名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第二十四話「血の花、咲く」

 ――通り雨が上がった。
 そのことに気づいたのは、地を蹴るつま先に、もう水の跳ね返りが感じられなくなったからだった。
 風は湿っていたが、空気は凛と澄んでいた。葉のひとつひとつが光を反射し、夜明けの気配を帯び始めていた。
 誰もが知っていた。今日が、終わりの日であることを。
 けれど、ここにいる者の誰ひとりとして、それを口にすることはない。ただ走る。
 それぞれの場所へ、それぞれの死地へ。風走組が道を裂き、信長本隊が尾張の未来を背に受けて突き進む。
 そしてその背後で、誰よりも静かに、ひとつの影が消えた。
 沖田静。
 白装束を土にまみれさせながら、ひとり、本陣裏手の鬱蒼とした藪へと姿を溶かした。
 己の剣が、味方に見つけられることはないように。
 己の歩みが、敵の背中を裂く風となるように。
 それだけを考えていた。
(……この丘を抜けた先。兵の移動が緩慢だったあたりが、手薄な地点だ)
 地形は、頭に叩き込んであった。
 風走組の斥候として、八日前の夜に既にこの辺りの斜面は踏破していた。
 湿地に隠れる獣道、滑りやすい崖の角度、樹木の密度、兵が視線を交わす範囲――すべて、心に刻みつけてあった。
 あとは、その中を駆けるだけだった。
 剣を抜くのは、最後にする。
 この身がどれだけ速く走れようと、斬り伏せる瞬間までは“ただの影”であるべきだった。
 風は音をたてない。ただ駆け、揺らし、擦り抜け、そして通り過ぎていく。
 だからこそ、奇襲は成立する。
 刃の重さも、息の音も、殺意の気配すらも、消さなければならない。
 静の呼吸が、ひとつ、深くなった。
 その瞳の奥で、世界がゆっくりと沈んでゆく。
 鼓動が、遠くなる。
 視界の端で、葉が揺れた。鹿か、鳥か、あるいは何か別の――
 だが、気配はなかった。
 あるのはただ、これから命を落とす者たちの眠りだけだった。
 そして、刹那――
 白い影が、跳ねた。
 それはまるで、夜の底から走り出した月の光だった。
 地を蹴る音はない。風がひと筋、梢を抜けたにすぎない。
 ただ、次の瞬間にはもう、その場所に三人の兵が倒れていた。
 首が、ひとつ。胴が、ふたつ。喉から胸まで裂けた者がひとり。
 すべて、声を発する間もなかった。
 幌幕の向こう、今川軍の中枢へと至る一角。
 そこが、静の“戦場”だった。
(ここからは、速さではなく……)
 静はゆっくりと息を吐いた。
 ――静けさだ。
 ここで起きるすべては、“気づかれてはならない”。
 敵を殺すのではない。
 指揮を潰し、動揺を誘い、全体を崩すのだ。
 この一撃が、信長の本隊と矢野たちの突撃を、最も奥から支える“風”となる。
 静は、幌幕の端に手をかけた。
 ゆっくりと、裂け目から中を覗く。
 いた。
 八人。
 武将と、従兵と、従者と。
 全員が談話のような調子で、囲炉裏の傍に腰をおろしていた。
 湯が沸いていた。
 茶器があった。
 彼らにとっては、まだ“戦の本番”など始まってもいなかった。
(……今なら、音を出さずに全てを斬れる)
 静は、剣の柄に手をかけた。
 鞘鳴りはしない。
 白鞘の刀は、すでに何度も血を吸っていた。
 剣を抜く。
 一歩、足を踏み入れる。
 最初に斬るべきは、誰か。
 間合いの一番遠い者からではない。
 一番近い者でもない。
 “最も声を出しやすい者”だ。
 その者の気管を一撃で断ち、周囲の視線が揺れた刹那に、中心を斬る。
 すべては、一息で終わらせなければならない。
 静は、歩を進めた。
 剣が舞う。
 刃先は、月光のように滑らかに、静かに、そして凶暴に。
 喉が裂ける音が、ひとつ。
 肋骨が砕ける音が、ひとつ。
 床に血が広がるより先に、命の灯りが吹き消されていく。
 指先を伸ばしかけた者の手首が切り落とされ、悲鳴を上げるよりも早く、次の者の眉間が割られた。
 八人のうち、六人は十秒で沈んだ。
 残る二人――
「な、何者だ!?」
「ひ、人か!? 貴様、人間なのか……!」
 その叫びに、静は応じなかった。
 ただ、歩み寄り、二歩で間を詰め、肩口から胸までを斜めに斬った。
 最後のひとりは、恐怖で動けなくなったところを、眉間を貫いた。
 ――終わった。
 十七秒。
 全てが、終わった。
 息を吸う。
 幌幕の中の空気は、血の臭いで満ちていた。
 生臭さ。鉄の香り。焼けた皮膚。炭の匂い。人の死。
 静は一歩、二歩と後ずさった。
 ……見られていた。
 目の端に、揺れる気配。
 幌幕のさらに奥。指揮官用の小屋。
 ――鵜殿長持。
 今川義元の側近の一人であり、この陣の統率を任されていた人物。
 音を聞いたのだろう。剣を手に、幌幕から出てくる。
 そして、血の海と、立つひとつの白い影を見た。
「貴様……」
 叫ぶ間もなかった。
 静は、動いていた。
 血を蹴り、距離を詰める。
 鵜殿の太刀が振り下ろされる。
 だが、その軌道を逸らすように、静の刃が鞘ごと鵜殿の剣を絡め取る。
 踏み込み――
 二歩。
 刃が、首筋へと滑り込む。
 ――首が、飛んだ。
 静は、剣を振り払った。
 返り血が、白装束をさらに黒く染める。
 肩に、痛み。
 気づけば、鵜殿の剣の一閃が左肩を裂いていた。
 深い。骨に届いていなければいいが――
 だがそれは、もうどうでもよかった。
「……もう少し、斬ってもよかったかな」
 その呟きは、幌幕の中の死者たちに向けられたものか、自分に向けたものか、わからなかった。
 静は、再び“影”へと戻った。
     ※
 それはまさしく、戦場のどこよりも静かな“殺意”だった。
 静が本陣を離れたその直後、風が変わった。
 木々の先で揺れていたただの陽炎が、音を孕んで乱れはじめる。
 土の匂いに混じって、焦げた衣の臭いが漂ってくる。
 山を巡る風の向きが、まるで“命の行き先”を変えるように、急速に流れを変えていく。
 誰も、まだ気づいていない。
 今川軍の中枢で、何が起きたのかを。
 しかし、すぐに“何かが崩れ始めた”ことを、前線の兵たちは本能で感じ取りはじめていた。
「……様子が、おかしい」
 今川側の副将が、幌幕の前で小さく漏らした。
 味方の合図の火が上がらない。
 警護の兵が戻ってこない。
 人払いされたはずの本陣裏手から、異様な“沈黙”が降りてきていた。
「まさか、敵が……!」
 その言葉が完全に口から出る前に、陣の中央で――
 ふいに、幌幕の布がひとりでに揺れた。
 血に染まった一筋の白。
 その姿を見た者たちは、声を失った。
「な、なんだ……あれは」
「白装束……?」
「どこから――いつ――」
 言葉よりも先に、恐怖が広がっていく。
 幌幕から出てきたその影――沖田静は、もはや“兵”ではなかった。
 “個”という概念をはみ出して、風と同じ速度で現れ、血を纏って過ぎ去った。
 すれ違った兵のひとりが、声をあげようとして口を開いた瞬間、喉から赤い筋が吹き出した。
 ――それだけだった。
 次に静がいたときには、もう三人が倒れていた。
 殺したのではない。
 命の居場所を、切り取っただけだ。
 その“刃”の有り様に、敵は理解が追いつかない。
 だからこそ、沈黙が伝染する。
「逃げろ」とも、「戦え」とも言えない。
 ただ、そこに“何か”が来たという事実だけが陣に拡がっていく。
 それが、“影”の仕事だった。
(……ここからは、戻るための道じゃない)
 静の目が、奥の山道を射抜く。
 このまま突き進めば、再び尾根に出ることもできる。
 だが、味方の位置はすでに移動しているはず。敵もこちらを探しはじめる。
 あらゆる地点で、あらゆる危険が待ち受けていた。
 右肩の傷が開き、血をにじませていた。
 動けば染み出す。
 それでも、止まることはない。
(……矢野さん、今頃、どこにいるんでしょうね)
 心のなかで、ふと名前を呼んだ。
 誰にも聞かせることなく、吐息のなかで。
 矢野蓮――
 ただ一人、この命の傍にいてくれた者。
 白装束に怯えなかった者。
 剣を“殺すため”ではなく、“護るため”に使おうと語った者。
(あなたが、僕に“戻る道”を教えてくれた)
 そのことを、静は忘れていなかった。
 忘れたふりをすることもできなかった。
 だからこそ、自分は今、ここにいる。
 自分だけのためなら、こんな任務、請け負う必要などなかった。
 “生き延びるために斬る”――そうした剣のあり方から離れたいと願った。
 だが今、自分が振るっているのは、それとは真逆の“殺しの剣”だった。
 それでも――
「あなたたちが、死ななくていいように。あなたが、生きて帰れるように」
 そう呟いて、静は闇のなかを走った。
 もう、剣をしまう必要はなかった。
 すでに、自分の存在は敵に露見している。
 ここからは、“斬る”ことでのみ、生き延びる道を開かねばならない。
 右手は痺れていた。
 指先に力が入りにくい。
 鞘がぶれないよう、左手だけで支え直す。
 血の流れが急になった。
 だが、足取りは止まらない。
 誰も、ここで立ち止まることを許してはくれない。
 風が抜ける。
 視界が、一瞬、赤に染まる。
 それは錯覚か、あるいは――
「……!」
 咄嗟に身をかがめた瞬間、槍の穂先が頭上を通過した。
 ――見つかった。
 本陣の混乱を見て、走ってきた一団がいる。
 兵の数、およそ十。
 おそらくは先ほど倒した鵜殿長持の護衛兵か、近衛の残党。
(やるしかない……)
 静は、再び剣を構えた。
 既に、“斬らない剣”はここにはなかった。
     ※
 十対一。
 戦としては、成立しない数字だった。
 それでも静は、動じなかった。
 それは、恐れを知らぬという意味ではなかった。
 死を受け入れているという意味でもなかった。
 ただ、――目の前の“今”を、斬り結ぶためだけに、静はそこにいた。
「囲め!」
 誰かが叫んだ。
 すぐに半円の陣形が組まれる。
 前方に三、左右に四ずつ。
 それが訓練された兵の“定石”だということを、静はよく知っていた。
 彼らが見ているのは、“数の優位”による勝利。
 だが、静が見ているのは、やはりただ一つ――最初に斬るべき者の位置だった。
 白装束の裾が、ふわりと舞う。
 一歩。
 足を滑らせるように、左へ。
「来るぞ!」
 声が響く。
 次の瞬間、静の姿が、風とともに飛んだ。
 最も反応の遅れた兵の懐に、刃が届く。
 首筋を裂かれた男は、音もなく崩れた。
 その直後、二人目に突き出された槍を、静は斬らず、蹴り飛ばす。
 木の柄が折れ、弾かれた穂先が空を裂く。
 跳ねた音が、一瞬だけ場を止めた。
 ――三人目。
 その隙を狙った兵が、背後から迫る。
 だが、静はすでに読んでいた。
 左へ跳ね、背を向けたかに見せかけ、身体を反転。
 斬撃ではなく、柄の底で鳩尾を打つ。
「ぐっ……!」
 苦鳴とともに、男の身体が折れ、倒れる。
 三人。
 わずか十秒。
 それでも、静の息は乱れない。
 だが、身体の奥――右肩の傷は、既に深く開いていた。
 袖の下から、血が滴る。
 それでも動く。
 意識の遠くで、「ここで止まってはならない」と繰り返す。
 命を賭してでも、“指揮を落とす”という任を果たす。
 その意志が、身体を繋ぎ止めていた。
「なんなんだ、こいつは……!」
 兵のひとりが叫ぶ。
「妖か! 影か!」
 そうだ――
 名のない剣は、ただの影だ。
 斬られても、誰の記録にも残らない。
 誰に知られることもない。
 だが、その剣が斬ったものは、確かに――“戦”を変える。
 静は四人目に向かって踏み込んだ。
 斬る前に、剣を止めた。
 男が反射的に顔を背けた瞬間、足払いで倒し、その頭上に刃をかざす。
 一瞬の“ためらい”があったのではない。
 “殺す意味”がなかったからだ。
(……この人は、僕を殺しに来ていない)
 わかる。
 剣の角度が違う。
 狙うのは、命ではなく、退路。
 つまり、兵は“命令”で動いている。
 その命令の出所を、静はもう斬っていた。
 ならば、この男を斬る意味はない。
 静は、息を吸った。
 肺が、血の匂いで満たされる。
 敵兵が一歩引く。
 そして――誰も、動かなくなった。
 血の花が咲いていた。
 大地に、五つの身体。
 だが、それ以上の血が流れなかった。
「……行け」
 誰ともなく、そう言った。
 静は剣をおろし、背を向ける。
 血塗られた地を背に、再び“影”のなかへと歩き出す。
 誰も、追おうとはしなかった。
 死を恐れてではない。
 その剣が、“何かを守ろうとしていた”と、誰もが気づいてしまったからだ。
(俺はなぜ、斬らなかった……?)
 誰に向けたわけでもない呟きが、口の端から漏れる。
 それは、悔いではなかった。
 ただ、剣を振るう意味を見失わなかった自分に、どこか安堵するような――
 風が通り抜けた。
 白装束の背が、再び崩れかけた幔幕の奥へと消えていった。
     ※
 再び、雨が降り始めていた。
 正午を過ぎ、空は曇天のまま翳り、風が戦場を駆け抜ける。
 ぬかるみの中を走る兵たちの脚は、泥に沈み、血を跳ね上げる。
 その混沌の中に、確かな変化が訪れていた。
「……今川軍が、退いている」
 誰かの声が、風に混じる。
 矢野は太一とともに、丘の上から戦場を見下ろしていた。
 木立の向こう、敵本陣の幕が半ば崩れかけている。
 異変は、そこから始まっていた。
 幔幕が一つ、静かに風に揺れ――そして崩れ落ちたのだ。
 合図の太鼓は打ち鳴らされず、指示の旗は乱れたままだった。
「……何があった?」
 太一が呟く。
 矢野の手の中では、まだ乾かぬ血が剣を濡らしていた。
 だが、その剣が向かうべき敵が、今や霧のように姿を失っていく。
「敵本陣の指揮が、落ちたんだ」
 矢野は、低く言った。
 その声は、確信に近かった。
「誰かが、刺したんだ。敵の“頭”を」
 そうでなければ、これほど急速に崩れるはずがない。
 兵たちの目は宙を泳ぎ、どこへ向かうべきかを見失っていた。
 そのとき、太一の肩がぴくりと揺れる。
「……まさか」
「……あぁ」
 誰がやったのか。
 考えずとも、答えは心の中にいた。
 白。
 影。
 剣。
 名を持たず、ただ命の線だけを貫いてきた存在。
「静だ」
 矢野が言った。
 それ以上、言葉は続かなかった。
 二人は、風の向こうに“彼”の背を思った。
 誰もいない空間の先に、まだ息づいているような、その“気配”を。
 だが――どこを探しても、姿はなかった。
 血の道を辿り、丘を駆け、木立を抜け、幌幕の残骸まで達しても、
 そこに残されたのは、深く沈んだ足跡と、
 黒く乾きかけた一筋の血痕、そして――
 白い布の切れ端が、ひとつ。
 折れた草木の先に引っかかっていた。
 太一が、それを手に取る。
 まだ、湿っていた。
 だが、それが何の血かは、もう誰にもわからなかった。
 矢野は一歩、土を踏む。
 音はしなかった。
「……いないのか?」
 太一の声が、虚空に消える。
 答える者は、いない。
 鳥の声さえ途絶え、風が枝を鳴らすだけだった。
「もしかして――」
「……言うな」
 矢野は、低く言った。
「静に何かあったとは……俺は、思いたくない」
 それは、自分のために斬ったのではないという意味ではない。
 彼が“誰かの名のために斬った”とされたくない、という祈りだった。
「でもなあ」
 太一が、しばらく黙ってから言った。
「この”白”は、間違いなくあいつの――」
 その言葉を、矢野は止めなかった。
 太一の手の中で、白布が風に揺れる。
 それはまるで、空へ溶けていく雲の一片のようだった。
「もう、探すなよ」
 太一が、ぽつりと言った。
「仮にだ。仮にあいつに何かあったとして、俺らまで追っかけたら共倒れだ。探すのは、全部終わったあとにしろ」
 矢野は、頷かなかった。
 けれど、その言葉の意味を、しっかりと胸の中に刻んだ。
「じゃあ――」
 矢野は、刀を納めた。
「もう一度、戦に戻るぞ。静の背中を……俺たちで守る」
 太一も、わずかに笑って頷いた。
 二人は、泥に足を踏み出す。
 曇天の下、散り散りになっていく今川軍の中を、
 剣を抱えたまま、再び進軍の輪のなかへと戻っていった。
 白い装束の男は、どこにもいなかった。
 けれど――
 彼が残した傷跡は、確かに“戦”を変えていた。
 静かに咲いた“血の花”。
 それは、戦場に咲いた一輪の記憶。
 名もなき剣が、確かに“此処にいた”という証だった。