第三十五話「名を持たぬ剣」
その剣に名前はなかった。
名を呼ばれることもなければ、所有者として誰かの記録に刻まれることもなかった。
ただひとつの白鞘。
漆も金も施されていない、ごく簡素な木の鞘に包まれたそれは、矢野蓮の懐のなかで、昼も夜も沈黙を保ち続けていた。
抜くことはなかった。
触れるときは、いつも布越しだった。
語るときは、「預かりものだ」としか言わなかった。
戦後の報告書にその刀の記述はなく、誰ひとり“それが誰のものか”を問う者もなかった。
あの男――沖田静が、記録されないことを選んだように。
蓮もまた、その剣に名を与えようとはしなかった。
※
ある夜、風が強かった。
あの戦から、一年が過ぎた。
夏の名残が地表に貼りついていたが、空気はどこか尖っていて、焚火の炎も揺れがちだった。
矢野と太一は、風除けの布の向こうに腰を下ろしていた。
太一は飯盒から焦げた米粒をつついている。蓮は、白鞘を膝に乗せ、磨いていた。
「なあ、蓮」
ふいに太一が言った。
目は火を見たまま、声だけがこちらに向いていた。
「それ……お前のもんにしないのか?」
蓮は手を止めることなく、答えた。
「しない」
「そっか」
太一はそれだけ言って、飯盒にまた匙を入れた。
蓮はしばらく沈黙していたが、やがて鞘の先を指でなぞるようにして言った。
「これは、持ち主が戻ってくるまでの“仮の居場所”だ」
「……仮、ね。そうだったな」
太一が口角だけで笑った。
「ま、俺も嫌いじゃねぇよ、そういう“仮”ってやつ」
※
戦が終わったとはいえ、蓮たちの周囲は落ち着かない日々が続いていた。
勝ち戦の後始末、褒賞の配分、次なる命令の布石――戦に関わる者は、常に“次”を見て動かねばならなかった。
だが、蓮はあえて“次”を持たなかった。
それは怠慢でも抗いでもない。ただ、“今”を抱えるには、それ以外の選択がなかった。
白鞘を持ち歩いていることについて、軍の者から咎められることはなかった。
幾人かが「それ、どこの刀だ?」と尋ねたが、蓮は首を横に振るだけだった。
「預かりものだ」
それが、唯一の応答だった。
それ以上を聞く者は、いなかった。
あるいは、蓮の目の奥にある何かが、“これ以上踏み込むな”と語っていたのかもしれない。
※
ある日の午後、太一が焚火のそばで、刀を研いでいた。
蓮は、その傍らで白鞘を抱えたまま、うとうとしていた。
「蓮」
「……ん」
「やっぱ、そいつは“名を持たない”ままにしとくんだよな」
「ああ」
「名をつけてやるとか、しないのか」
「しない」
「それも、静の望みだからか?」
蓮は目を閉じたまま、答えた。
「半分な。……あと半分は俺の望みでもある」
「ふうん」
太一は火に薪をくべた。
「なんか、それって、妙にやさしいよな」
蓮は、少しだけ目を開けた。
揺れる火の向こうに、太一がいた。
彼は剣を横に置きながら、続けた。
「誰のでもないままにしておくってことはさ、あいつを“誰の記憶にも縛らない”ってことだろ?」
「……そうかもしれないな」
「それって、なんか……生きてる人間には難しいことだよな」
「……」
蓮は黙った。
白鞘を両手で抱え、かすかに額を触れた。
誰のものでもないということ。
誰かのものになる可能性を残しておくこと。
それは、所有ではなく、“赦し”に近い。
※
その夜、蓮は眠れなかった。
焚火はすでに消えかけ、周囲にはわずかな虫の声があるばかり。
寝返りを打った太一が、時折微かに唸る。
蓮は、そっと白鞘を手にとった。
重さは変わらないはずなのに、いつもと違う感覚があった。
この剣は、静の手を離れてから、何も斬っていない。
ただ、そこにあるだけだった。
だが、それでも――
「……生きている」
声に出したつもりはなかった。
けれど、夜の闇が、それを拾ったような気がした。
誰にも触れられず、誰にも名を呼ばれないまま。
それでも、“ここに在る”ということが、何よりの証だった。
矢野蓮にとって、この剣はもはや武具ではない。
祈りでも、記憶でも、言葉でもなく、“そのままの静”だった。
※
翌朝、太一が言った。
「預かりものってさ、返せなかったとき、どうするんだろな」
蓮は、少しだけ考えてから答えた。
「返せないなら、持ち続けるしかない」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「それ、つらくねぇか?」
「……つらいな。けど、それが生き残った者の役目だ」
太一は苦笑した。
「お前、昔からそういうとこ変わんねぇよな」
だが、そこには責めるような響きはなかった。
むしろ、それが“矢野蓮という男”だと、太一はよくわかっていた。
誰のものでもない剣。
それを持ち続けるということは、“名前なき者の想い”を抱え続けること。
名を刻むことよりもずっと重く、ずっと孤独で、ずっと誠実な選択だった。
※
その夜、蓮は白鞘を抱いて、野の風のなかに立った。
天幕の外、星が静かに瞬いていた。
風が頬を撫でる。
その風の中に、かすかな声がある気がした。
――「僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください」
蓮は、剣を胸に抱きしめた。
「……残さない。だからこそ、お前は、まだここにいる」
その剣に名前はなかった。
名を呼ばれることもなければ、所有者として誰かの記録に刻まれることもなかった。
ただひとつの白鞘。
漆も金も施されていない、ごく簡素な木の鞘に包まれたそれは、矢野蓮の懐のなかで、昼も夜も沈黙を保ち続けていた。
抜くことはなかった。
触れるときは、いつも布越しだった。
語るときは、「預かりものだ」としか言わなかった。
戦後の報告書にその刀の記述はなく、誰ひとり“それが誰のものか”を問う者もなかった。
あの男――沖田静が、記録されないことを選んだように。
蓮もまた、その剣に名を与えようとはしなかった。
※
ある夜、風が強かった。
あの戦から、一年が過ぎた。
夏の名残が地表に貼りついていたが、空気はどこか尖っていて、焚火の炎も揺れがちだった。
矢野と太一は、風除けの布の向こうに腰を下ろしていた。
太一は飯盒から焦げた米粒をつついている。蓮は、白鞘を膝に乗せ、磨いていた。
「なあ、蓮」
ふいに太一が言った。
目は火を見たまま、声だけがこちらに向いていた。
「それ……お前のもんにしないのか?」
蓮は手を止めることなく、答えた。
「しない」
「そっか」
太一はそれだけ言って、飯盒にまた匙を入れた。
蓮はしばらく沈黙していたが、やがて鞘の先を指でなぞるようにして言った。
「これは、持ち主が戻ってくるまでの“仮の居場所”だ」
「……仮、ね。そうだったな」
太一が口角だけで笑った。
「ま、俺も嫌いじゃねぇよ、そういう“仮”ってやつ」
※
戦が終わったとはいえ、蓮たちの周囲は落ち着かない日々が続いていた。
勝ち戦の後始末、褒賞の配分、次なる命令の布石――戦に関わる者は、常に“次”を見て動かねばならなかった。
だが、蓮はあえて“次”を持たなかった。
それは怠慢でも抗いでもない。ただ、“今”を抱えるには、それ以外の選択がなかった。
白鞘を持ち歩いていることについて、軍の者から咎められることはなかった。
幾人かが「それ、どこの刀だ?」と尋ねたが、蓮は首を横に振るだけだった。
「預かりものだ」
それが、唯一の応答だった。
それ以上を聞く者は、いなかった。
あるいは、蓮の目の奥にある何かが、“これ以上踏み込むな”と語っていたのかもしれない。
※
ある日の午後、太一が焚火のそばで、刀を研いでいた。
蓮は、その傍らで白鞘を抱えたまま、うとうとしていた。
「蓮」
「……ん」
「やっぱ、そいつは“名を持たない”ままにしとくんだよな」
「ああ」
「名をつけてやるとか、しないのか」
「しない」
「それも、静の望みだからか?」
蓮は目を閉じたまま、答えた。
「半分な。……あと半分は俺の望みでもある」
「ふうん」
太一は火に薪をくべた。
「なんか、それって、妙にやさしいよな」
蓮は、少しだけ目を開けた。
揺れる火の向こうに、太一がいた。
彼は剣を横に置きながら、続けた。
「誰のでもないままにしておくってことはさ、あいつを“誰の記憶にも縛らない”ってことだろ?」
「……そうかもしれないな」
「それって、なんか……生きてる人間には難しいことだよな」
「……」
蓮は黙った。
白鞘を両手で抱え、かすかに額を触れた。
誰のものでもないということ。
誰かのものになる可能性を残しておくこと。
それは、所有ではなく、“赦し”に近い。
※
その夜、蓮は眠れなかった。
焚火はすでに消えかけ、周囲にはわずかな虫の声があるばかり。
寝返りを打った太一が、時折微かに唸る。
蓮は、そっと白鞘を手にとった。
重さは変わらないはずなのに、いつもと違う感覚があった。
この剣は、静の手を離れてから、何も斬っていない。
ただ、そこにあるだけだった。
だが、それでも――
「……生きている」
声に出したつもりはなかった。
けれど、夜の闇が、それを拾ったような気がした。
誰にも触れられず、誰にも名を呼ばれないまま。
それでも、“ここに在る”ということが、何よりの証だった。
矢野蓮にとって、この剣はもはや武具ではない。
祈りでも、記憶でも、言葉でもなく、“そのままの静”だった。
※
翌朝、太一が言った。
「預かりものってさ、返せなかったとき、どうするんだろな」
蓮は、少しだけ考えてから答えた。
「返せないなら、持ち続けるしかない」
「ずっと?」
「ずっとだ」
「それ、つらくねぇか?」
「……つらいな。けど、それが生き残った者の役目だ」
太一は苦笑した。
「お前、昔からそういうとこ変わんねぇよな」
だが、そこには責めるような響きはなかった。
むしろ、それが“矢野蓮という男”だと、太一はよくわかっていた。
誰のものでもない剣。
それを持ち続けるということは、“名前なき者の想い”を抱え続けること。
名を刻むことよりもずっと重く、ずっと孤独で、ずっと誠実な選択だった。
※
その夜、蓮は白鞘を抱いて、野の風のなかに立った。
天幕の外、星が静かに瞬いていた。
風が頬を撫でる。
その風の中に、かすかな声がある気がした。
――「僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください」
蓮は、剣を胸に抱きしめた。
「……残さない。だからこそ、お前は、まだここにいる」



