第二十八話「白き者、姿を消す」
風が吹いていた。
戦の熱が引いたあとの大地には、鉄と灰と血の残り香がしぶとく残っていた。陽は昇り、誰もがその勝利を祝った。だが、その日も矢野蓮は、祝宴の席には現れなかった。
彼の足は、再び戦場痕に向かっていた。
焼けた幔幕、斬り伏せられた兵の屍、槍の根元でうつ伏せに倒れた男たちの名を、矢野はすべて聞き取っていた。遺体収容班の報告には目を通し、現場にも立ち会い、誰がどこで死んだか――徹底的に記録を追った。
静の噂は戦後、ますます広がり始めていた。
「“白い影”が、敵の将を斬った」「名もなき剣が、幔幕を割った」「人ではない鬼神が、戦の趨勢を変えた」
そんな言葉ばかりが独り歩きし、名は記録に残らない。残せる者が、誰もいない。静がそれを望まなかったからだ。
蓮は歩き続けていた。誰も近づかぬ崖際。高台から見下ろす草むらの死体。野犬に食われた骸を見ては、かすかに震える肩を強張らせ、目を伏せる。
「せめて亡骸だけでも」
何十度目かの、その言葉だった。
静がそれを望んでいないのはわかる。
望んでいたのならば、義元を討ったあの地に、彼は斃れているはずだった。
それを――
矢野の脳裏に、白い刀を拾った場所が蘇る。手負いの誰かが必死に動かない身体を擦って動いたような、そんな痕跡があった。
彼は自身の亡骸が見つかることを望んじゃいない。
見つかればそれは、死者として葬られるからだ。
死者には名前があり、功績が付随する。
静はそれを望んではいなかった――。
矢野は目頭を押さえる。
つまり、こうして彼の消息を追うことは、矢野自身のエゴでしかなかった。
しかし――、理屈ではわかっていても、感情が追い付かない。
「それはお前の自己満足だろう?」
「でも、静はそれを望んじゃいねぇ……」
数日前に、ほかならぬ矢野自身が、太一に言った言葉だった。
「俺も同じじゃねぇか……」
矢野は自嘲するように目を閉じて笑った。
背後から、太一が追いついてくる気配がした。足を引きずるような歩き方だった。左肩に巻かれた包帯が風でなびく。顔は晴れやかだったが、目だけは曇っていた。
「矢野」
それは太一が矢野の名を呼んだのと同時だった。
矢野が息をのみ目を見開く。はじかれるように駆け出していた。
「矢野――!」
呼びかけに応えず、蓮はただ一点を見つめていた。白装束の残骸が、太い木の幹にあった。矢で磔にされていた。血で染まり、泥で重くなった布の一切れ。伸ばした矢野の手が震える。その手がそれらに触れる前に、矢野の身体がその場に頽れた。
尋常ではない矢野の様子を受け、太一が駆け寄る。そして――、
「この白装束……この矢――!」
太一が叫ぶ。
「俺の矢……」
そうだ。あの日、太一が静に渡した三本の矢のうちの最後の一本だった。
蹲る矢野のそばで、太一が大木の根元、藪をかき分ける。
「あった――!」
そこには、太一が静に貸した弓が大事に横たわっていた。
「静――! そこにいるのか? 静!」
太一が這うようにして、弓の先をかき分ける。
その先は険しい崖だった。十数メートル下の崖下には深い植え込み。
――それが答えだった。
「静ァ――!」
太一の声が谷にこだます。
その斜め後ろでは、矢野が長身を伏せて泣いていた。
「時が来れば――」
一本目の矢は、進むべき道を。
二本目の矢は、自らの居場所を。
三本目の矢は、――別れと感謝を。
ふたりはしばらく、その場で土を涙に濡らした。
”人”にしてくれてありがとう。
名を与えてくれてありがとう。
帰りたい場所を与えてくれてありがとう。
そんな声が聞こえるような気がした。
蓮はゆっくりと立ち上がる。視線の先には、戦場の向こうに広がる初夏の青空があった。
「馬鹿野郎……」
太一が、口をきつく結ぶ。
そして、弓矢を固く抱きしめる。
血に濡れ、ところどころ欠け、飾りの巻きが解けかけている。太一の弓、静の壮絶な最期を知る弓。
「これは、軍に引き渡す」
泣きながら言った太一の言葉を受けて、蓮は首を左右に振った。
「いや……太一、それはお前が持っとくべきだ」
「なんでだ? これが遺留品として認められれば、沖田静の存在を記録に残すことができるかもしれねぇだろうが」
「だから、それは静が望んじゃいねぇって――!」
静は、自分の剣が伝説になることを拒んだ。名も、由来も、理由も、全部拒絶していた。彼にとって“斬る”という行為は、誰かのためではなく、自分自身の一部だった。
太一は、押し黙る。
その静けさのなかで、蓮がふと目を細めた。
遠く、風が吹いていた。
どこかで、草がなびく音がした。
何もない戦場の一角――その丘の上に立ち尽くしながら、蓮はゆっくりと腰の白刀を撫でた。
風が、再び吹いた。
その風のなかで、誰かが、微かに――「ありがとう」と言った気がした。
現を抜かすな、と誰かに言われれば、そうかもしれない。けれど、それでいいと、矢野は思った。
あの人は、たしかに生きていた。剣であり、影であり、風であり、ただ、ある一点のためだけにこの世に存在していた。
そして、いま。
その全てが、過ぎたのだ。
戦は終わった。剣は地に伏し、影は姿を消した。
矢野は、谷に背を向けた。風が、また吹いた。背に、白い何かが触れたような錯覚があった。振り返っても、何もなかった。ただ、どこまでも高く、どこまでも青い空が広がっているだけだった。
※
夜が、静かに降りてきた。
戦の火は消え、宴の声も、次第に遠くなっていた。野営地では空の器が並び、ひとり、またひとりと兵たちは横たわっていく。目を閉じた彼らの顔には、ようやく訪れた安堵があった。
その片隅、軍記の篠塚書記官が筆を走らせていた。
「――沖田静の名を刻めと、戦死との記載をと、そなたはそう申すのだな?」
それは、幾度も確認された末の、最後の記録だった。誰も彼の亡骸を見た者はいない。名乗りもなく、表彰もなく、ただ書かれた一行の、曖昧な余白。
太一は深く頷いた。
「そうです。あの人の功績は世に、……いや、後世に残すべきものです!」
騒ぎを聞きつけた矢野が荒い足音を立てその場に姿を現す。
「太一――!」
上官の面前だということも構わず、矢野は声を荒らげる。
上官と太一の間には、昼間拾った太一の弓と一本の矢、そして黒ずんだ白装束の残骸があった。
「太一、お前……あいつとの約束を忘れたのかよ!」
そう言って、矢野は遺留品を一式拾い上げる。
「篠塚さん、”彼”の記録の件はなかったことに。記載しないままでいてください」
それを聞いた太一が突如、机を拳で叩いた。
「ふざけんな……!」
篠塚書記官が驚いて身を引く。が、それでも太一は叫んだ。
「……あいつが、どれだけ斬ったと思ってんだ……。何百人、千人超えてるかもしれん……いや、それだけじゃねえ。本陣を揺らして、義元まで揺さぶって……! あいつがいなきゃ、勝てなかったんだぞ!」
声が、震えていた。
だが、怒っていたのは、静が名を遺さなかったことではない。誰も、それを記そうとしないことに、心底、憤っていたのだ。
やがて、静かに声がかかった。
「……太一さん」
矢野は凪いだ目で言った。風の中で衣を揺らしながら、その眼差しだけが、妙に落ち着いていた。
「……怒る気持ちは、わかる。でも、」
矢野は書状の紙に視線を落としたあと、小さく言葉を続けた。
「――あいつが望んだのは、名誉に付随する名じゃない。名に付随する人としての幸せだった」
太一が、言葉を失う。
「そんなもん……あるかよ。じゃあ、何のために……」
その問いには、矢野も答えなかった。
けれど、きっと静は、誰のためでもなく、ただ“斬るべきだから斬った”のだ。それが間違っていようと正しかろうと、理由など、はじめから持っていなかったのだ。名前も、功も、意味も――捨てた上で、それでも剣を振るった。
その夜。
矢野は、再び丘へ登った。
昼に訪れたのとは違う、高台だった。今はもう、冷気が土の上を這い始めている。戦地には、まだ幾筋もの血の匂いが残っていたが、それでも空は高く澄んでいた。
風が吹いていた。
矢野は、携えてきた白鞘を、そっと取り出した。真っ直ぐに構え、指先で鞘尻をなぞる。白かった柄も、もう煤け、焦げ跡のようなものが幾筋も走っていた。
それを、地に伏せる。
音はない。
けれど、その瞬間、風がぴたりと止み、次に吹いた一陣が、頬を撫でた。
――これで、良かったのか? 静……。
かすかに声が聞こえた気がした。耳の奥か、心の底か、あるいは遠いどこかからか。
矢野は言った。
「お前は、ここにいた。俺と太一が覚えてる。それでいいんだろ?」
ただそれだけを、夜の空に預けた。
風が吹いていた。
戦の熱が引いたあとの大地には、鉄と灰と血の残り香がしぶとく残っていた。陽は昇り、誰もがその勝利を祝った。だが、その日も矢野蓮は、祝宴の席には現れなかった。
彼の足は、再び戦場痕に向かっていた。
焼けた幔幕、斬り伏せられた兵の屍、槍の根元でうつ伏せに倒れた男たちの名を、矢野はすべて聞き取っていた。遺体収容班の報告には目を通し、現場にも立ち会い、誰がどこで死んだか――徹底的に記録を追った。
静の噂は戦後、ますます広がり始めていた。
「“白い影”が、敵の将を斬った」「名もなき剣が、幔幕を割った」「人ではない鬼神が、戦の趨勢を変えた」
そんな言葉ばかりが独り歩きし、名は記録に残らない。残せる者が、誰もいない。静がそれを望まなかったからだ。
蓮は歩き続けていた。誰も近づかぬ崖際。高台から見下ろす草むらの死体。野犬に食われた骸を見ては、かすかに震える肩を強張らせ、目を伏せる。
「せめて亡骸だけでも」
何十度目かの、その言葉だった。
静がそれを望んでいないのはわかる。
望んでいたのならば、義元を討ったあの地に、彼は斃れているはずだった。
それを――
矢野の脳裏に、白い刀を拾った場所が蘇る。手負いの誰かが必死に動かない身体を擦って動いたような、そんな痕跡があった。
彼は自身の亡骸が見つかることを望んじゃいない。
見つかればそれは、死者として葬られるからだ。
死者には名前があり、功績が付随する。
静はそれを望んではいなかった――。
矢野は目頭を押さえる。
つまり、こうして彼の消息を追うことは、矢野自身のエゴでしかなかった。
しかし――、理屈ではわかっていても、感情が追い付かない。
「それはお前の自己満足だろう?」
「でも、静はそれを望んじゃいねぇ……」
数日前に、ほかならぬ矢野自身が、太一に言った言葉だった。
「俺も同じじゃねぇか……」
矢野は自嘲するように目を閉じて笑った。
背後から、太一が追いついてくる気配がした。足を引きずるような歩き方だった。左肩に巻かれた包帯が風でなびく。顔は晴れやかだったが、目だけは曇っていた。
「矢野」
それは太一が矢野の名を呼んだのと同時だった。
矢野が息をのみ目を見開く。はじかれるように駆け出していた。
「矢野――!」
呼びかけに応えず、蓮はただ一点を見つめていた。白装束の残骸が、太い木の幹にあった。矢で磔にされていた。血で染まり、泥で重くなった布の一切れ。伸ばした矢野の手が震える。その手がそれらに触れる前に、矢野の身体がその場に頽れた。
尋常ではない矢野の様子を受け、太一が駆け寄る。そして――、
「この白装束……この矢――!」
太一が叫ぶ。
「俺の矢……」
そうだ。あの日、太一が静に渡した三本の矢のうちの最後の一本だった。
蹲る矢野のそばで、太一が大木の根元、藪をかき分ける。
「あった――!」
そこには、太一が静に貸した弓が大事に横たわっていた。
「静――! そこにいるのか? 静!」
太一が這うようにして、弓の先をかき分ける。
その先は険しい崖だった。十数メートル下の崖下には深い植え込み。
――それが答えだった。
「静ァ――!」
太一の声が谷にこだます。
その斜め後ろでは、矢野が長身を伏せて泣いていた。
「時が来れば――」
一本目の矢は、進むべき道を。
二本目の矢は、自らの居場所を。
三本目の矢は、――別れと感謝を。
ふたりはしばらく、その場で土を涙に濡らした。
”人”にしてくれてありがとう。
名を与えてくれてありがとう。
帰りたい場所を与えてくれてありがとう。
そんな声が聞こえるような気がした。
蓮はゆっくりと立ち上がる。視線の先には、戦場の向こうに広がる初夏の青空があった。
「馬鹿野郎……」
太一が、口をきつく結ぶ。
そして、弓矢を固く抱きしめる。
血に濡れ、ところどころ欠け、飾りの巻きが解けかけている。太一の弓、静の壮絶な最期を知る弓。
「これは、軍に引き渡す」
泣きながら言った太一の言葉を受けて、蓮は首を左右に振った。
「いや……太一、それはお前が持っとくべきだ」
「なんでだ? これが遺留品として認められれば、沖田静の存在を記録に残すことができるかもしれねぇだろうが」
「だから、それは静が望んじゃいねぇって――!」
静は、自分の剣が伝説になることを拒んだ。名も、由来も、理由も、全部拒絶していた。彼にとって“斬る”という行為は、誰かのためではなく、自分自身の一部だった。
太一は、押し黙る。
その静けさのなかで、蓮がふと目を細めた。
遠く、風が吹いていた。
どこかで、草がなびく音がした。
何もない戦場の一角――その丘の上に立ち尽くしながら、蓮はゆっくりと腰の白刀を撫でた。
風が、再び吹いた。
その風のなかで、誰かが、微かに――「ありがとう」と言った気がした。
現を抜かすな、と誰かに言われれば、そうかもしれない。けれど、それでいいと、矢野は思った。
あの人は、たしかに生きていた。剣であり、影であり、風であり、ただ、ある一点のためだけにこの世に存在していた。
そして、いま。
その全てが、過ぎたのだ。
戦は終わった。剣は地に伏し、影は姿を消した。
矢野は、谷に背を向けた。風が、また吹いた。背に、白い何かが触れたような錯覚があった。振り返っても、何もなかった。ただ、どこまでも高く、どこまでも青い空が広がっているだけだった。
※
夜が、静かに降りてきた。
戦の火は消え、宴の声も、次第に遠くなっていた。野営地では空の器が並び、ひとり、またひとりと兵たちは横たわっていく。目を閉じた彼らの顔には、ようやく訪れた安堵があった。
その片隅、軍記の篠塚書記官が筆を走らせていた。
「――沖田静の名を刻めと、戦死との記載をと、そなたはそう申すのだな?」
それは、幾度も確認された末の、最後の記録だった。誰も彼の亡骸を見た者はいない。名乗りもなく、表彰もなく、ただ書かれた一行の、曖昧な余白。
太一は深く頷いた。
「そうです。あの人の功績は世に、……いや、後世に残すべきものです!」
騒ぎを聞きつけた矢野が荒い足音を立てその場に姿を現す。
「太一――!」
上官の面前だということも構わず、矢野は声を荒らげる。
上官と太一の間には、昼間拾った太一の弓と一本の矢、そして黒ずんだ白装束の残骸があった。
「太一、お前……あいつとの約束を忘れたのかよ!」
そう言って、矢野は遺留品を一式拾い上げる。
「篠塚さん、”彼”の記録の件はなかったことに。記載しないままでいてください」
それを聞いた太一が突如、机を拳で叩いた。
「ふざけんな……!」
篠塚書記官が驚いて身を引く。が、それでも太一は叫んだ。
「……あいつが、どれだけ斬ったと思ってんだ……。何百人、千人超えてるかもしれん……いや、それだけじゃねえ。本陣を揺らして、義元まで揺さぶって……! あいつがいなきゃ、勝てなかったんだぞ!」
声が、震えていた。
だが、怒っていたのは、静が名を遺さなかったことではない。誰も、それを記そうとしないことに、心底、憤っていたのだ。
やがて、静かに声がかかった。
「……太一さん」
矢野は凪いだ目で言った。風の中で衣を揺らしながら、その眼差しだけが、妙に落ち着いていた。
「……怒る気持ちは、わかる。でも、」
矢野は書状の紙に視線を落としたあと、小さく言葉を続けた。
「――あいつが望んだのは、名誉に付随する名じゃない。名に付随する人としての幸せだった」
太一が、言葉を失う。
「そんなもん……あるかよ。じゃあ、何のために……」
その問いには、矢野も答えなかった。
けれど、きっと静は、誰のためでもなく、ただ“斬るべきだから斬った”のだ。それが間違っていようと正しかろうと、理由など、はじめから持っていなかったのだ。名前も、功も、意味も――捨てた上で、それでも剣を振るった。
その夜。
矢野は、再び丘へ登った。
昼に訪れたのとは違う、高台だった。今はもう、冷気が土の上を這い始めている。戦地には、まだ幾筋もの血の匂いが残っていたが、それでも空は高く澄んでいた。
風が吹いていた。
矢野は、携えてきた白鞘を、そっと取り出した。真っ直ぐに構え、指先で鞘尻をなぞる。白かった柄も、もう煤け、焦げ跡のようなものが幾筋も走っていた。
それを、地に伏せる。
音はない。
けれど、その瞬間、風がぴたりと止み、次に吹いた一陣が、頬を撫でた。
――これで、良かったのか? 静……。
かすかに声が聞こえた気がした。耳の奥か、心の底か、あるいは遠いどこかからか。
矢野は言った。
「お前は、ここにいた。俺と太一が覚えてる。それでいいんだろ?」
ただそれだけを、夜の空に預けた。



