、蓮はふと、丘の上に立っていた。
 昔、静と焚火を囲んだあの場所。
 今では木が一本、細く伸びている。
 風が吹いた。
 その音は、枝を渡り、葉を揺らし、遠くへと消えていく。
 それはどこか、“声”のようだった。
 名のない声。
 記録に残らない声。
 だが、誰かの心に残り続ける、風のような囁き。
 蓮は、白鞘を前に置いて、黙って一礼した。
 “名を持たぬ剣”は、今もどこかで、人の記憶を歩いている。