名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第二十一話「曇天の道程」

 永禄三年五月十九日。正午。
 戦が始まった。
 朝からの強い雨がようやく止んだものの、空は灰色の雲で覆われたまま、太陽の所在すら分からなかった。地面はぬかるみ、草の根には泥がまとわりついている。風は、吹いていない。いや、吹く直前の“溜め”のような気配が、大地全体を包んでいた。
 善照寺砦から、織田軍の一団が走る。
 隊の先頭には、騎馬兵たちがその蹄音を響かせていた。
 そのうしろを、歩兵が駆ける。
 矢野蓮も、その一人だった。
 彼の横には太一がいた。
 肩に弓を背負い、手にはまだ矢をつがえていない。
 顔には煤がつき、泥に濡れた睫毛が、ひどく重たそうだった。
「……静は」
 太一が呟いた。
 矢野は答えなかった。
 静が、すでに別動の裏道から前線に向かっていることは分かっていた。
 だが、彼が“どこまで生きているか”は、誰にも分からなかった。
「まだ……剣を抜いてないと、思うか?」
「……抜いてるさ」
 矢野の声は低かった。
「もう、誰にも届かない場所で――とっくに」
     ※
 太陽のない空の下で、戦場は動き始めた。
 織田信長は、奇襲を決行する。
 田楽狭間の谷を縫って動いたその軍勢は、湿った斜面を突き進む。
 兵の足元は泥に沈み、兜の縁から雨水が滴った。
 けれど、誰も止まらなかった。
「敵の目は、上だ」
 矢野の声に、誰かがうなずいた。
「本隊の動きに集中してる。俺たちは、見られていない」
 その“見られていない”という言葉が、なぜか矢野の胸を刺した。
 ――静も、同じだ。
 彼もまた、“誰にも見られない場所”から、剣を振るっている。
 その剣は、誰のためでもなく。
 その行いは、記録にも、証言にも残らない。
 だが、だからこそ――戦の“流れ”を決定づける。
     ※
 森の縁で、太一が立ち止まった。
「……おい、矢野」
「なんだ」
「……この道、通った覚えがある」
「そりゃそうだ。先週、偵察で通ったろ」
「いや、違う」
 太一の声が震えていた。
「静が――通った道だ」
 矢野の足が止まる。
「どうして分かる」
「矢が落ちてた。俺の羽根だ。……俺が、あいつに渡した一本」
 その一瞬、周囲の時間が止まったように感じた。
 太一はその矢を拾い上げ、羽根の先を見た。
 かすかに泥と血がついていた。
 けれど、折れてはいなかった。
「……生きてるのか……? 静」
 太一の呟きに、矢野は答えなかった。
 風が、そのとき吹いた。
 はじめは、ごく微かなものだった。
 だが、たしかに――風が、戦場の空気を動かし始めていた。
     ※
 斜面の向こうで、音が弾けた。
 槍の音でも、馬の蹄でもない。
 ――剣が、空を裂く音だった。
 尾根の上に、白い影があった。
 敵兵の叫びが混じる。
「なんだあれは――」
「白い……鬼か、化け物か……」
 誰かがそう叫んだのを、太一が確かに聞いた。
 矢野が駆け出す。
 視線の先には、まだ形を持たない“何か”がいた。
 霧と煙のなかに差す一筋の動き。
 それは、まるで“誰か”ではなく、“風そのもの”だった。
「静……!」
 矢野の喉から声が漏れたが、その瞬間、敵兵が横から躍りかかってくる。
 太一が弓を構え、矢を放った。
 敵兵は喉を貫かれ、倒れる。
 血が、地面に音を立てて広がった。
「今の、見たか?」
 太一が息を荒げて言う。
「何人もいたのに、斬られたやつは声を上げなかった。まるで――“斬られたことに気づいてなかった”みたいに」
「……静らしいな」
 風が再び、吹いた。
 そしてまた、白い剣が動いた。
 ――斬られた者は、立ったまま崩れた。
 ――斬った者は、何も言わなかった。
 その姿を、誰かがこう記すだろう。
「戦のただなかに現れ、戦の流れを変え、名を残さず、消えた剣士がいた」と。
 けれど矢野には、分かっていた。
 それは、“誰か”ではない。
 それは、“沖田静”だった。
 名を持たない剣が、“誰かの命”を守るためではなく、
 ただ“人間として在ること”を証明するために斬った結果だった。
     ※
 その剣は、風よりも速く。
 その目は、涙をすでに忘れたように乾いていた。
 静は、“死ぬために”剣を抜いたのではなかった。
 “斬らずにすむ最後の瞬間”があると、
 ――どこかで信じていた。
 敵の列の間を縫い、静は進んだ。
 振り返らなかった。
 味方の叫びも、敵の罵声も届いていなかった。
 ただ、ある一点へ。
 この戦の終着点へ。
 あの名を持たない剣が、辿り着くべき場所へ。
     ※
 戦のど真ん中で、空が開いた。
 誰かが叫んだ。
 誰かが倒れた。
 けれど、どの声も矢野の耳には届かなかった。
 ただ一つの姿だけが、そこにあった。
 ――白。
 遠く遠く。視界の最先端で白装束の剣士が、まっすぐ敵陣に踏み込んでいた。
 泥の上を滑るように進み、矢が飛び交うなかでも、一歩も退かず。
 斬るたびに血は舞う。
 だが、不思議と、その姿には“血の匂い”がなかった。
「矢野!」
 太一が後方から駆け寄る。
「おい……あれ、やっぱり……!」
「静だ」
 矢野は言った。
「誰よりも早く、誰よりも深く、この戦の中に入ってる」
「でも……おかしくないか? あの動き……」
 太一の言葉は言い終わらなかった。
 静が斬った相手――敵兵が倒れなかったのだ。
 否、斬られたのに、ただ立ち尽くしていた。
 まるで、自分が命を奪われたことに、まだ気づいていないかのように。
「……“斬らなかった”んだ」
 矢野が呟いた。
「なに?」
「その剣は、“命”を斬ってない。……あいつは、いつか俺が言った、“人を斬らずにすむ剣”を、体現しようとしているんだ……」
 太一が言葉を失う。
 敵兵がよろめき、倒れた。
 その胸には深い裂傷。
 けれど、不思議と苦痛の声が上がらなかった。
 静の剣は、“怒り”も“叫び”も、引き出さなかった。
 ただ“消えた”。
     ※
 その時だった。
 空から、矢が一本、落ちてきた。
 風に乗り、何かに導かれるように――太一のすぐ脇に突き刺さった。
「……俺の矢だ」
 太一が呟いた。
「……あいつに渡した、もう一本」
 矢の羽根は濡れていた。けれど、破れてはいなかった。
 折れてもいなかった。
 それは、まるで――
「“返された”みたいだ」
 矢野も見つめていた。
「矢で“語る”ってことか。……あいつは、もう、言葉を持っていない」
「なら……なんだよ、これ」
「“終わりの合図”かもしれない」
 矢野の声は、ひどく静かだった。

     ※
 太一は、膝を折った。
「なあ、矢野……縁起でもねぇが、もし、今の静がこのまま戦場で消えちまったらさ」
「……ああ」
「俺たちだけが、“沖田静”を覚えてることになる」
「そうだな」
「じゃあ、いつか誰かに問われたら、なんて言うんだよ」
 矢野は、少しだけ考えた。
 それから、ぽつりと答えた。
「“誰も知らない剣が、ここにいた”って」
 太一は目を伏せた。
「……それだけか」
「それでいい。あいつが、それを望んだんだ」
「でも、それじゃあまりに、……報われねぇだろう……」
 矢野は、空を見上げた。
 曇天。
 灰色の雲。
 光がどこにも届かない、均質な空。
 だが――その曇り空のどこかに、“白い何か”が溶け込んでいく気がした。
     ※
 その日、名もなき剣士は戦場を抜けていった。
 生きて戻った者の記憶にだけ残り、軍記には記されず、報告書には名を載せられなかった。
「……風が、吹いていた」
 誰かがそう呟いたという。
 戦の最中、風が止んでいたはずのあの午後。
 ただ一筋の、名を持たぬ剣が通り過ぎたとき――
 その刹那だけ、風が確かに、吹いた。