第二十三話「本陣を目指せ」
――土が、まだ生きている。
足の裏に感じるのは、水を含んで軟らかくなった山肌。つい先ほどまで雨が打っていた地面には、いくつもの足跡が乱れており、それらはどれも、恐慌と焦燥にまみれていた。
静はその上を、まるで風のように駆けていった。
体を締める白装束はすでに泥に染まり、裾には破れ目がいくつもできていた。腕に巻いた晒しは血を吸い、その重みを増している。けれど、彼の動きに躊躇いはない。どれほど濡れていても、刃の切っ先が曇ることはない。戦の中にあって、命の在処を鋭く嗅ぎ分けている者のそれだった。
それは、人を斬る者の歩き方だった。
呼吸を潜め、地形の起伏を読んで、木立の間を縫う。一本一本の木が、風の流れを変える。そのわずかな狂いをも、静は目で見ず、足で知る。視線は前ではなく、つねに斜め上に。枝の揺れが何を意味するのかを、風音の高さがどこに潜む者の気配を知らせるのかを、正確に捉えていた。
彼の任は、本陣の背後に回り込み、敵に混乱をもたらすこと。
それは“本隊の奇襲”を支えるための“影走り”――。
表から打つ信長の鉄槌に対し、裏手から風となって揺さぶりをかける。正面から討っては届かぬ深層を、影となって穿つ。
誰にも知られず、誰にも見られず、ただ結果だけを遺して、姿を消す。
そんな“存在してはならない存在”を演じること。それが、静に託された役目だった。
「……人が斬られたあとは、風が変わる」
そんなことを、かつて誰かが言っていた気がした。
静は立ち止まり、わずかに顔を上げる。山道はこの先で二手に分かれていた。左はなだらかな斜面を登る道。右は竹林の中を縫う、獣道のような細い道。どちらが本陣の背に近いかは、地図を読まずともわかっていた。
だが、そこに何があるかは、わからなかった。
静は迷わない。右に折れ、笹の音の奥へと消えていった。
※
同じ時刻――。
戦場の中央では、信長本隊の動きが加速していた。
先鋒の騎馬が、急斜面を駆け降りる。矢野と太一もまた、その集団の中にいた。
「……降りるぞ!」
風の音に混じって、太一が叫んだ。濡れた岩肌を見下ろしながら、彼は馬を駆る。斜面を踏み外せば、そのまま転がり落ちて命を落とす可能性もある。だが迷っている時間はなかった。戦は動いている。それも、取り返しのつかない速度で。
「矢野!」太一が振り返らずに呼ぶ。
矢野は応えず、ただ鞍上で体を沈め、馬を叱咤した。
泥と水が跳ねる音。笹が折れる音。前方で誰かが転倒したらしい悲鳴が聞こえる。そのたびに、何かが終わっていく感触が、地の底から這い上がってきた。
だが――。
「……静は、もっと先にいる」
矢野は小さく呟いた。誰に聞かせるでもないその言葉は、霧のように喉の奥で溶ける。太一も、振り向きはしない。
静は、すでに“向こう側”にいた。
※
竹林の奥で、静はひとつの骸と出会っていた。
また、味方の斥候だった。顔を半分、土に埋めたようにして伏している。背には矢が一本。角度からして、逃げる途中で撃たれたのだろう。だが、斥候は死に際、己の足元に短い目印を刻んでいた。
「――敵、右上段に伏兵あり」
それだけを、枯れ枝で土に書き遺していた。
静はその跡を指でなぞる。やわらかい土は、すでに風でわずかに崩れかけている。けれどその文字には、確かな意志があった。生きては還れぬことを悟った者が、それでも“後に続く者”のために残した証。
その覚悟を前に、静は黙して、斥候の目をそっと閉じた。
「ありがとう」
声はなかった。口も動かなかった。けれど、風が一瞬止んだ。
静は再び立ち上がる。指先に、冷たい血がついていた。斥候のものか、それとも――己のものか。分からなかった。
だが、分かる必要もなかった。
「僕が戻らなかったら、名は残さないでください」
そう告げた夜の言葉が、胸の奥で凍てついていた。死をもって終わる旅ならば、それでいい。ただ――剣が、誰かの“祈り”ではなく、誰かを“救ったことになる”ような記録にだけはなりたくない。それが、彼の切実な願いだった。
静は、足を踏み出した。
斥候が示した方角へ。伏兵の存在を踏まえ、さらに高みを目指して、影を縫うように。
※
戦場の空が、急に明るくなった。
雲が割れたわけではない。だが、風向きが変わったのだ。湿った南風から、乾いた北風に。矢野は騎馬の上で、その変化に気づいた。
「……来たな」
太一が、横でぽつりと言う。
「静が動いた」
根拠はない。だが、そう思えた。風はただの空気の流れではない。そこには、誰かの足音が混じっていることがある。
信長本隊が丘を越えたその時、遠くで火の手が上がった。
それは、敵陣の背――本陣近くの警備小屋が燃えていた。
風が、騒ぎを伝えてくる。
太一と矢野が、同時に顔を上げる。
その先にあるのは、静が今まさに踏み込もうとしている“中心”だった。
※
尾根筋から滑り降りるようにして、静の身体は再び森の奥へ沈んでいった。風が吹いていた。だがそれは、枝葉を揺らす外の風ではない。自らが纏う衣を、心の裡から逆巻かせる風。呼吸と、歩幅と、鼓動。敵の気配が薄れ、獣道のような傾斜が続くなか、静の耳はただ一つの音を拾っていた――土を蹴る、己の足音。
白装束は既に灰色に近かった。泥が跳ね、引き裂かれ、袖口は血を吸い込み重たく垂れている。にもかかわらず、歩みは緩まない。いや、歩みではない。地を蹴り、幹を避け、影と一体となって進むその動きは、“走る”という言葉ですら追いつけない、流れる刃のようだった。
森を抜ける。その手前、右手に転がる味方の亡骸を、静は立ち止まり、わずかに膝を折って見下ろした。
若い。血はすでに乾き、口元には土がこびりついている。眼は開かれたままだった。そこには恐怖ではなく、何かを見据えた意志が残されていた。
「あなたも、ここまで……」
誰に聞かせるでもない声。静は、そっとその眼を閉じた。指先に触れた皮膚はまだ、冷たさよりも温もりの方が勝っていた。
右手の小指が、欠けている。刀傷ではない。自ら噛み切ったものだと、直感で理解した。情報を口にできぬよう、あるいは、“死”を自覚した証として。
見知らぬ兵士の命。その終わりに添えられた小さな決断を、静は剣より重く感じた。
「僕はあなたのように、死ねるだろうか」
独り言のような呟きだった。だが、それは己に向けられた問いでもあった。
静にとって死ぬことは、恐ろしいことではなかった。生きて斬ることの方が、よほど苦しかった。だがその先に、「死ぬことすら誰にも知られず、名も遺されぬこと」があるとすれば――それは、ほんとうに“在った”と言えるのか。
その問いに、答えるように風が吹いた。葉がざわめく。視界の先に、わずかに陽が差す。尾根の向こうが、開けていた。
静は立ち上がる。手の中の柄を、わずかに握り直す。
そのときだった。
――かすかな音。右手から、ふたつの足音が近づいてくる。重さがある。歩哨か、それとも――
息を殺すまでもない。静の動きは、影のようだった。
音はほとんど立たなかった。音を立てずして、先に走る者の首筋を裂く。もう一人は反射的に振り返るも、音もなく踏み込んだ白影が、首を斬らずに口元を覆う。
「……なぜ、しゃべらない」
静が囁いたのは、敵兵の耳元だった。
呻き声ひとつ漏らさず、抵抗すらしなかった男は、わずかに首を振った。目が、涙で濡れていた。
敵ではなかった。まだ少年と呼べる顔立ちのその者は、味方と同じ紋をつけていた。
「寝返ったのか」
問いの続きは、聞けなかった。彼の首筋から、血が流れ出していた。最初の刃を抜かずとも、最初の一撃は、致命だったのだ。
「……ごめんなさい」
静の声は震えていなかった。だが、指先が僅かに揺れていた。何人目だろう。何度目だろう。“敵ではない者”を斬ったのは。
それでも、止まれなかった。
その剣が向かうべきは、名ではなく、中心だった。
敵軍の“中心”。指揮を執る者、戦況を動かす者。今川義元。その幔幕の場所は、既に地図で把握していた。斥候が命と引き換えに残した情報。静の背には、それが刻まれていた。
土の匂いが変わる。風が切れる。足元が粘つく。戦の音が遠ざかり、代わりに聞こえるのは、幔幕のなかでかわされる命令と、馬のいななき、そして――恐怖を堪えた兵たちの息遣いだった。
敵本陣は、すぐそこだった。
剣を抜く。鞘を背へと投げる。
白装束の影が、木々の狭間を裂いて、音もなく駆けた。
“その瞬間”を迎えるために。
“終わり”の名のない風になるために――。
足音すら吸い込むような、土と湿気に沈んだ山路だった。
雨の名残は地を黒く濡らし、草葉の縁に光を帯びた露が揺れている。風はない。虫も鳴かぬ。まるでこの道が、もともと誰の往来も許されていなかったように――静は、そのなかを駆けていた。
白装束はすでに白ではない。雨を吸い、土を含み、露に濡れて、衣は重く肩に貼り付き、裾は泥にまみれていた。
だが、静の足取りは止まらない。ひとり、本陣の背後を突く“影走り”の役を受けたその体は、躊躇も怒気もなく、ただ静かに“そこへ至るべき”という確信に突き動かされていた。
――ここが、本陣の背。
耳を澄ますまでもなく、わずかにだが、兵たちのざわめきが木々の間から滲み出てくる。かすかな声、金物の触れる音、馬の鼻を鳴らす気配――そのすべてが、この森の“こちら側”とは別の位相にあるように、遠い。
静は立ち上がった。
――風になる。
誰に見られることもなく。誰に記されることもなく。
“風”として走り、“風”として斬り、“風”として、死地へ至る。
その先に、命があるかどうかではない。ここに残された命の“分まで”、ただ最後まで走る。それが、死者たちとの約束であり、矢野や太一との誓いであり、自らの剣に課した義務だった。
森を抜ける手前、ふと振り返ると、陽が一条だけ差していた。
木々の葉の隙間から注ぐその光は、雨後の蒸気と入り交じって、わずかに虹のような輪郭を生んでいた。
“それは、生きている者だけに見える光だよ”
――そんなことを、誰かがかつて言っていた気がする。
静は目を細め、そこに目をやった。
だがその目には、どこにも安堵は宿っていなかった。むしろ、その光の向こうに、闇を見た。命が終わる場所の、黒く、深く、底の見えない、裂け目のような闇を――。
そして静は、そこへ向かって走り出した。
土が跳ねる。露が散る。枝が裂ける。
遠く、矢野たちの突撃の音がする。鼓が鳴り、馬が駆け、兵たちの咆哮が山を震わせている。
すべてが同時に動き出す――戦の刻限。命の交差。その渦の最奥に、彼はいた。
その剣は、誰にも見えない場所で。
だが確かに今、中心へと――迫っていた。
※
その頃、山腹を抜けて合流した信長本隊では、すでに決死の突撃が始まっていた。
「まだ上るな、上るな! 合図まで、矢野、引け!」
太一が叫ぶ。矢野はその隣で、息を殺して槍を構える。
正面からの突撃。矢野と太一の隊は“先駆け”の役目を与えられ、信長本隊の動きと連動して敵陣を崩す“本命の牙”となる予定だった。
「合図はまだだ。静が動いてから、俺たちは“楔”になるんだ」
矢野はうなずく。太一の表情に、かつて見たことのない緊張が宿っていた。
すぐに、麓のほうから鬨の声が上がる。
――信長だ。
「全軍、前へ!」
その号令に、すべてが動き出した。
※
静が目指すのは、本陣の背後。
その一角は、警戒が薄く、谷を超える道がただ一本あるのみ。人ひとりが通るのがやっとの幅で、かつての山僧が使っていた古道に似ていた。
草が靴の裾にからみつく。
雨で濡れた土は滑りやすく、時折、足音を消しきれない。
けれど――構わない、と静は思った。
この場所に、耳を澄ます者などいない。
ここは“敵の意識の外”なのだ。だからこそ、ここを通る意味がある。
その道の途中、倒木の陰からひとつ、赤い布切れが覗いていた。
静は歩みを止め、それを拾う。
味方斥候の衣の一部だ。破れた端に、指がひとつぶんほどの血の跡。
その先には、誰の足跡もなかった。行き止まりのように見えるが、よく見れば、踏みならされた土がある。
――ここを抜ければ、本陣の背中がある。
そのとき、風が吹いた。
ひときわ強く、冷たい風だった。
夏の始まりを忘れさせるような、あまりに静かな風。
この風が、どこから吹いてきたものか。誰にもわからない。
けれど、静には、わかった気がした。
風は、ただの風であれと願った。誰にも届かず、何も傷つけず、ただ通り過ぎるだけの風であれと。
しかしそれでも、この風が、誰かの記憶にだけは残るのだとすれば――
それは、誰かが“斬られた”からではなく、誰かが“生き延びた”からにほかならない。
静は剣の柄に手を添える。
指が、乾いた血に触れた。
何人目かも、もう数えていない。
ただ、これが最後であるようにと、そう願った。
道は、もう道ではなかった。
斜面というにはあまりにも角度が鈍く、谷というには開けすぎている。木々の根が土を引き裂き、幾筋ものぬかるみに、獣の骨と折れた槍とがまぎれていた。何十という兵が行き交い、踏み荒らし、命を落とし、流れていったのだと――ただ、それだけで分かる。
沖田静の足は、もはや音をたてていなかった。泥濘に踏み入り、腐葉を蹴りあげながらも、その身の動きはまるで――風が地を這うような、密やかな歩みだった。
白装束は、もはや白くはなかった。
血の痕跡は既に乾ききり、風に晒されて硬くなっている。泥に濡れ、湿り気を含み、重ささえある。裾を引きずるごとく歩きながらも、静の目は上がることなく、前だけを見据えていた。
いや、見るというより――“読む”ように。
風の流れ、葉の揺れ、虫の音。あらゆる兆しを読み取るその眼差しは、どこか修験者めいていた。生き残るための術ではなく、“進むため”の術を身につけた者の目だ。
そしてその瞳の奥に宿るのは――死ではない。
「生きよう」とする意志でもなかった。
ただ、“そこに辿り着こう”とする、それだけの光。
足元で、何かが折れた音がした。見下ろすと、味方の死体があった。二人。片方は首を斬られ、もう一人は胸に短刀が突き立ったまま、倒れている。どちらもまだ新しい。
静は立ち止まり、ゆっくりと膝を折れた。
斬られた兵の顔には驚きの表情が刻まれていたが、もう一人の男の目だけは、うっすらと笑っていた。見覚えがあった。あの夜、焚火を囲んだ一団のひとりだ。静よりも五つほど年上。斥候の技に長けていた。
彼の指先は、地面を掻くように伸びていた。
その指先が、何かの“形”を描いていた。
静は泥を拭い、そのかすれた線の残骸をなぞった。
――『おまえ、いけ』
そう読めるような、そうでないような、曖昧な線だった。
静はひとつだけ、ため息に似た息を吐いた。深くではなく、浅く、まるで自分の胸を掻くような呼気だった。
そのまま、彼は男の目を閉じさせる。
そして言う。
「……任せてください。誰にも斬らせません。もう誰も、ここを通しませんから」
その声は、風のなかに吸い込まれていった。
剣を抜く。刃は、土で汚れていた。だが、それも構わない。静はただ、肩にかかる装束の襞を直し、再び歩き出す。どこまでも、沈黙のなかで。
“死にに行く”のではない。
“終わらせに行く”――そのための歩みだった。
背後から風が吹いた。
否、ただの風ではない。人の気配だった。音もなく、湿り気もなく、だが確かに“誰かの歩み”が、地の底から這い寄るように、そこにあった。
静は振り返らない。
そこには、誰もいないと分かっていた。
“気配”は、過去から吹く風のようなものだった。
あれは、戦に向かうたびに感じていたもの――自分が“あの場所”へ向かっているという、確かな合図。
「……また来たんですね」
独り言とも、誰かへの語りかけともつかぬ調子で呟いた。
かつて、同じ気配を感じたのは、三河の戦だった。焼け落ちる村を駆けた夜、風の底で刀を振るった時、そして、太一を助けたあの夕暮れ。
“誰か”が見ているとしか思えぬその気配に、背を預けながら剣を振るう。静は、そのたびに思っていた。
――自分は、生きているのか。
それとも、もう死んでいるのか。
今、その問いは不要だった。
足元の地面がわずかに揺れた。敵の大軍が動いている証拠だった。
味方の死が意味するものは、“近くに敵がいる”という事実ではない。あれは、先に“捨て石”として斬られた者たちだ。今川の本隊が、山側の隘路にも備えて部隊を配している証左。
だが、ここには――“本陣そのもの”はなかった。
静の目指すのは、背後。もっと先。山の尾根を越えたところにある、あの“幔幕の中心”。
大軍は、そこにはいない。
――いないように見えるだけだ。
幔幕は虚をつく。指揮官の名は盾となり、囮となり、時に自らを欺く器となる。
「だから、回る」
と、静は言った。誰も聞いていない、声すらないその場所で。
「風は、回ってから吹くんです」
そして再び走り出す。今度は、急だった。
小さな峠をひとつ越えたところで、斬られた竹林が姿を現す。そこには四人、今川の兵がいた。
静が踏み込んだのは、その視界に入る直前だった。
一歩。
音もなく、葉の上を滑るように。
二歩。
そのまま、二番目の男の背に風が吹いたときには、最初の男の喉が裂けていた。
三歩目。
刀を抜こうとした敵の手首が宙を舞う。
「何――!」
四人目の兵の叫びは、刃が首をかすめた瞬間、息の泡に変わった。
わずか五秒。
竹林の風がやみ、再び静けさが戻る。
地に伏す兵のうち、最後の一人が、まだ生きていた。息をひゅうひゅうと鳴らし、瞳を見開いて、静を見つめていた。
静は、しばし見下ろしていたが、やがて膝を折れた。
「……生きたいですか?」
男は目を見開いたまま、わずかに頷いた。
静は、小さく笑った。
「それなら、いいです」
懐から小瓶を取り出すと、男の口元に差し出した。中には、乾燥させた蘇生用の薬草と、水で割った酒が入っていた。
男は、口の端からそれを受け取った。
「ここを越えて、右の尾根伝いに行けば……下山できます。……二度と、戻ってこないでください」
男が頷く前に、静はもう立ち上がっていた。
その背は、まるで何事もなかったかのように、再び“風のなか”へ溶けていった。
※
空はもう、午後の色になっていた。
陽は昇り、戦の最中にあっても、時間は容赦なく流れる。雨は止み、ぬかるみだった山道はわずかに乾きつつあったが、それでも足元の不安定さは変わらなかった。
静は、地図にはない小径を使って本陣の背後へと迫っていた。
敵の配置に“穴”があることは分かっていた。奇襲というのは、敵が不意を突かれたというより、“突かれる場所に気づかないまま配置した”時に成功する。
「気づいてないのではなく、気づけないんです。そこが、“隙”じゃなくて“罠”だったら困りますから」
そう呟いて笑う静の口元は、皮肉にも静かだった。
“影走り”は、正面から戦う剣ではない。
全体の動きのなかで、誰も見ていない場所へ斬り込む――その剣は、戦の“形”そのものを変える役割を負っていた。
……やがて。
視界が開けた。
尾根を抜けると、下に幔幕が見えた。今川の軍旗が並び、太鼓の音がかすかに聞こえる。
だが、その音が整っていない。
指揮命令が交錯し、動きに乱れが出始めている。つまりは、信長本隊の奇襲に動きがあったということだ。
矢野が動いた。太一が駆けた。
「……繋がった」
静は、低くそう言った。
自分の役割が、“奇襲の補完”であることを理解していた。
信長本隊が前から突き上げ、全軍がそちらに引き寄せられた隙に、後ろから“もうひとつの刃”が突き立つ。正面突破と背面襲撃――二つが噛み合えば、本陣は瓦解する。
その役割を、“名もなき剣”が担っていた。
静は、ゆっくりと息を吸った。
「矢野さん」
声は空へ、風へ、どこへともなく消えた。
「僕は、あのときからずっと――こうなることを知っていた気がします」
言葉は、誰にも届かない。
届くことを、望んでもいない。
剣を抜く。
白装束の裾が、風に揺れた。
この場所には、誰もいない。
静かすぎる幔幕の裏側。小さな兵站用の通路。そこを越えた先に、本陣の背がある。
ふと、一本の槍が突き出された。
待ち伏せ。
静はそれを跳躍でかわし、着地と同時に斬った。
反応した者たちが三人、幔幕の影から現れた。
が、反応する“前”に斬られていた。
一人目の首。
二人目の喉。
三人目の胸。
その全てが、音を立てる前に沈んだ。
静は無言で幔幕の隙間をすり抜けた。
そこには、指揮幕の一角があった。
戦場の中心。
この剣が届く場所。
血の臭いがした。
幔幕のなかで、剣を持つ者がいる。
それが“ただの兵士”でないことは、空気の重さで分かる。
敵将がいる。指揮の中核が、ここにある。
静は、そこへ足を踏み入れた。
“何か”が、確かに終わり始めていた。
風が止んだ。
白装束の剣士が、今、戦場の“心臓”へと至る。
――土が、まだ生きている。
足の裏に感じるのは、水を含んで軟らかくなった山肌。つい先ほどまで雨が打っていた地面には、いくつもの足跡が乱れており、それらはどれも、恐慌と焦燥にまみれていた。
静はその上を、まるで風のように駆けていった。
体を締める白装束はすでに泥に染まり、裾には破れ目がいくつもできていた。腕に巻いた晒しは血を吸い、その重みを増している。けれど、彼の動きに躊躇いはない。どれほど濡れていても、刃の切っ先が曇ることはない。戦の中にあって、命の在処を鋭く嗅ぎ分けている者のそれだった。
それは、人を斬る者の歩き方だった。
呼吸を潜め、地形の起伏を読んで、木立の間を縫う。一本一本の木が、風の流れを変える。そのわずかな狂いをも、静は目で見ず、足で知る。視線は前ではなく、つねに斜め上に。枝の揺れが何を意味するのかを、風音の高さがどこに潜む者の気配を知らせるのかを、正確に捉えていた。
彼の任は、本陣の背後に回り込み、敵に混乱をもたらすこと。
それは“本隊の奇襲”を支えるための“影走り”――。
表から打つ信長の鉄槌に対し、裏手から風となって揺さぶりをかける。正面から討っては届かぬ深層を、影となって穿つ。
誰にも知られず、誰にも見られず、ただ結果だけを遺して、姿を消す。
そんな“存在してはならない存在”を演じること。それが、静に託された役目だった。
「……人が斬られたあとは、風が変わる」
そんなことを、かつて誰かが言っていた気がした。
静は立ち止まり、わずかに顔を上げる。山道はこの先で二手に分かれていた。左はなだらかな斜面を登る道。右は竹林の中を縫う、獣道のような細い道。どちらが本陣の背に近いかは、地図を読まずともわかっていた。
だが、そこに何があるかは、わからなかった。
静は迷わない。右に折れ、笹の音の奥へと消えていった。
※
同じ時刻――。
戦場の中央では、信長本隊の動きが加速していた。
先鋒の騎馬が、急斜面を駆け降りる。矢野と太一もまた、その集団の中にいた。
「……降りるぞ!」
風の音に混じって、太一が叫んだ。濡れた岩肌を見下ろしながら、彼は馬を駆る。斜面を踏み外せば、そのまま転がり落ちて命を落とす可能性もある。だが迷っている時間はなかった。戦は動いている。それも、取り返しのつかない速度で。
「矢野!」太一が振り返らずに呼ぶ。
矢野は応えず、ただ鞍上で体を沈め、馬を叱咤した。
泥と水が跳ねる音。笹が折れる音。前方で誰かが転倒したらしい悲鳴が聞こえる。そのたびに、何かが終わっていく感触が、地の底から這い上がってきた。
だが――。
「……静は、もっと先にいる」
矢野は小さく呟いた。誰に聞かせるでもないその言葉は、霧のように喉の奥で溶ける。太一も、振り向きはしない。
静は、すでに“向こう側”にいた。
※
竹林の奥で、静はひとつの骸と出会っていた。
また、味方の斥候だった。顔を半分、土に埋めたようにして伏している。背には矢が一本。角度からして、逃げる途中で撃たれたのだろう。だが、斥候は死に際、己の足元に短い目印を刻んでいた。
「――敵、右上段に伏兵あり」
それだけを、枯れ枝で土に書き遺していた。
静はその跡を指でなぞる。やわらかい土は、すでに風でわずかに崩れかけている。けれどその文字には、確かな意志があった。生きては還れぬことを悟った者が、それでも“後に続く者”のために残した証。
その覚悟を前に、静は黙して、斥候の目をそっと閉じた。
「ありがとう」
声はなかった。口も動かなかった。けれど、風が一瞬止んだ。
静は再び立ち上がる。指先に、冷たい血がついていた。斥候のものか、それとも――己のものか。分からなかった。
だが、分かる必要もなかった。
「僕が戻らなかったら、名は残さないでください」
そう告げた夜の言葉が、胸の奥で凍てついていた。死をもって終わる旅ならば、それでいい。ただ――剣が、誰かの“祈り”ではなく、誰かを“救ったことになる”ような記録にだけはなりたくない。それが、彼の切実な願いだった。
静は、足を踏み出した。
斥候が示した方角へ。伏兵の存在を踏まえ、さらに高みを目指して、影を縫うように。
※
戦場の空が、急に明るくなった。
雲が割れたわけではない。だが、風向きが変わったのだ。湿った南風から、乾いた北風に。矢野は騎馬の上で、その変化に気づいた。
「……来たな」
太一が、横でぽつりと言う。
「静が動いた」
根拠はない。だが、そう思えた。風はただの空気の流れではない。そこには、誰かの足音が混じっていることがある。
信長本隊が丘を越えたその時、遠くで火の手が上がった。
それは、敵陣の背――本陣近くの警備小屋が燃えていた。
風が、騒ぎを伝えてくる。
太一と矢野が、同時に顔を上げる。
その先にあるのは、静が今まさに踏み込もうとしている“中心”だった。
※
尾根筋から滑り降りるようにして、静の身体は再び森の奥へ沈んでいった。風が吹いていた。だがそれは、枝葉を揺らす外の風ではない。自らが纏う衣を、心の裡から逆巻かせる風。呼吸と、歩幅と、鼓動。敵の気配が薄れ、獣道のような傾斜が続くなか、静の耳はただ一つの音を拾っていた――土を蹴る、己の足音。
白装束は既に灰色に近かった。泥が跳ね、引き裂かれ、袖口は血を吸い込み重たく垂れている。にもかかわらず、歩みは緩まない。いや、歩みではない。地を蹴り、幹を避け、影と一体となって進むその動きは、“走る”という言葉ですら追いつけない、流れる刃のようだった。
森を抜ける。その手前、右手に転がる味方の亡骸を、静は立ち止まり、わずかに膝を折って見下ろした。
若い。血はすでに乾き、口元には土がこびりついている。眼は開かれたままだった。そこには恐怖ではなく、何かを見据えた意志が残されていた。
「あなたも、ここまで……」
誰に聞かせるでもない声。静は、そっとその眼を閉じた。指先に触れた皮膚はまだ、冷たさよりも温もりの方が勝っていた。
右手の小指が、欠けている。刀傷ではない。自ら噛み切ったものだと、直感で理解した。情報を口にできぬよう、あるいは、“死”を自覚した証として。
見知らぬ兵士の命。その終わりに添えられた小さな決断を、静は剣より重く感じた。
「僕はあなたのように、死ねるだろうか」
独り言のような呟きだった。だが、それは己に向けられた問いでもあった。
静にとって死ぬことは、恐ろしいことではなかった。生きて斬ることの方が、よほど苦しかった。だがその先に、「死ぬことすら誰にも知られず、名も遺されぬこと」があるとすれば――それは、ほんとうに“在った”と言えるのか。
その問いに、答えるように風が吹いた。葉がざわめく。視界の先に、わずかに陽が差す。尾根の向こうが、開けていた。
静は立ち上がる。手の中の柄を、わずかに握り直す。
そのときだった。
――かすかな音。右手から、ふたつの足音が近づいてくる。重さがある。歩哨か、それとも――
息を殺すまでもない。静の動きは、影のようだった。
音はほとんど立たなかった。音を立てずして、先に走る者の首筋を裂く。もう一人は反射的に振り返るも、音もなく踏み込んだ白影が、首を斬らずに口元を覆う。
「……なぜ、しゃべらない」
静が囁いたのは、敵兵の耳元だった。
呻き声ひとつ漏らさず、抵抗すらしなかった男は、わずかに首を振った。目が、涙で濡れていた。
敵ではなかった。まだ少年と呼べる顔立ちのその者は、味方と同じ紋をつけていた。
「寝返ったのか」
問いの続きは、聞けなかった。彼の首筋から、血が流れ出していた。最初の刃を抜かずとも、最初の一撃は、致命だったのだ。
「……ごめんなさい」
静の声は震えていなかった。だが、指先が僅かに揺れていた。何人目だろう。何度目だろう。“敵ではない者”を斬ったのは。
それでも、止まれなかった。
その剣が向かうべきは、名ではなく、中心だった。
敵軍の“中心”。指揮を執る者、戦況を動かす者。今川義元。その幔幕の場所は、既に地図で把握していた。斥候が命と引き換えに残した情報。静の背には、それが刻まれていた。
土の匂いが変わる。風が切れる。足元が粘つく。戦の音が遠ざかり、代わりに聞こえるのは、幔幕のなかでかわされる命令と、馬のいななき、そして――恐怖を堪えた兵たちの息遣いだった。
敵本陣は、すぐそこだった。
剣を抜く。鞘を背へと投げる。
白装束の影が、木々の狭間を裂いて、音もなく駆けた。
“その瞬間”を迎えるために。
“終わり”の名のない風になるために――。
足音すら吸い込むような、土と湿気に沈んだ山路だった。
雨の名残は地を黒く濡らし、草葉の縁に光を帯びた露が揺れている。風はない。虫も鳴かぬ。まるでこの道が、もともと誰の往来も許されていなかったように――静は、そのなかを駆けていた。
白装束はすでに白ではない。雨を吸い、土を含み、露に濡れて、衣は重く肩に貼り付き、裾は泥にまみれていた。
だが、静の足取りは止まらない。ひとり、本陣の背後を突く“影走り”の役を受けたその体は、躊躇も怒気もなく、ただ静かに“そこへ至るべき”という確信に突き動かされていた。
――ここが、本陣の背。
耳を澄ますまでもなく、わずかにだが、兵たちのざわめきが木々の間から滲み出てくる。かすかな声、金物の触れる音、馬の鼻を鳴らす気配――そのすべてが、この森の“こちら側”とは別の位相にあるように、遠い。
静は立ち上がった。
――風になる。
誰に見られることもなく。誰に記されることもなく。
“風”として走り、“風”として斬り、“風”として、死地へ至る。
その先に、命があるかどうかではない。ここに残された命の“分まで”、ただ最後まで走る。それが、死者たちとの約束であり、矢野や太一との誓いであり、自らの剣に課した義務だった。
森を抜ける手前、ふと振り返ると、陽が一条だけ差していた。
木々の葉の隙間から注ぐその光は、雨後の蒸気と入り交じって、わずかに虹のような輪郭を生んでいた。
“それは、生きている者だけに見える光だよ”
――そんなことを、誰かがかつて言っていた気がする。
静は目を細め、そこに目をやった。
だがその目には、どこにも安堵は宿っていなかった。むしろ、その光の向こうに、闇を見た。命が終わる場所の、黒く、深く、底の見えない、裂け目のような闇を――。
そして静は、そこへ向かって走り出した。
土が跳ねる。露が散る。枝が裂ける。
遠く、矢野たちの突撃の音がする。鼓が鳴り、馬が駆け、兵たちの咆哮が山を震わせている。
すべてが同時に動き出す――戦の刻限。命の交差。その渦の最奥に、彼はいた。
その剣は、誰にも見えない場所で。
だが確かに今、中心へと――迫っていた。
※
その頃、山腹を抜けて合流した信長本隊では、すでに決死の突撃が始まっていた。
「まだ上るな、上るな! 合図まで、矢野、引け!」
太一が叫ぶ。矢野はその隣で、息を殺して槍を構える。
正面からの突撃。矢野と太一の隊は“先駆け”の役目を与えられ、信長本隊の動きと連動して敵陣を崩す“本命の牙”となる予定だった。
「合図はまだだ。静が動いてから、俺たちは“楔”になるんだ」
矢野はうなずく。太一の表情に、かつて見たことのない緊張が宿っていた。
すぐに、麓のほうから鬨の声が上がる。
――信長だ。
「全軍、前へ!」
その号令に、すべてが動き出した。
※
静が目指すのは、本陣の背後。
その一角は、警戒が薄く、谷を超える道がただ一本あるのみ。人ひとりが通るのがやっとの幅で、かつての山僧が使っていた古道に似ていた。
草が靴の裾にからみつく。
雨で濡れた土は滑りやすく、時折、足音を消しきれない。
けれど――構わない、と静は思った。
この場所に、耳を澄ます者などいない。
ここは“敵の意識の外”なのだ。だからこそ、ここを通る意味がある。
その道の途中、倒木の陰からひとつ、赤い布切れが覗いていた。
静は歩みを止め、それを拾う。
味方斥候の衣の一部だ。破れた端に、指がひとつぶんほどの血の跡。
その先には、誰の足跡もなかった。行き止まりのように見えるが、よく見れば、踏みならされた土がある。
――ここを抜ければ、本陣の背中がある。
そのとき、風が吹いた。
ひときわ強く、冷たい風だった。
夏の始まりを忘れさせるような、あまりに静かな風。
この風が、どこから吹いてきたものか。誰にもわからない。
けれど、静には、わかった気がした。
風は、ただの風であれと願った。誰にも届かず、何も傷つけず、ただ通り過ぎるだけの風であれと。
しかしそれでも、この風が、誰かの記憶にだけは残るのだとすれば――
それは、誰かが“斬られた”からではなく、誰かが“生き延びた”からにほかならない。
静は剣の柄に手を添える。
指が、乾いた血に触れた。
何人目かも、もう数えていない。
ただ、これが最後であるようにと、そう願った。
道は、もう道ではなかった。
斜面というにはあまりにも角度が鈍く、谷というには開けすぎている。木々の根が土を引き裂き、幾筋ものぬかるみに、獣の骨と折れた槍とがまぎれていた。何十という兵が行き交い、踏み荒らし、命を落とし、流れていったのだと――ただ、それだけで分かる。
沖田静の足は、もはや音をたてていなかった。泥濘に踏み入り、腐葉を蹴りあげながらも、その身の動きはまるで――風が地を這うような、密やかな歩みだった。
白装束は、もはや白くはなかった。
血の痕跡は既に乾ききり、風に晒されて硬くなっている。泥に濡れ、湿り気を含み、重ささえある。裾を引きずるごとく歩きながらも、静の目は上がることなく、前だけを見据えていた。
いや、見るというより――“読む”ように。
風の流れ、葉の揺れ、虫の音。あらゆる兆しを読み取るその眼差しは、どこか修験者めいていた。生き残るための術ではなく、“進むため”の術を身につけた者の目だ。
そしてその瞳の奥に宿るのは――死ではない。
「生きよう」とする意志でもなかった。
ただ、“そこに辿り着こう”とする、それだけの光。
足元で、何かが折れた音がした。見下ろすと、味方の死体があった。二人。片方は首を斬られ、もう一人は胸に短刀が突き立ったまま、倒れている。どちらもまだ新しい。
静は立ち止まり、ゆっくりと膝を折れた。
斬られた兵の顔には驚きの表情が刻まれていたが、もう一人の男の目だけは、うっすらと笑っていた。見覚えがあった。あの夜、焚火を囲んだ一団のひとりだ。静よりも五つほど年上。斥候の技に長けていた。
彼の指先は、地面を掻くように伸びていた。
その指先が、何かの“形”を描いていた。
静は泥を拭い、そのかすれた線の残骸をなぞった。
――『おまえ、いけ』
そう読めるような、そうでないような、曖昧な線だった。
静はひとつだけ、ため息に似た息を吐いた。深くではなく、浅く、まるで自分の胸を掻くような呼気だった。
そのまま、彼は男の目を閉じさせる。
そして言う。
「……任せてください。誰にも斬らせません。もう誰も、ここを通しませんから」
その声は、風のなかに吸い込まれていった。
剣を抜く。刃は、土で汚れていた。だが、それも構わない。静はただ、肩にかかる装束の襞を直し、再び歩き出す。どこまでも、沈黙のなかで。
“死にに行く”のではない。
“終わらせに行く”――そのための歩みだった。
背後から風が吹いた。
否、ただの風ではない。人の気配だった。音もなく、湿り気もなく、だが確かに“誰かの歩み”が、地の底から這い寄るように、そこにあった。
静は振り返らない。
そこには、誰もいないと分かっていた。
“気配”は、過去から吹く風のようなものだった。
あれは、戦に向かうたびに感じていたもの――自分が“あの場所”へ向かっているという、確かな合図。
「……また来たんですね」
独り言とも、誰かへの語りかけともつかぬ調子で呟いた。
かつて、同じ気配を感じたのは、三河の戦だった。焼け落ちる村を駆けた夜、風の底で刀を振るった時、そして、太一を助けたあの夕暮れ。
“誰か”が見ているとしか思えぬその気配に、背を預けながら剣を振るう。静は、そのたびに思っていた。
――自分は、生きているのか。
それとも、もう死んでいるのか。
今、その問いは不要だった。
足元の地面がわずかに揺れた。敵の大軍が動いている証拠だった。
味方の死が意味するものは、“近くに敵がいる”という事実ではない。あれは、先に“捨て石”として斬られた者たちだ。今川の本隊が、山側の隘路にも備えて部隊を配している証左。
だが、ここには――“本陣そのもの”はなかった。
静の目指すのは、背後。もっと先。山の尾根を越えたところにある、あの“幔幕の中心”。
大軍は、そこにはいない。
――いないように見えるだけだ。
幔幕は虚をつく。指揮官の名は盾となり、囮となり、時に自らを欺く器となる。
「だから、回る」
と、静は言った。誰も聞いていない、声すらないその場所で。
「風は、回ってから吹くんです」
そして再び走り出す。今度は、急だった。
小さな峠をひとつ越えたところで、斬られた竹林が姿を現す。そこには四人、今川の兵がいた。
静が踏み込んだのは、その視界に入る直前だった。
一歩。
音もなく、葉の上を滑るように。
二歩。
そのまま、二番目の男の背に風が吹いたときには、最初の男の喉が裂けていた。
三歩目。
刀を抜こうとした敵の手首が宙を舞う。
「何――!」
四人目の兵の叫びは、刃が首をかすめた瞬間、息の泡に変わった。
わずか五秒。
竹林の風がやみ、再び静けさが戻る。
地に伏す兵のうち、最後の一人が、まだ生きていた。息をひゅうひゅうと鳴らし、瞳を見開いて、静を見つめていた。
静は、しばし見下ろしていたが、やがて膝を折れた。
「……生きたいですか?」
男は目を見開いたまま、わずかに頷いた。
静は、小さく笑った。
「それなら、いいです」
懐から小瓶を取り出すと、男の口元に差し出した。中には、乾燥させた蘇生用の薬草と、水で割った酒が入っていた。
男は、口の端からそれを受け取った。
「ここを越えて、右の尾根伝いに行けば……下山できます。……二度と、戻ってこないでください」
男が頷く前に、静はもう立ち上がっていた。
その背は、まるで何事もなかったかのように、再び“風のなか”へ溶けていった。
※
空はもう、午後の色になっていた。
陽は昇り、戦の最中にあっても、時間は容赦なく流れる。雨は止み、ぬかるみだった山道はわずかに乾きつつあったが、それでも足元の不安定さは変わらなかった。
静は、地図にはない小径を使って本陣の背後へと迫っていた。
敵の配置に“穴”があることは分かっていた。奇襲というのは、敵が不意を突かれたというより、“突かれる場所に気づかないまま配置した”時に成功する。
「気づいてないのではなく、気づけないんです。そこが、“隙”じゃなくて“罠”だったら困りますから」
そう呟いて笑う静の口元は、皮肉にも静かだった。
“影走り”は、正面から戦う剣ではない。
全体の動きのなかで、誰も見ていない場所へ斬り込む――その剣は、戦の“形”そのものを変える役割を負っていた。
……やがて。
視界が開けた。
尾根を抜けると、下に幔幕が見えた。今川の軍旗が並び、太鼓の音がかすかに聞こえる。
だが、その音が整っていない。
指揮命令が交錯し、動きに乱れが出始めている。つまりは、信長本隊の奇襲に動きがあったということだ。
矢野が動いた。太一が駆けた。
「……繋がった」
静は、低くそう言った。
自分の役割が、“奇襲の補完”であることを理解していた。
信長本隊が前から突き上げ、全軍がそちらに引き寄せられた隙に、後ろから“もうひとつの刃”が突き立つ。正面突破と背面襲撃――二つが噛み合えば、本陣は瓦解する。
その役割を、“名もなき剣”が担っていた。
静は、ゆっくりと息を吸った。
「矢野さん」
声は空へ、風へ、どこへともなく消えた。
「僕は、あのときからずっと――こうなることを知っていた気がします」
言葉は、誰にも届かない。
届くことを、望んでもいない。
剣を抜く。
白装束の裾が、風に揺れた。
この場所には、誰もいない。
静かすぎる幔幕の裏側。小さな兵站用の通路。そこを越えた先に、本陣の背がある。
ふと、一本の槍が突き出された。
待ち伏せ。
静はそれを跳躍でかわし、着地と同時に斬った。
反応した者たちが三人、幔幕の影から現れた。
が、反応する“前”に斬られていた。
一人目の首。
二人目の喉。
三人目の胸。
その全てが、音を立てる前に沈んだ。
静は無言で幔幕の隙間をすり抜けた。
そこには、指揮幕の一角があった。
戦場の中心。
この剣が届く場所。
血の臭いがした。
幔幕のなかで、剣を持つ者がいる。
それが“ただの兵士”でないことは、空気の重さで分かる。
敵将がいる。指揮の中核が、ここにある。
静は、そこへ足を踏み入れた。
“何か”が、確かに終わり始めていた。
風が止んだ。
白装束の剣士が、今、戦場の“心臓”へと至る。



