第二十四話「血の花、咲く」
――通り雨が上がった。
そのことに気づいたのは、地を蹴るつま先に、もう水の跳ね返りが感じられなくなったからだった。
風は湿っていたが、空気は凛と澄んでいた。葉のひとつひとつが光を反射し、夜明けの気配を帯び始めていた。
誰もが知っていた。今日が、終わりの日であることを。
けれど、ここにいる者の誰ひとりとして、それを口にすることはない。ただ走る。
それぞれの場所へ、それぞれの死地へ。風走組が道を裂き、信長本隊が尾張の未来を背に受けて突き進む。
そしてその背後で、誰よりも静かに、ひとつの影が消えた。
沖田静。
白装束を土にまみれさせながら、ひとり、本陣裏手の鬱蒼とした藪へと姿を溶かした。
己の剣が、味方に見つけられることはないように。
己の歩みが、敵の背中を裂く風となるように。
それだけを考えていた。
(……この丘を抜けた先。兵の移動が緩慢だったあたりが、手薄な地点だ)
地形は、頭に叩き込んであった。
風走組の斥候として、八日前の夜に既にこの辺りの斜面は踏破していた。
湿地に隠れる獣道、滑りやすい崖の角度、樹木の密度、兵が視線を交わす範囲――すべて、心に刻みつけてあった。
あとは、その中を駆けるだけだった。
剣を抜くのは、最後にする。
この身がどれだけ速く走れようと、斬り伏せる瞬間までは“ただの影”であるべきだった。
風は音をたてない。ただ駆け、揺らし、擦り抜け、そして通り過ぎていく。
だからこそ、奇襲は成立する。
刃の重さも、息の音も、殺意の気配すらも、消さなければならない。
静の呼吸が、ひとつ、深くなった。
その瞳の奥で、世界がゆっくりと沈んでゆく。
鼓動が、遠くなる。
視界の端で、葉が揺れた。鹿か、鳥か、あるいは何か別の――
だが、気配はなかった。
あるのはただ、これから命を落とす者たちの眠りだけだった。
そして、刹那――
白い影が、跳ねた。
それはまるで、夜の底から走り出した月の光だった。
地を蹴る音はない。風がひと筋、梢を抜けたにすぎない。
ただ、次の瞬間にはもう、その場所に三人の兵が倒れていた。
首が、ひとつ。胴が、ふたつ。喉から胸まで裂けた者がひとり。
すべて、声を発する間もなかった。
幌幕の向こう、今川軍の中枢へと至る一角。
そこが、静の“戦場”だった。
(ここからは、速さではなく……)
静はゆっくりと息を吐いた。
――静けさだ。
ここで起きるすべては、“気づかれてはならない”。
敵を殺すのではない。
指揮を潰し、動揺を誘い、全体を崩すのだ。
この一撃が、信長の本隊と矢野たちの突撃を、最も奥から支える“風”となる。
静は、幌幕の端に手をかけた。
ゆっくりと、裂け目から中を覗く。
いた。
八人。
武将と、従兵と、従者と。
全員が談話のような調子で、囲炉裏の傍に腰をおろしていた。
湯が沸いていた。
茶器があった。
彼らにとっては、まだ“戦の本番”など始まってもいなかった。
(……今なら、音を出さずに全てを斬れる)
静は、剣の柄に手をかけた。
鞘鳴りはしない。
白鞘の刀は、すでに何度も血を吸っていた。
剣を抜く。
一歩、足を踏み入れる。
最初に斬るべきは、誰か。
間合いの一番遠い者からではない。
一番近い者でもない。
“最も声を出しやすい者”だ。
その者の気管を一撃で断ち、周囲の視線が揺れた刹那に、中心を斬る。
すべては、一息で終わらせなければならない。
静は、歩を進めた。
剣が舞う。
刃先は、月光のように滑らかに、静かに、そして凶暴に。
喉が裂ける音が、ひとつ。
肋骨が砕ける音が、ひとつ。
床に血が広がるより先に、命の灯りが吹き消されていく。
指先を伸ばしかけた者の手首が切り落とされ、悲鳴を上げるよりも早く、次の者の眉間が割られた。
八人のうち、六人は十秒で沈んだ。
残る二人――
「な、何者だ!?」
「ひ、人か!? 貴様、人間なのか……!」
その叫びに、静は応じなかった。
ただ、歩み寄り、二歩で間を詰め、肩口から胸までを斜めに斬った。
最後のひとりは、恐怖で動けなくなったところを、眉間を貫いた。
――終わった。
十七秒。
全てが、終わった。
息を吸う。
幌幕の中の空気は、血の臭いで満ちていた。
生臭さ。鉄の香り。焼けた皮膚。炭の匂い。人の死。
静は一歩、二歩と後ずさった。
……見られていた。
目の端に、揺れる気配。
幌幕のさらに奥。指揮官用の小屋。
――鵜殿長持。
今川義元の側近の一人であり、この陣の統率を任されていた人物。
音を聞いたのだろう。剣を手に、幌幕から出てくる。
そして、血の海と、立つひとつの白い影を見た。
「貴様……」
叫ぶ間もなかった。
静は、動いていた。
血を蹴り、距離を詰める。
鵜殿の太刀が振り下ろされる。
だが、その軌道を逸らすように、静の刃が鞘ごと鵜殿の剣を絡め取る。
踏み込み――
二歩。
刃が、首筋へと滑り込む。
――首が、飛んだ。
静は、剣を振り払った。
返り血が、白装束をさらに黒く染める。
肩に、痛み。
気づけば、鵜殿の剣の一閃が左肩を裂いていた。
深い。骨に届いていなければいいが――
だがそれは、もうどうでもよかった。
「……もう少し、斬ってもよかったかな」
その呟きは、幌幕の中の死者たちに向けられたものか、自分に向けたものか、わからなかった。
静は、再び“影”へと戻った。
※
それはまさしく、戦場のどこよりも静かな“殺意”だった。
静が本陣を離れたその直後、風が変わった。
木々の先で揺れていたただの陽炎が、音を孕んで乱れはじめる。
土の匂いに混じって、焦げた衣の臭いが漂ってくる。
山を巡る風の向きが、まるで“命の行き先”を変えるように、急速に流れを変えていく。
誰も、まだ気づいていない。
今川軍の中枢で、何が起きたのかを。
しかし、すぐに“何かが崩れ始めた”ことを、前線の兵たちは本能で感じ取りはじめていた。
「……様子が、おかしい」
今川側の副将が、幌幕の前で小さく漏らした。
味方の合図の火が上がらない。
警護の兵が戻ってこない。
人払いされたはずの本陣裏手から、異様な“沈黙”が降りてきていた。
「まさか、敵が……!」
その言葉が完全に口から出る前に、陣の中央で――
ふいに、幌幕の布がひとりでに揺れた。
血に染まった一筋の白。
その姿を見た者たちは、声を失った。
「な、なんだ……あれは」
「白装束……?」
「どこから――いつ――」
言葉よりも先に、恐怖が広がっていく。
幌幕から出てきたその影――沖田静は、もはや“兵”ではなかった。
“個”という概念をはみ出して、風と同じ速度で現れ、血を纏って過ぎ去った。
すれ違った兵のひとりが、声をあげようとして口を開いた瞬間、喉から赤い筋が吹き出した。
――それだけだった。
次に静がいたときには、もう三人が倒れていた。
殺したのではない。
命の居場所を、切り取っただけだ。
その“刃”の有り様に、敵は理解が追いつかない。
だからこそ、沈黙が伝染する。
「逃げろ」とも、「戦え」とも言えない。
ただ、そこに“何か”が来たという事実だけが陣に拡がっていく。
それが、“影”の仕事だった。
(……ここからは、戻るための道じゃない)
静の目が、奥の山道を射抜く。
このまま突き進めば、再び尾根に出ることもできる。
だが、味方の位置はすでに移動しているはず。敵もこちらを探しはじめる。
あらゆる地点で、あらゆる危険が待ち受けていた。
右肩の傷が開き、血をにじませていた。
動けば染み出す。
それでも、止まることはない。
(……矢野さん、今頃、どこにいるんでしょうね)
心のなかで、ふと名前を呼んだ。
誰にも聞かせることなく、吐息のなかで。
矢野蓮――
ただ一人、この命の傍にいてくれた者。
白装束に怯えなかった者。
剣を“殺すため”ではなく、“護るため”に使おうと語った者。
(あなたが、僕に“戻る道”を教えてくれた)
そのことを、静は忘れていなかった。
忘れたふりをすることもできなかった。
だからこそ、自分は今、ここにいる。
自分だけのためなら、こんな任務、請け負う必要などなかった。
“生き延びるために斬る”――そうした剣のあり方から離れたいと願った。
だが今、自分が振るっているのは、それとは真逆の“殺しの剣”だった。
それでも――
「あなたたちが、死ななくていいように。あなたが、生きて帰れるように」
そう呟いて、静は闇のなかを走った。
もう、剣をしまう必要はなかった。
すでに、自分の存在は敵に露見している。
ここからは、“斬る”ことでのみ、生き延びる道を開かねばならない。
右手は痺れていた。
指先に力が入りにくい。
鞘がぶれないよう、左手だけで支え直す。
血の流れが急になった。
だが、足取りは止まらない。
誰も、ここで立ち止まることを許してはくれない。
風が抜ける。
視界が、一瞬、赤に染まる。
それは錯覚か、あるいは――
「……!」
咄嗟に身をかがめた瞬間、槍の穂先が頭上を通過した。
――見つかった。
本陣の混乱を見て、走ってきた一団がいる。
兵の数、およそ十。
おそらくは先ほど倒した鵜殿長持の護衛兵か、近衛の残党。
(やるしかない……)
静は、再び剣を構えた。
既に、“斬らない剣”はここにはなかった。
※
十対一。
戦としては、成立しない数字だった。
それでも静は、動じなかった。
それは、恐れを知らぬという意味ではなかった。
死を受け入れているという意味でもなかった。
ただ、――目の前の“今”を、斬り結ぶためだけに、静はそこにいた。
「囲め!」
誰かが叫んだ。
すぐに半円の陣形が組まれる。
前方に三、左右に四ずつ。
それが訓練された兵の“定石”だということを、静はよく知っていた。
彼らが見ているのは、“数の優位”による勝利。
だが、静が見ているのは、やはりただ一つ――最初に斬るべき者の位置だった。
白装束の裾が、ふわりと舞う。
一歩。
足を滑らせるように、左へ。
「来るぞ!」
声が響く。
次の瞬間、静の姿が、風とともに飛んだ。
最も反応の遅れた兵の懐に、刃が届く。
首筋を裂かれた男は、音もなく崩れた。
その直後、二人目に突き出された槍を、静は斬らず、蹴り飛ばす。
木の柄が折れ、弾かれた穂先が空を裂く。
跳ねた音が、一瞬だけ場を止めた。
――三人目。
その隙を狙った兵が、背後から迫る。
だが、静はすでに読んでいた。
左へ跳ね、背を向けたかに見せかけ、身体を反転。
斬撃ではなく、柄の底で鳩尾を打つ。
「ぐっ……!」
苦鳴とともに、男の身体が折れ、倒れる。
三人。
わずか十秒。
それでも、静の息は乱れない。
だが、身体の奥――右肩の傷は、既に深く開いていた。
袖の下から、血が滴る。
それでも動く。
意識の遠くで、「ここで止まってはならない」と繰り返す。
命を賭してでも、“指揮を落とす”という任を果たす。
その意志が、身体を繋ぎ止めていた。
「なんなんだ、こいつは……!」
兵のひとりが叫ぶ。
「妖か! 影か!」
そうだ――
名のない剣は、ただの影だ。
斬られても、誰の記録にも残らない。
誰に知られることもない。
だが、その剣が斬ったものは、確かに――“戦”を変える。
静は四人目に向かって踏み込んだ。
斬る前に、剣を止めた。
男が反射的に顔を背けた瞬間、足払いで倒し、その頭上に刃をかざす。
一瞬の“ためらい”があったのではない。
“殺す意味”がなかったからだ。
(……この人は、僕を殺しに来ていない)
わかる。
剣の角度が違う。
狙うのは、命ではなく、退路。
つまり、兵は“命令”で動いている。
その命令の出所を、静はもう斬っていた。
ならば、この男を斬る意味はない。
静は、息を吸った。
肺が、血の匂いで満たされる。
敵兵が一歩引く。
そして――誰も、動かなくなった。
血の花が咲いていた。
大地に、五つの身体。
だが、それ以上の血が流れなかった。
「……行け」
誰ともなく、そう言った。
静は剣をおろし、背を向ける。
血塗られた地を背に、再び“影”のなかへと歩き出す。
誰も、追おうとはしなかった。
死を恐れてではない。
その剣が、“何かを守ろうとしていた”と、誰もが気づいてしまったからだ。
(俺はなぜ、斬らなかった……?)
誰に向けたわけでもない呟きが、口の端から漏れる。
それは、悔いではなかった。
ただ、剣を振るう意味を見失わなかった自分に、どこか安堵するような――
風が通り抜けた。
白装束の背が、再び崩れかけた幔幕の奥へと消えていった。
※
再び、雨が降り始めていた。
正午を過ぎ、空は曇天のまま翳り、風が戦場を駆け抜ける。
ぬかるみの中を走る兵たちの脚は、泥に沈み、血を跳ね上げる。
その混沌の中に、確かな変化が訪れていた。
「……今川軍が、退いている」
誰かの声が、風に混じる。
矢野は太一とともに、丘の上から戦場を見下ろしていた。
木立の向こう、敵本陣の幕が半ば崩れかけている。
異変は、そこから始まっていた。
幔幕が一つ、静かに風に揺れ――そして崩れ落ちたのだ。
合図の太鼓は打ち鳴らされず、指示の旗は乱れたままだった。
「……何があった?」
太一が呟く。
矢野の手の中では、まだ乾かぬ血が剣を濡らしていた。
だが、その剣が向かうべき敵が、今や霧のように姿を失っていく。
「敵本陣の指揮が、落ちたんだ」
矢野は、低く言った。
その声は、確信に近かった。
「誰かが、刺したんだ。敵の“頭”を」
そうでなければ、これほど急速に崩れるはずがない。
兵たちの目は宙を泳ぎ、どこへ向かうべきかを見失っていた。
そのとき、太一の肩がぴくりと揺れる。
「……まさか」
「……あぁ」
誰がやったのか。
考えずとも、答えは心の中にいた。
白。
影。
剣。
名を持たず、ただ命の線だけを貫いてきた存在。
「静だ」
矢野が言った。
それ以上、言葉は続かなかった。
二人は、風の向こうに“彼”の背を思った。
誰もいない空間の先に、まだ息づいているような、その“気配”を。
だが――どこを探しても、姿はなかった。
血の道を辿り、丘を駆け、木立を抜け、幌幕の残骸まで達しても、
そこに残されたのは、深く沈んだ足跡と、
黒く乾きかけた一筋の血痕、そして――
白い布の切れ端が、ひとつ。
折れた草木の先に引っかかっていた。
太一が、それを手に取る。
まだ、湿っていた。
だが、それが何の血かは、もう誰にもわからなかった。
矢野は一歩、土を踏む。
音はしなかった。
「……いないのか?」
太一の声が、虚空に消える。
答える者は、いない。
鳥の声さえ途絶え、風が枝を鳴らすだけだった。
「もしかして――」
「……言うな」
矢野は、低く言った。
「静に何かあったとは……俺は、思いたくない」
それは、自分のために斬ったのではないという意味ではない。
彼が“誰かの名のために斬った”とされたくない、という祈りだった。
「でもなあ」
太一が、しばらく黙ってから言った。
「この”白”は、間違いなくあいつの――」
その言葉を、矢野は止めなかった。
太一の手の中で、白布が風に揺れる。
それはまるで、空へ溶けていく雲の一片のようだった。
「もう、探すなよ」
太一が、ぽつりと言った。
「仮にだ。仮にあいつに何かあったとして、俺らまで追っかけたら共倒れだ。探すのは、全部終わったあとにしろ」
矢野は、頷かなかった。
けれど、その言葉の意味を、しっかりと胸の中に刻んだ。
「じゃあ――」
矢野は、刀を納めた。
「もう一度、戦に戻るぞ。静の背中を……俺たちで守る」
太一も、わずかに笑って頷いた。
二人は、泥に足を踏み出す。
曇天の下、散り散りになっていく今川軍の中を、
剣を抱えたまま、再び進軍の輪のなかへと戻っていった。
白い装束の男は、どこにもいなかった。
けれど――
彼が残した傷跡は、確かに“戦”を変えていた。
静かに咲いた“血の花”。
それは、戦場に咲いた一輪の記憶。
名もなき剣が、確かに“此処にいた”という証だった。
――通り雨が上がった。
そのことに気づいたのは、地を蹴るつま先に、もう水の跳ね返りが感じられなくなったからだった。
風は湿っていたが、空気は凛と澄んでいた。葉のひとつひとつが光を反射し、夜明けの気配を帯び始めていた。
誰もが知っていた。今日が、終わりの日であることを。
けれど、ここにいる者の誰ひとりとして、それを口にすることはない。ただ走る。
それぞれの場所へ、それぞれの死地へ。風走組が道を裂き、信長本隊が尾張の未来を背に受けて突き進む。
そしてその背後で、誰よりも静かに、ひとつの影が消えた。
沖田静。
白装束を土にまみれさせながら、ひとり、本陣裏手の鬱蒼とした藪へと姿を溶かした。
己の剣が、味方に見つけられることはないように。
己の歩みが、敵の背中を裂く風となるように。
それだけを考えていた。
(……この丘を抜けた先。兵の移動が緩慢だったあたりが、手薄な地点だ)
地形は、頭に叩き込んであった。
風走組の斥候として、八日前の夜に既にこの辺りの斜面は踏破していた。
湿地に隠れる獣道、滑りやすい崖の角度、樹木の密度、兵が視線を交わす範囲――すべて、心に刻みつけてあった。
あとは、その中を駆けるだけだった。
剣を抜くのは、最後にする。
この身がどれだけ速く走れようと、斬り伏せる瞬間までは“ただの影”であるべきだった。
風は音をたてない。ただ駆け、揺らし、擦り抜け、そして通り過ぎていく。
だからこそ、奇襲は成立する。
刃の重さも、息の音も、殺意の気配すらも、消さなければならない。
静の呼吸が、ひとつ、深くなった。
その瞳の奥で、世界がゆっくりと沈んでゆく。
鼓動が、遠くなる。
視界の端で、葉が揺れた。鹿か、鳥か、あるいは何か別の――
だが、気配はなかった。
あるのはただ、これから命を落とす者たちの眠りだけだった。
そして、刹那――
白い影が、跳ねた。
それはまるで、夜の底から走り出した月の光だった。
地を蹴る音はない。風がひと筋、梢を抜けたにすぎない。
ただ、次の瞬間にはもう、その場所に三人の兵が倒れていた。
首が、ひとつ。胴が、ふたつ。喉から胸まで裂けた者がひとり。
すべて、声を発する間もなかった。
幌幕の向こう、今川軍の中枢へと至る一角。
そこが、静の“戦場”だった。
(ここからは、速さではなく……)
静はゆっくりと息を吐いた。
――静けさだ。
ここで起きるすべては、“気づかれてはならない”。
敵を殺すのではない。
指揮を潰し、動揺を誘い、全体を崩すのだ。
この一撃が、信長の本隊と矢野たちの突撃を、最も奥から支える“風”となる。
静は、幌幕の端に手をかけた。
ゆっくりと、裂け目から中を覗く。
いた。
八人。
武将と、従兵と、従者と。
全員が談話のような調子で、囲炉裏の傍に腰をおろしていた。
湯が沸いていた。
茶器があった。
彼らにとっては、まだ“戦の本番”など始まってもいなかった。
(……今なら、音を出さずに全てを斬れる)
静は、剣の柄に手をかけた。
鞘鳴りはしない。
白鞘の刀は、すでに何度も血を吸っていた。
剣を抜く。
一歩、足を踏み入れる。
最初に斬るべきは、誰か。
間合いの一番遠い者からではない。
一番近い者でもない。
“最も声を出しやすい者”だ。
その者の気管を一撃で断ち、周囲の視線が揺れた刹那に、中心を斬る。
すべては、一息で終わらせなければならない。
静は、歩を進めた。
剣が舞う。
刃先は、月光のように滑らかに、静かに、そして凶暴に。
喉が裂ける音が、ひとつ。
肋骨が砕ける音が、ひとつ。
床に血が広がるより先に、命の灯りが吹き消されていく。
指先を伸ばしかけた者の手首が切り落とされ、悲鳴を上げるよりも早く、次の者の眉間が割られた。
八人のうち、六人は十秒で沈んだ。
残る二人――
「な、何者だ!?」
「ひ、人か!? 貴様、人間なのか……!」
その叫びに、静は応じなかった。
ただ、歩み寄り、二歩で間を詰め、肩口から胸までを斜めに斬った。
最後のひとりは、恐怖で動けなくなったところを、眉間を貫いた。
――終わった。
十七秒。
全てが、終わった。
息を吸う。
幌幕の中の空気は、血の臭いで満ちていた。
生臭さ。鉄の香り。焼けた皮膚。炭の匂い。人の死。
静は一歩、二歩と後ずさった。
……見られていた。
目の端に、揺れる気配。
幌幕のさらに奥。指揮官用の小屋。
――鵜殿長持。
今川義元の側近の一人であり、この陣の統率を任されていた人物。
音を聞いたのだろう。剣を手に、幌幕から出てくる。
そして、血の海と、立つひとつの白い影を見た。
「貴様……」
叫ぶ間もなかった。
静は、動いていた。
血を蹴り、距離を詰める。
鵜殿の太刀が振り下ろされる。
だが、その軌道を逸らすように、静の刃が鞘ごと鵜殿の剣を絡め取る。
踏み込み――
二歩。
刃が、首筋へと滑り込む。
――首が、飛んだ。
静は、剣を振り払った。
返り血が、白装束をさらに黒く染める。
肩に、痛み。
気づけば、鵜殿の剣の一閃が左肩を裂いていた。
深い。骨に届いていなければいいが――
だがそれは、もうどうでもよかった。
「……もう少し、斬ってもよかったかな」
その呟きは、幌幕の中の死者たちに向けられたものか、自分に向けたものか、わからなかった。
静は、再び“影”へと戻った。
※
それはまさしく、戦場のどこよりも静かな“殺意”だった。
静が本陣を離れたその直後、風が変わった。
木々の先で揺れていたただの陽炎が、音を孕んで乱れはじめる。
土の匂いに混じって、焦げた衣の臭いが漂ってくる。
山を巡る風の向きが、まるで“命の行き先”を変えるように、急速に流れを変えていく。
誰も、まだ気づいていない。
今川軍の中枢で、何が起きたのかを。
しかし、すぐに“何かが崩れ始めた”ことを、前線の兵たちは本能で感じ取りはじめていた。
「……様子が、おかしい」
今川側の副将が、幌幕の前で小さく漏らした。
味方の合図の火が上がらない。
警護の兵が戻ってこない。
人払いされたはずの本陣裏手から、異様な“沈黙”が降りてきていた。
「まさか、敵が……!」
その言葉が完全に口から出る前に、陣の中央で――
ふいに、幌幕の布がひとりでに揺れた。
血に染まった一筋の白。
その姿を見た者たちは、声を失った。
「な、なんだ……あれは」
「白装束……?」
「どこから――いつ――」
言葉よりも先に、恐怖が広がっていく。
幌幕から出てきたその影――沖田静は、もはや“兵”ではなかった。
“個”という概念をはみ出して、風と同じ速度で現れ、血を纏って過ぎ去った。
すれ違った兵のひとりが、声をあげようとして口を開いた瞬間、喉から赤い筋が吹き出した。
――それだけだった。
次に静がいたときには、もう三人が倒れていた。
殺したのではない。
命の居場所を、切り取っただけだ。
その“刃”の有り様に、敵は理解が追いつかない。
だからこそ、沈黙が伝染する。
「逃げろ」とも、「戦え」とも言えない。
ただ、そこに“何か”が来たという事実だけが陣に拡がっていく。
それが、“影”の仕事だった。
(……ここからは、戻るための道じゃない)
静の目が、奥の山道を射抜く。
このまま突き進めば、再び尾根に出ることもできる。
だが、味方の位置はすでに移動しているはず。敵もこちらを探しはじめる。
あらゆる地点で、あらゆる危険が待ち受けていた。
右肩の傷が開き、血をにじませていた。
動けば染み出す。
それでも、止まることはない。
(……矢野さん、今頃、どこにいるんでしょうね)
心のなかで、ふと名前を呼んだ。
誰にも聞かせることなく、吐息のなかで。
矢野蓮――
ただ一人、この命の傍にいてくれた者。
白装束に怯えなかった者。
剣を“殺すため”ではなく、“護るため”に使おうと語った者。
(あなたが、僕に“戻る道”を教えてくれた)
そのことを、静は忘れていなかった。
忘れたふりをすることもできなかった。
だからこそ、自分は今、ここにいる。
自分だけのためなら、こんな任務、請け負う必要などなかった。
“生き延びるために斬る”――そうした剣のあり方から離れたいと願った。
だが今、自分が振るっているのは、それとは真逆の“殺しの剣”だった。
それでも――
「あなたたちが、死ななくていいように。あなたが、生きて帰れるように」
そう呟いて、静は闇のなかを走った。
もう、剣をしまう必要はなかった。
すでに、自分の存在は敵に露見している。
ここからは、“斬る”ことでのみ、生き延びる道を開かねばならない。
右手は痺れていた。
指先に力が入りにくい。
鞘がぶれないよう、左手だけで支え直す。
血の流れが急になった。
だが、足取りは止まらない。
誰も、ここで立ち止まることを許してはくれない。
風が抜ける。
視界が、一瞬、赤に染まる。
それは錯覚か、あるいは――
「……!」
咄嗟に身をかがめた瞬間、槍の穂先が頭上を通過した。
――見つかった。
本陣の混乱を見て、走ってきた一団がいる。
兵の数、およそ十。
おそらくは先ほど倒した鵜殿長持の護衛兵か、近衛の残党。
(やるしかない……)
静は、再び剣を構えた。
既に、“斬らない剣”はここにはなかった。
※
十対一。
戦としては、成立しない数字だった。
それでも静は、動じなかった。
それは、恐れを知らぬという意味ではなかった。
死を受け入れているという意味でもなかった。
ただ、――目の前の“今”を、斬り結ぶためだけに、静はそこにいた。
「囲め!」
誰かが叫んだ。
すぐに半円の陣形が組まれる。
前方に三、左右に四ずつ。
それが訓練された兵の“定石”だということを、静はよく知っていた。
彼らが見ているのは、“数の優位”による勝利。
だが、静が見ているのは、やはりただ一つ――最初に斬るべき者の位置だった。
白装束の裾が、ふわりと舞う。
一歩。
足を滑らせるように、左へ。
「来るぞ!」
声が響く。
次の瞬間、静の姿が、風とともに飛んだ。
最も反応の遅れた兵の懐に、刃が届く。
首筋を裂かれた男は、音もなく崩れた。
その直後、二人目に突き出された槍を、静は斬らず、蹴り飛ばす。
木の柄が折れ、弾かれた穂先が空を裂く。
跳ねた音が、一瞬だけ場を止めた。
――三人目。
その隙を狙った兵が、背後から迫る。
だが、静はすでに読んでいた。
左へ跳ね、背を向けたかに見せかけ、身体を反転。
斬撃ではなく、柄の底で鳩尾を打つ。
「ぐっ……!」
苦鳴とともに、男の身体が折れ、倒れる。
三人。
わずか十秒。
それでも、静の息は乱れない。
だが、身体の奥――右肩の傷は、既に深く開いていた。
袖の下から、血が滴る。
それでも動く。
意識の遠くで、「ここで止まってはならない」と繰り返す。
命を賭してでも、“指揮を落とす”という任を果たす。
その意志が、身体を繋ぎ止めていた。
「なんなんだ、こいつは……!」
兵のひとりが叫ぶ。
「妖か! 影か!」
そうだ――
名のない剣は、ただの影だ。
斬られても、誰の記録にも残らない。
誰に知られることもない。
だが、その剣が斬ったものは、確かに――“戦”を変える。
静は四人目に向かって踏み込んだ。
斬る前に、剣を止めた。
男が反射的に顔を背けた瞬間、足払いで倒し、その頭上に刃をかざす。
一瞬の“ためらい”があったのではない。
“殺す意味”がなかったからだ。
(……この人は、僕を殺しに来ていない)
わかる。
剣の角度が違う。
狙うのは、命ではなく、退路。
つまり、兵は“命令”で動いている。
その命令の出所を、静はもう斬っていた。
ならば、この男を斬る意味はない。
静は、息を吸った。
肺が、血の匂いで満たされる。
敵兵が一歩引く。
そして――誰も、動かなくなった。
血の花が咲いていた。
大地に、五つの身体。
だが、それ以上の血が流れなかった。
「……行け」
誰ともなく、そう言った。
静は剣をおろし、背を向ける。
血塗られた地を背に、再び“影”のなかへと歩き出す。
誰も、追おうとはしなかった。
死を恐れてではない。
その剣が、“何かを守ろうとしていた”と、誰もが気づいてしまったからだ。
(俺はなぜ、斬らなかった……?)
誰に向けたわけでもない呟きが、口の端から漏れる。
それは、悔いではなかった。
ただ、剣を振るう意味を見失わなかった自分に、どこか安堵するような――
風が通り抜けた。
白装束の背が、再び崩れかけた幔幕の奥へと消えていった。
※
再び、雨が降り始めていた。
正午を過ぎ、空は曇天のまま翳り、風が戦場を駆け抜ける。
ぬかるみの中を走る兵たちの脚は、泥に沈み、血を跳ね上げる。
その混沌の中に、確かな変化が訪れていた。
「……今川軍が、退いている」
誰かの声が、風に混じる。
矢野は太一とともに、丘の上から戦場を見下ろしていた。
木立の向こう、敵本陣の幕が半ば崩れかけている。
異変は、そこから始まっていた。
幔幕が一つ、静かに風に揺れ――そして崩れ落ちたのだ。
合図の太鼓は打ち鳴らされず、指示の旗は乱れたままだった。
「……何があった?」
太一が呟く。
矢野の手の中では、まだ乾かぬ血が剣を濡らしていた。
だが、その剣が向かうべき敵が、今や霧のように姿を失っていく。
「敵本陣の指揮が、落ちたんだ」
矢野は、低く言った。
その声は、確信に近かった。
「誰かが、刺したんだ。敵の“頭”を」
そうでなければ、これほど急速に崩れるはずがない。
兵たちの目は宙を泳ぎ、どこへ向かうべきかを見失っていた。
そのとき、太一の肩がぴくりと揺れる。
「……まさか」
「……あぁ」
誰がやったのか。
考えずとも、答えは心の中にいた。
白。
影。
剣。
名を持たず、ただ命の線だけを貫いてきた存在。
「静だ」
矢野が言った。
それ以上、言葉は続かなかった。
二人は、風の向こうに“彼”の背を思った。
誰もいない空間の先に、まだ息づいているような、その“気配”を。
だが――どこを探しても、姿はなかった。
血の道を辿り、丘を駆け、木立を抜け、幌幕の残骸まで達しても、
そこに残されたのは、深く沈んだ足跡と、
黒く乾きかけた一筋の血痕、そして――
白い布の切れ端が、ひとつ。
折れた草木の先に引っかかっていた。
太一が、それを手に取る。
まだ、湿っていた。
だが、それが何の血かは、もう誰にもわからなかった。
矢野は一歩、土を踏む。
音はしなかった。
「……いないのか?」
太一の声が、虚空に消える。
答える者は、いない。
鳥の声さえ途絶え、風が枝を鳴らすだけだった。
「もしかして――」
「……言うな」
矢野は、低く言った。
「静に何かあったとは……俺は、思いたくない」
それは、自分のために斬ったのではないという意味ではない。
彼が“誰かの名のために斬った”とされたくない、という祈りだった。
「でもなあ」
太一が、しばらく黙ってから言った。
「この”白”は、間違いなくあいつの――」
その言葉を、矢野は止めなかった。
太一の手の中で、白布が風に揺れる。
それはまるで、空へ溶けていく雲の一片のようだった。
「もう、探すなよ」
太一が、ぽつりと言った。
「仮にだ。仮にあいつに何かあったとして、俺らまで追っかけたら共倒れだ。探すのは、全部終わったあとにしろ」
矢野は、頷かなかった。
けれど、その言葉の意味を、しっかりと胸の中に刻んだ。
「じゃあ――」
矢野は、刀を納めた。
「もう一度、戦に戻るぞ。静の背中を……俺たちで守る」
太一も、わずかに笑って頷いた。
二人は、泥に足を踏み出す。
曇天の下、散り散りになっていく今川軍の中を、
剣を抱えたまま、再び進軍の輪のなかへと戻っていった。
白い装束の男は、どこにもいなかった。
けれど――
彼が残した傷跡は、確かに“戦”を変えていた。
静かに咲いた“血の花”。
それは、戦場に咲いた一輪の記憶。
名もなき剣が、確かに“此処にいた”という証だった。



