名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第二十三話「本陣を目指せ」

 ――土が、まだ生きている。
 足の裏に感じるのは、水を含んで軟らかくなった山肌。つい先ほどまで雨が打っていた地面には、いくつもの足跡が乱れており、それらはどれも、恐慌と焦燥にまみれていた。
 静はその上を、まるで風のように駆けていった。
 体を締める白装束はすでに泥に染まり、裾には破れ目がいくつもできていた。腕に巻いた晒しは血を吸い、その重みを増している。けれど、彼の動きに躊躇いはない。どれほど濡れていても、刃の切っ先が曇ることはない。戦の中にあって、命の在処を鋭く嗅ぎ分けている者のそれだった。
 それは、人を斬る者の歩き方だった。
 呼吸を潜め、地形の起伏を読んで、木立の間を縫う。一本一本の木が、風の流れを変える。そのわずかな狂いをも、静は目で見ず、足で知る。視線は前ではなく、つねに斜め上に。枝の揺れが何を意味するのかを、風音の高さがどこに潜む者の気配を知らせるのかを、正確に捉えていた。
 彼の任は、本陣の背後に回り込み、敵に混乱をもたらすこと。
 それは“本隊の奇襲”を支えるための“影走り”――。
 表から打つ信長の鉄槌に対し、裏手から風となって揺さぶりをかける。正面から討っては届かぬ深層を、影となって穿つ。
 誰にも知られず、誰にも見られず、ただ結果だけを遺して、姿を消す。
 そんな“存在してはならない存在”を演じること。それが、静に託された役目だった。
「……人が斬られたあとは、風が変わる」
 そんなことを、かつて誰かが言っていた気がした。
 静は立ち止まり、わずかに顔を上げる。山道はこの先で二手に分かれていた。左はなだらかな斜面を登る道。右は竹林の中を縫う、獣道のような細い道。どちらが本陣の背に近いかは、地図を読まずともわかっていた。
 だが、そこに何があるかは、わからなかった。
 静は迷わない。右に折れ、笹の音の奥へと消えていった。
          ※
 同じ時刻――。
 戦場の中央では、信長本隊の動きが加速していた。
 先鋒の騎馬が、急斜面を駆け降りる。矢野と太一もまた、その集団の中にいた。
「……降りるぞ!」
 風の音に混じって、太一が叫んだ。濡れた岩肌を見下ろしながら、彼は馬を駆る。斜面を踏み外せば、そのまま転がり落ちて命を落とす可能性もある。だが迷っている時間はなかった。戦は動いている。それも、取り返しのつかない速度で。
「矢野!」太一が振り返らずに呼ぶ。
 矢野は応えず、ただ鞍上で体を沈め、馬を叱咤した。
 泥と水が跳ねる音。笹が折れる音。前方で誰かが転倒したらしい悲鳴が聞こえる。そのたびに、何かが終わっていく感触が、地の底から這い上がってきた。
 だが――。
「……静は、もっと先にいる」
 矢野は小さく呟いた。誰に聞かせるでもないその言葉は、霧のように喉の奥で溶ける。太一も、振り向きはしない。
 静は、すでに“向こう側”にいた。
          ※
 竹林の奥で、静はひとつの骸と出会っていた。
 また、味方の斥候だった。顔を半分、土に埋めたようにして伏している。背には矢が一本。角度からして、逃げる途中で撃たれたのだろう。だが、斥候は死に際、己の足元に短い目印を刻んでいた。
「――敵、右上段に伏兵あり」
 それだけを、枯れ枝で土に書き遺していた。
 静はその跡を指でなぞる。やわらかい土は、すでに風でわずかに崩れかけている。けれどその文字には、確かな意志があった。生きては還れぬことを悟った者が、それでも“後に続く者”のために残した証。
 その覚悟を前に、静は黙して、斥候の目をそっと閉じた。
「ありがとう」
 声はなかった。口も動かなかった。けれど、風が一瞬止んだ。
 静は再び立ち上がる。指先に、冷たい血がついていた。斥候のものか、それとも――己のものか。分からなかった。
 だが、分かる必要もなかった。
「僕が戻らなかったら、名は残さないでください」
 そう告げた夜の言葉が、胸の奥で凍てついていた。死をもって終わる旅ならば、それでいい。ただ――剣が、誰かの“祈り”ではなく、誰かを“救ったことになる”ような記録にだけはなりたくない。それが、彼の切実な願いだった。
 静は、足を踏み出した。
 斥候が示した方角へ。伏兵の存在を踏まえ、さらに高みを目指して、影を縫うように。
          ※
 戦場の空が、急に明るくなった。
 雲が割れたわけではない。だが、風向きが変わったのだ。湿った南風から、乾いた北風に。矢野は騎馬の上で、その変化に気づいた。
「……来たな」
 太一が、横でぽつりと言う。
「静が動いた」
 根拠はない。だが、そう思えた。風はただの空気の流れではない。そこには、誰かの足音が混じっていることがある。
 信長本隊が丘を越えたその時、遠くで火の手が上がった。
 それは、敵陣の背――本陣近くの警備小屋が燃えていた。
 風が、騒ぎを伝えてくる。
 太一と矢野が、同時に顔を上げる。
 その先にあるのは、静が今まさに踏み込もうとしている“中心”だった。
     ※
 尾根筋から滑り降りるようにして、静の身体は再び森の奥へ沈んでいった。風が吹いていた。だがそれは、枝葉を揺らす外の風ではない。自らが纏う衣を、心の裡から逆巻かせる風。呼吸と、歩幅と、鼓動。敵の気配が薄れ、獣道のような傾斜が続くなか、静の耳はただ一つの音を拾っていた――土を蹴る、己の足音。
 白装束は既に灰色に近かった。泥が跳ね、引き裂かれ、袖口は血を吸い込み重たく垂れている。にもかかわらず、歩みは緩まない。いや、歩みではない。地を蹴り、幹を避け、影と一体となって進むその動きは、“走る”という言葉ですら追いつけない、流れる刃のようだった。
 森を抜ける。その手前、右手に転がる味方の亡骸を、静は立ち止まり、わずかに膝を折って見下ろした。
 若い。血はすでに乾き、口元には土がこびりついている。眼は開かれたままだった。そこには恐怖ではなく、何かを見据えた意志が残されていた。
「あなたも、ここまで……」
 誰に聞かせるでもない声。静は、そっとその眼を閉じた。指先に触れた皮膚はまだ、冷たさよりも温もりの方が勝っていた。
 右手の小指が、欠けている。刀傷ではない。自ら噛み切ったものだと、直感で理解した。情報を口にできぬよう、あるいは、“死”を自覚した証として。
 見知らぬ兵士の命。その終わりに添えられた小さな決断を、静は剣より重く感じた。
「僕はあなたのように、死ねるだろうか」
 独り言のような呟きだった。だが、それは己に向けられた問いでもあった。
 静にとって死ぬことは、恐ろしいことではなかった。生きて斬ることの方が、よほど苦しかった。だがその先に、「死ぬことすら誰にも知られず、名も遺されぬこと」があるとすれば――それは、ほんとうに“在った”と言えるのか。
 その問いに、答えるように風が吹いた。葉がざわめく。視界の先に、わずかに陽が差す。尾根の向こうが、開けていた。
 静は立ち上がる。手の中の柄を、わずかに握り直す。
 そのときだった。
 ――かすかな音。右手から、ふたつの足音が近づいてくる。重さがある。歩哨か、それとも――
 息を殺すまでもない。静の動きは、影のようだった。
 音はほとんど立たなかった。音を立てずして、先に走る者の首筋を裂く。もう一人は反射的に振り返るも、音もなく踏み込んだ白影が、首を斬らずに口元を覆う。
「……なぜ、しゃべらない」
 静が囁いたのは、敵兵の耳元だった。
 呻き声ひとつ漏らさず、抵抗すらしなかった男は、わずかに首を振った。目が、涙で濡れていた。
 敵ではなかった。まだ少年と呼べる顔立ちのその者は、味方と同じ紋をつけていた。
「寝返ったのか」
 問いの続きは、聞けなかった。彼の首筋から、血が流れ出していた。最初の刃を抜かずとも、最初の一撃は、致命だったのだ。
「……ごめんなさい」
 静の声は震えていなかった。だが、指先が僅かに揺れていた。何人目だろう。何度目だろう。“敵ではない者”を斬ったのは。
 それでも、止まれなかった。
 その剣が向かうべきは、名ではなく、中心だった。
 敵軍の“中心”。指揮を執る者、戦況を動かす者。今川義元。その幔幕の場所は、既に地図で把握していた。斥候が命と引き換えに残した情報。静の背には、それが刻まれていた。
 土の匂いが変わる。風が切れる。足元が粘つく。戦の音が遠ざかり、代わりに聞こえるのは、幔幕のなかでかわされる命令と、馬のいななき、そして――恐怖を堪えた兵たちの息遣いだった。
 敵本陣は、すぐそこだった。
 剣を抜く。鞘を背へと投げる。
 白装束の影が、木々の狭間を裂いて、音もなく駆けた。
 “その瞬間”を迎えるために。
 “終わり”の名のない風になるために――。

 足音すら吸い込むような、土と湿気に沈んだ山路だった。
 雨の名残は地を黒く濡らし、草葉の縁に光を帯びた露が揺れている。風はない。虫も鳴かぬ。まるでこの道が、もともと誰の往来も許されていなかったように――静は、そのなかを駆けていた。
 白装束はすでに白ではない。雨を吸い、土を含み、露に濡れて、衣は重く肩に貼り付き、裾は泥にまみれていた。
 だが、静の足取りは止まらない。ひとり、本陣の背後を突く“影走り”の役を受けたその体は、躊躇も怒気もなく、ただ静かに“そこへ至るべき”という確信に突き動かされていた。
 ――ここが、本陣の背。
 耳を澄ますまでもなく、わずかにだが、兵たちのざわめきが木々の間から滲み出てくる。かすかな声、金物の触れる音、馬の鼻を鳴らす気配――そのすべてが、この森の“こちら側”とは別の位相にあるように、遠い。
 静は立ち上がった。
 ――風になる。
 誰に見られることもなく。誰に記されることもなく。
 “風”として走り、“風”として斬り、“風”として、死地へ至る。
 その先に、命があるかどうかではない。ここに残された命の“分まで”、ただ最後まで走る。それが、死者たちとの約束であり、矢野や太一との誓いであり、自らの剣に課した義務だった。
 森を抜ける手前、ふと振り返ると、陽が一条だけ差していた。
 木々の葉の隙間から注ぐその光は、雨後の蒸気と入り交じって、わずかに虹のような輪郭を生んでいた。
 “それは、生きている者だけに見える光だよ”
 ――そんなことを、誰かがかつて言っていた気がする。
 静は目を細め、そこに目をやった。
 だがその目には、どこにも安堵は宿っていなかった。むしろ、その光の向こうに、闇を見た。命が終わる場所の、黒く、深く、底の見えない、裂け目のような闇を――。
 そして静は、そこへ向かって走り出した。
 土が跳ねる。露が散る。枝が裂ける。
 遠く、矢野たちの突撃の音がする。鼓が鳴り、馬が駆け、兵たちの咆哮が山を震わせている。
 すべてが同時に動き出す――戦の刻限。命の交差。その渦の最奥に、彼はいた。
 その剣は、誰にも見えない場所で。
 だが確かに今、中心へと――迫っていた。
     ※
 その頃、山腹を抜けて合流した信長本隊では、すでに決死の突撃が始まっていた。
「まだ上るな、上るな! 合図まで、矢野、引け!」
 太一が叫ぶ。矢野はその隣で、息を殺して槍を構える。
 正面からの突撃。矢野と太一の隊は“先駆け”の役目を与えられ、信長本隊の動きと連動して敵陣を崩す“本命の牙”となる予定だった。
「合図はまだだ。静が動いてから、俺たちは“楔”になるんだ」
 矢野はうなずく。太一の表情に、かつて見たことのない緊張が宿っていた。

 すぐに、麓のほうから鬨の声が上がる。
 ――信長だ。
「全軍、前へ!」
 その号令に、すべてが動き出した。
     ※
 静が目指すのは、本陣の背後。
 その一角は、警戒が薄く、谷を超える道がただ一本あるのみ。人ひとりが通るのがやっとの幅で、かつての山僧が使っていた古道に似ていた。
 草が靴の裾にからみつく。
 雨で濡れた土は滑りやすく、時折、足音を消しきれない。
 けれど――構わない、と静は思った。
 この場所に、耳を澄ます者などいない。
 ここは“敵の意識の外”なのだ。だからこそ、ここを通る意味がある。
 その道の途中、倒木の陰からひとつ、赤い布切れが覗いていた。
 静は歩みを止め、それを拾う。
 味方斥候の衣の一部だ。破れた端に、指がひとつぶんほどの血の跡。
 その先には、誰の足跡もなかった。行き止まりのように見えるが、よく見れば、踏みならされた土がある。
 ――ここを抜ければ、本陣の背中がある。
 そのとき、風が吹いた。
 ひときわ強く、冷たい風だった。
 夏の始まりを忘れさせるような、あまりに静かな風。
 この風が、どこから吹いてきたものか。誰にもわからない。
 けれど、静には、わかった気がした。
 風は、ただの風であれと願った。誰にも届かず、何も傷つけず、ただ通り過ぎるだけの風であれと。
 しかしそれでも、この風が、誰かの記憶にだけは残るのだとすれば――
 それは、誰かが“斬られた”からではなく、誰かが“生き延びた”からにほかならない。
 静は剣の柄に手を添える。
 指が、乾いた血に触れた。
 何人目かも、もう数えていない。
 ただ、これが最後であるようにと、そう願った。
 道は、もう道ではなかった。
 斜面というにはあまりにも角度が鈍く、谷というには開けすぎている。木々の根が土を引き裂き、幾筋ものぬかるみに、獣の骨と折れた槍とがまぎれていた。何十という兵が行き交い、踏み荒らし、命を落とし、流れていったのだと――ただ、それだけで分かる。
 沖田静の足は、もはや音をたてていなかった。泥濘に踏み入り、腐葉を蹴りあげながらも、その身の動きはまるで――風が地を這うような、密やかな歩みだった。
 白装束は、もはや白くはなかった。
 血の痕跡は既に乾ききり、風に晒されて硬くなっている。泥に濡れ、湿り気を含み、重ささえある。裾を引きずるごとく歩きながらも、静の目は上がることなく、前だけを見据えていた。
 いや、見るというより――“読む”ように。
 風の流れ、葉の揺れ、虫の音。あらゆる兆しを読み取るその眼差しは、どこか修験者めいていた。生き残るための術ではなく、“進むため”の術を身につけた者の目だ。
 そしてその瞳の奥に宿るのは――死ではない。
「生きよう」とする意志でもなかった。
 ただ、“そこに辿り着こう”とする、それだけの光。
 足元で、何かが折れた音がした。見下ろすと、味方の死体があった。二人。片方は首を斬られ、もう一人は胸に短刀が突き立ったまま、倒れている。どちらもまだ新しい。
 静は立ち止まり、ゆっくりと膝を折れた。
 斬られた兵の顔には驚きの表情が刻まれていたが、もう一人の男の目だけは、うっすらと笑っていた。見覚えがあった。あの夜、焚火を囲んだ一団のひとりだ。静よりも五つほど年上。斥候の技に長けていた。
 彼の指先は、地面を掻くように伸びていた。
 その指先が、何かの“形”を描いていた。
 静は泥を拭い、そのかすれた線の残骸をなぞった。
 ――『おまえ、いけ』
 そう読めるような、そうでないような、曖昧な線だった。
 静はひとつだけ、ため息に似た息を吐いた。深くではなく、浅く、まるで自分の胸を掻くような呼気だった。
 そのまま、彼は男の目を閉じさせる。
 そして言う。
「……任せてください。誰にも斬らせません。もう誰も、ここを通しませんから」
 その声は、風のなかに吸い込まれていった。
 剣を抜く。刃は、土で汚れていた。だが、それも構わない。静はただ、肩にかかる装束の襞を直し、再び歩き出す。どこまでも、沈黙のなかで。
 “死にに行く”のではない。
 “終わらせに行く”――そのための歩みだった。
 背後から風が吹いた。
 否、ただの風ではない。人の気配だった。音もなく、湿り気もなく、だが確かに“誰かの歩み”が、地の底から這い寄るように、そこにあった。
 静は振り返らない。
 そこには、誰もいないと分かっていた。
 “気配”は、過去から吹く風のようなものだった。
 あれは、戦に向かうたびに感じていたもの――自分が“あの場所”へ向かっているという、確かな合図。
「……また来たんですね」
 独り言とも、誰かへの語りかけともつかぬ調子で呟いた。
 かつて、同じ気配を感じたのは、三河の戦だった。焼け落ちる村を駆けた夜、風の底で刀を振るった時、そして、太一を助けたあの夕暮れ。
 “誰か”が見ているとしか思えぬその気配に、背を預けながら剣を振るう。静は、そのたびに思っていた。
 ――自分は、生きているのか。
 それとも、もう死んでいるのか。
 今、その問いは不要だった。
 足元の地面がわずかに揺れた。敵の大軍が動いている証拠だった。
 味方の死が意味するものは、“近くに敵がいる”という事実ではない。あれは、先に“捨て石”として斬られた者たちだ。今川の本隊が、山側の隘路にも備えて部隊を配している証左。
 だが、ここには――“本陣そのもの”はなかった。
 静の目指すのは、背後。もっと先。山の尾根を越えたところにある、あの“幔幕の中心”。
 大軍は、そこにはいない。
 ――いないように見えるだけだ。
 幔幕は虚をつく。指揮官の名は盾となり、囮となり、時に自らを欺く器となる。
「だから、回る」
 と、静は言った。誰も聞いていない、声すらないその場所で。
「風は、回ってから吹くんです」
 そして再び走り出す。今度は、急だった。
 小さな峠をひとつ越えたところで、斬られた竹林が姿を現す。そこには四人、今川の兵がいた。
 静が踏み込んだのは、その視界に入る直前だった。
 一歩。
 音もなく、葉の上を滑るように。
 二歩。
 そのまま、二番目の男の背に風が吹いたときには、最初の男の喉が裂けていた。
 三歩目。
 刀を抜こうとした敵の手首が宙を舞う。
「何――!」
 四人目の兵の叫びは、刃が首をかすめた瞬間、息の泡に変わった。
 わずか五秒。
 竹林の風がやみ、再び静けさが戻る。
 地に伏す兵のうち、最後の一人が、まだ生きていた。息をひゅうひゅうと鳴らし、瞳を見開いて、静を見つめていた。
 静は、しばし見下ろしていたが、やがて膝を折れた。
「……生きたいですか?」
 男は目を見開いたまま、わずかに頷いた。
 静は、小さく笑った。
「それなら、いいです」
 懐から小瓶を取り出すと、男の口元に差し出した。中には、乾燥させた蘇生用の薬草と、水で割った酒が入っていた。
 男は、口の端からそれを受け取った。
「ここを越えて、右の尾根伝いに行けば……下山できます。……二度と、戻ってこないでください」
 男が頷く前に、静はもう立ち上がっていた。
 その背は、まるで何事もなかったかのように、再び“風のなか”へ溶けていった。
     ※
 空はもう、午後の色になっていた。
 陽は昇り、戦の最中にあっても、時間は容赦なく流れる。雨は止み、ぬかるみだった山道はわずかに乾きつつあったが、それでも足元の不安定さは変わらなかった。
 静は、地図にはない小径を使って本陣の背後へと迫っていた。
 敵の配置に“穴”があることは分かっていた。奇襲というのは、敵が不意を突かれたというより、“突かれる場所に気づかないまま配置した”時に成功する。
「気づいてないのではなく、気づけないんです。そこが、“隙”じゃなくて“罠”だったら困りますから」
 そう呟いて笑う静の口元は、皮肉にも静かだった。
 “影走り”は、正面から戦う剣ではない。
 全体の動きのなかで、誰も見ていない場所へ斬り込む――その剣は、戦の“形”そのものを変える役割を負っていた。
 ……やがて。
 視界が開けた。
 尾根を抜けると、下に幔幕が見えた。今川の軍旗が並び、太鼓の音がかすかに聞こえる。
 だが、その音が整っていない。
 指揮命令が交錯し、動きに乱れが出始めている。つまりは、信長本隊の奇襲に動きがあったということだ。
 矢野が動いた。太一が駆けた。
「……繋がった」
 静は、低くそう言った。
 自分の役割が、“奇襲の補完”であることを理解していた。
 信長本隊が前から突き上げ、全軍がそちらに引き寄せられた隙に、後ろから“もうひとつの刃”が突き立つ。正面突破と背面襲撃――二つが噛み合えば、本陣は瓦解する。
 その役割を、“名もなき剣”が担っていた。
 静は、ゆっくりと息を吸った。
「矢野さん」
 声は空へ、風へ、どこへともなく消えた。
「僕は、あのときからずっと――こうなることを知っていた気がします」
 言葉は、誰にも届かない。
 届くことを、望んでもいない。
 剣を抜く。
 白装束の裾が、風に揺れた。
 この場所には、誰もいない。
 静かすぎる幔幕の裏側。小さな兵站用の通路。そこを越えた先に、本陣の背がある。
 ふと、一本の槍が突き出された。
 待ち伏せ。
 静はそれを跳躍でかわし、着地と同時に斬った。
 反応した者たちが三人、幔幕の影から現れた。
 が、反応する“前”に斬られていた。
 一人目の首。
 二人目の喉。
 三人目の胸。
 その全てが、音を立てる前に沈んだ。
 静は無言で幔幕の隙間をすり抜けた。
 そこには、指揮幕の一角があった。
 戦場の中心。
 この剣が届く場所。
 血の臭いがした。
 幔幕のなかで、剣を持つ者がいる。
 それが“ただの兵士”でないことは、空気の重さで分かる。
 敵将がいる。指揮の中核が、ここにある。
 静は、そこへ足を踏み入れた。
 “何か”が、確かに終わり始めていた。
 風が止んだ。
 白装束の剣士が、今、戦場の“心臓”へと至る。