名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第二十話「終焉の約束」

 曇天の幕が、空に張られていた。
 夜明けはとうに過ぎたが、山の稜線を照らす光は濁っていて、風も、鳥も、音を失くしていた。空気の底に、ひとすじ、刃のような緊張だけが流れていた。
 野営地のなかでも、その静けさは異様だった。
 いつもなら兵たちの声や馬の鼻息が交じり、草を踏む足音が絶えず響いているはずだった。
 けれどその朝は、誰もが必要以上の言葉を持たなかった。いや、言葉にすれば、なにか大切なものが崩れてしまうような、予感めいたものが、空気に漂っていた。
 焚火は、もう燃えていなかった。
 火の名残のように赤い灰のなかに、まだ微かな温もりが残っている。
 太一はその傍に座り込み、短く削った矢の羽根を撫でていた。
 矢野蓮は、静の横にいた。
 静は横たわってはいなかった。布を巻いた上衣を背に当て、上体を起こしていた。顔色はまだ蒼白で、唇は色を失っていたが、それでも目ははっきりと開いていた。
「風が止みましたね」
 静が、ぽつりと言った。
 矢野は、その声の意味を理解できずにいた。
「……戦の前は、たいてい吹くもんじゃないのか」
「でも、今日は違う。――風が、静かに待っている」
「……何を」
「命が、吹かれるのを」
 静は、少しだけ笑った。
 矢野はその表情に、はじめて“死者の貌”を見た気がした。
 生をあきらめた顔ではない。死を受け入れた者の表情でもない。
 ただ、自分が“人間ではない場所”へ歩いていくのを、静かに肯定する者の――その顔だった。
「戦が終わったら、もう一度……ここで会いましょう」
 その言葉は、唐突だった。
 矢野の喉が、かすかに震えた。
「……本当に、会えるんだよな?」
「矢野さん。僕は――」
 言葉を止めて、静は目を閉じた。
 何かを断ち切るように、言葉を選び直す。
「僕は、戻ってきます」
「静……」
「帰りますよ、矢野さんのもとに」
 静の返答は、あまりにも静かだった。
 その静けさが、矢野のなかの燻りを、何もかも打ち砕いていった。
「それでももし――僕が帰らなかったら、名は残さないでください。僕が、帰ってきたら――その時は、名を捨てさせてくれませんか?」
「……剣を捨てるのか」
「捨てはしません。でも、……そうですね。少し、距離を置いてみるのもいいですね。もう、僕は奪い、奪われすぎました」
 困ったように眉尻を下げる静に、蓮の心は引き裂かれるようだった。
「そんときは……俺がなんとでもしてやる。戸籍も名もなくとも、”人”としての人生を取り戻すことはできるさ」
 矢野は力強く言い切った。
 静はこくりと頷く。
 そして、太一の方を向いた。
「太一さん、弓を……貸していただけませんか」
 太一は黙っていた。
 けれど、すぐにその荷から予備の弓を手に取ると、そっと静の膝に置いた。
「ありがとうございます」
「しかし静、お前さん、弓使いじゃねぇだろう」
「時が来たら……わかります」
 静がそう言ったとき、その声は、少しだけ震えていた。
 だがそれは、恐れではなかった。
 迷いでもなかった。
 “ありがとう”――その言葉のなかに、ほんのわずか、“人間としての名残”があった。
 太一は、何も言わなかった。
 矢野も、それ以上の言葉を持たなかった。
 ただ、その時、風がふたたび、吹いた。
 夜が終わり、戦が始まる前の、ほんの一瞬。
 この世のすべてが静止したような、薄明のなかで――
 静は、立ち上がった。
     ※
 出陣を告げる太鼓の音が、山の斜面を震わせた。
 響きは湿り気を帯びていたが、確かに全軍を貫く緊張をはらんでいた。
「……いくのか」
 矢野の声に、静はうなずいた。
 既に彼の顔に迷いはなかった。
 白装束は草の露を吸ってわずかに重たく、傷を包んだ帯もその動きに同調して沈む。
 太一がひとつ大きく息を吐いた。
「静、お前の後ろには俺が、俺たちがいる。忘れるな」
「……ええ」
 静が小さく笑った。
「頼りにしています」
 矢野は何も言えずに、ただその背中を見ていた。
「太一さん」
「なんだ」
「……あなたの矢を、三本ください」
「三本でいいのか」
「三本あれば、十分です」
「何に使うつもりだ?」
「これも、時がくれば。――“届く場所”がある気がして」
 太一は言葉を失っていた。
 それでも、静かに矢を一本、手渡した。
 静はその羽根を確かめるように指で撫でたあと、静かに弓の懐へとしまった。
「戦が終わったら、ここに帰ってくるんだろう?」
 太一が問うと、静は少しだけ考えて――そして、ゆっくりと首を縦に振った。
 矢野が顔をあげた。
「では、ご武運を」
 静の声は、もう迷いのない響きだった。
 その言葉に矢野は思わず息を呑んだ。
 太一は目を伏せ、拳を握った。
 言葉の余韻が消えるより早く、別の鼓が二度、打たれた。
 それは、進軍の合図だった。
    ※
 見上げた空には、灰色の雲が折り重なっていた。
 朝なのに、夜の終わりと区別がつかないほど光が差し込まない。
 出陣する者たちが次々と駆けていく。
 鎧を鳴らし、槍を携え、言葉少なに道を急ぐ。
 だがそのなかで、白装束の者の姿は、異物のように際立っていた。
 矢野と太一は、その背中を見送っていた。
 静は、振り返らなかった。
「なあ、矢野」
 太一がぽつりと声をかけた。
「お前、“死ぬな”って……言わなくてよかったのか?」
 矢野は何も答えなかった。
 その代わりに、ふいに駆け出した。
 小走りで、静の背に追いつく。
「静!」
 ほんの数歩先で、静は立ち止まった。
「……矢野さん?」
「……死ぬな」
 矢野は、真正面からそう言った。
「――振り返らなくていい。声も返さなくていい。けど、“死ぬな”。俺は、それだけを言いにきた」
 静は、うっすらと微笑んだ。
「“生きろ”って言われるよりも、重いですね」
「お前にとっては、そうだろうな」
 矢野は、そのまま背を向けた。
 彼にとって、それが最後の背中になる予感はあった。
 けれど、“言うべきこと”は、すべて言えたと思えた。
 白い背中を遠くに見送った蓮に、太一が、弓の弦を軽く張り直しながら訊ねた。
「……お前、あいつに何を見たんだ?」
 矢野は、静の遠ざかっていく背を見ながら答えた。
「“人をやめてまで、人であろうとする奴”だ」
「……皮肉だな」
「皮肉だけど、きっと“あいつなりの祈り”なんだ」
 そして、白装束の剣士は森に入った。
 その歩みは、まるで風が止まる前の静けさのようだった。
 誰も、その剣が最初に振るわれる瞬間を、見届けることはできなかった。
 ただ、その存在が、やがて“伝説”になっていくことだけは、
 この日、風が知っていた。
     ※
 尾根を越える。
 それだけの行為が、これほど遠く感じたのは、いつ以来だっただろう。
 静の脚は、痛みを忘れていた。
 いや、痛みがあることを忘れてしまうほど、周囲の気配が“死”に近づいていたのかもしれない。
 戦の前の、異様な静けさ。
 空気はわずかに濡れている。
 けれど、風は止んだままだった。
 葉は揺れず、鳥の声もない。
 湿った土を踏む音だけが、静かに響いた。
 それはまるで、死者が歩いている音のようだった。
 ――自分は、“あちら側”に渡る。
 静は、その事実を誰よりも早く自覚していた。
 矢野にも、太一にも言わなかったが、自分の中で確かに“終わる音”が聞こえていた。
 脇腹の傷が、少しずつ広がっているのが分かる。
 熱も、引いてはいない。
 けれど、思考は冴えていた。
 手は震えず、視界は澄んでいた。
「――まだ、生きている」
 ぽつりと呟いたその声は、森の奥に吸い込まれていった。
 そのとき、背後から風がひとすじ、追いついてくる。
 森の端を越えた先、斜面が急に開けていた。
 遠くには、敵の陣の気配がある。
 何本もののぼりが、雨に濡れ、灰色の空の下でかすかに揺れていた。
 あの場所まで、あとどれほどの距離があるだろうか。
 戦の本陣には、きっと届かない。
 それでも、自分の剣が“名もなき一閃”として、戦の流れのどこかに混じっていけば、それでいい。
 ――それで、いい。
 静は、一歩踏み出した。
 白装束が風に揺れる。
 そこに、声が届いた。
「死ぬな!!」
 矢野の声だった。
 届くはずがない。気のせいだろう。
 静は振り返らなかった。
 ただ、歩を止めることもなく、声を背に受けたまま、歩き続けた。
 彼は知っていた。
 “振り返らない”ということが、どれほど大きな意味を持つかを。
 それが、“この世界から去る”ということの合図になると知っていた。
 だからこそ、振り返らなかった。
 矢野がどんな顔でいるのかも、知らないままでいることを選んだ。
 ただ、心の中で小さく言った。
 ――ありがとう。
     ※
 道なき山道を抜け、静はひとり、戦場の裏側にたどり着いた。
 足場は悪く、地面はぬかるみ、靴の底から水が染みてくる。
 だが、不思議と足音は響かなかった。
 どこかから、鬨の声が上がった。
 戦が始まった。
 矢野や太一がいる隊も、すでに動き出しているはずだった。
 静は、目を閉じる。
 この身体でどこまで動けるかは、分からない。
 斬れるのは、あと五人か。
 それとも、三人か。
 いや――ひとり、かもしれない。
 それでも、進む。
 この剣が守ろうとしているのは、誰かの“名”ではない。
 命でもない。
 ましてや正義でも、勝利でもない。
 ただ、“人間でありたい”という祈りだけだ。
 その祈りが、たとえ誰にも届かず、記録にも残らず、褒められることも、顕彰されることもなくとも。
 ――「僕が帰ってこなかったら、名は残さないでください。僕が帰ってきたら、その時は――名を捨てさせてください」
 その言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
 それが、静の“終焉の約束”だった。
 剣を、抜いた。
 空は、まだ曇天。
 けれど、その刃は、どこまでも白く、静かに、まっすぐだった。
 その瞬間――
 風が、動いた。
 戦場を駆け抜ける、最初の一閃として。
 そして誰よりも早く、誰にも気づかれず、“伝説”となるために。