第十九話「太一の告白」
夜が深い。
野営地に張られた小さな幕の中で、太一は一人、束ねた酒の入った徳利を見つめていた。焚火台の灰は白く、残り火も薄れている。夜風が吹き込むたびに、火の粉が舞い、煤けた幕を揺らしていた。
太一はゆっくりと呼吸を吐いた。
胸の奥にある熱に気づいていた。
それは怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、記憶の端に刻まれた“呪い”のようなものだった。
――静の言葉。
「軍記に名を残さないでほしい」
その一言が、太一の胸の奥に深く刺さっていた。
彼は毒を飲まされたような気分になった。
名こそが、戦場の行為を意味に変えるということを、静は知っていた。
名を刻まれれば、誰かのために斬ったと記録される。
それが、静の嫌悪する“生き方の証”になる。
太一は徳利を傾けた。酒の香りが鼻をつき、喉を焼く。
いっそ、この刀を捨ててしまいたいと思った。
だが、柄に触れた刃の冷たさが、彼の意志を引き戻す。
※
翌朝――出陣の前夜だった。
太一は、幕を出る覚悟を固める。まだ夜は深い。
「静……」
声を発する前に、自分が泣いているのに気づいた。
頬の汗か涙か判然としない。
顔を上げると、白装束の影が立っていた。
「……太一さん」
静は、いつものように淡々と応えるように微笑んでいた。
けれど、その眼差しがやけに優しかった。
「おま……熱は? 傷は」
「もう……平気です……」
答えた静の顔は、言葉とは裏腹に紙のように白く、足元はふらついていた。
「まだ寝てろ」
「いえ、……戦は回復を待ってはくれませんから」
静は他人事のようにさらりと答える。こうなってしまえば、周囲がどう諭そうと聞かないことは、これまでの付き合いで理解していた。
太一は、思い切って口を開く。
「お前、なんであんなこと言ったんだ?」
静は顔を伏せたが、すぐに視線を戻した。
「”あんなこと”とは」
「”軍記に名を残さないでほしい”ってことだよ」
太一は怒ったように返す。
静は”なんだ、そんなことか”とでも言わんばかりに涼しい顔をしていた。
「“誰かのために斬った”って記録に残るのが、嫌だったからです。……人の命を奪った罪を、栄誉になんかしたくない……」
その言葉に、太一は絶句した。
斬ることは、静にとって“存在の保証”だった。
それは誰かに与えるものではなく、己に対するものだった。
名を持たぬままで、死ぬことを選ぶ剣。
それは――生きている証しすら、誰かに委ねたくないという意思だった。
太一は、涙を飲み込みながら、ただ頷くしかなかった。
※
翌日、兵たちが起床し始めたとき、太一は蓮を呼び止めた。
蓮の顔には疲労が滲み、不安と緊張が混じっていた。
「矢野……ちょっと話がある」
蓮は剣を帯びたまま、静かに太一に寄り添った。
「聞くよ」
太一は、昨夜の幕の中で交わされた言葉を告げた。
「静に確かめた……“名を残さないでくれ”って。……誰かのために斬ったことにされるのが、嫌だって。人殺しを栄誉として扱われたくないんだとよ」
蓮は眉をひそめた。ゆっくり息を吐き、汗ばんだ鞘を見つめた。
「そいつは……お前、どう思う」
太一は言葉を選んだ。
「あいつらしいとは思った。でも、それが罠にも思えたんだ。静の名を語れば、あいつが“誰かのために斬った”って記録されてしまう。それが、あいつの存在を壊すようで――」
蓮が、小さく笑った。
「そうかもしれんな。だけど、名を持たぬことで、人ではいられたのかもしれない、ってのも、理解できるんだ」
その言葉に、太一は昨晩泣いたことを知られたくなかった。
息を止めたまま、目を伏せる。
蓮は優しく肩に触れた。
「……俺たちがどうするかだよな」
太一は、眼を伏せたまま、頷いた。
※
夜の帳が戸口を打ったとき、三人は再び鍋を囲んだ。
干し飯に芋と塩菜。
味は薄かった。けれど、酒があった。
酒の匂いが、三人を繋いでいた。
静は小さな杯を口にし、短く呑んだ。
「──この一合が、最後になるな」
太一が呟いた。
「ええ。でも、飲めて良かったと思います」
静の声は、澄んでいた。
蓮が微かに笑った。口数は少ないが、長い沈黙よりも信頼を宿していた。
「なあ、静」
太一が再び視線を向ける。
「俺、お前の名を語るしかねぇのか?」
その問いに、静は微笑む。
「太一さんが語れば、僕は生きてしまいます。けれど……それは、僕にとって祝福になりますか?」
太一は顔をしかめた。
「それは……祝福じゃねぇかもしれない。だが、嘘にはならねぇ」
静は、深く頷いた。
「ええ。嘘ではありません」
その夜、静の眼に浮かんでいたのは、不安でも恐怖でもなく、決意だった。
※
夜が更け、再び静けさが立ちこめる。
太一は再度言った。
「……矢野、お前、どう思う?」
蓮は、一瞬だけ迷いのような目をした。
「俺は、お前の言葉も、静の意志も、どちらも理解できる。だが、それは――選択だ」
太一は刃の手入れをしながら、視線を蓮に据えた。
「選ぶんだな?」
蓮は頷いた。
「戦が終わった後、もし静が戻らなかったら……俺も、選ぶよ、そのときは」
太一は顔を緩めたが、すぐに真剣な声になる。
「俺は、静が遺した剣を、名ではなく、証しとして残したい」
蓮が視線を下げる。
「……それは、お前にとっての祈りにこそなれど、静にとっての祈りには……ならないかもしれねぇな」
その言葉に、太一は重く頷いた。
※
深夜の焚火が消えかけるころ、三人はそれぞれ刀を手に立ち上がった。
静は、白装束の裾を整えた。
太一は、肩の包帯を確かめた。
蓮は、自らの覚悟を固めた。
その静寂の中で、ふわりと風が吹いた。
誰もそれを言葉にしなかった。ただ、胸の奥に響いた。
――もう、止められない風だ。
そして、静が口を開いた。
「……ありがとうございます。お蔭様でまた、戦場へ出られます」
その言葉が強がりであることは、火を見るよりも明らかだった。
蓮も太一も、それをわかっていたが、何も言わない。
やがて太一が笑った。
「よくぞ、ここまで回復したな」
蓮も微かに笑う。
「静、……お前は強いよ」
夜明け前、雨の気配が空へと戻ってくる。
戦は、もうすぐ始まる。
しかし、風の中には――
静の名無き剣としての存在が、確かに“在った”ことが、永遠のようにきざまれていた。
それは、戦を越え、風を越え、誰かの記憶となるだろう。
――太一の告白は、ただの言葉ではなく、祈りでもあった。
名を持たぬ剣の、唯一の弔いとして。
夜が深い。
野営地に張られた小さな幕の中で、太一は一人、束ねた酒の入った徳利を見つめていた。焚火台の灰は白く、残り火も薄れている。夜風が吹き込むたびに、火の粉が舞い、煤けた幕を揺らしていた。
太一はゆっくりと呼吸を吐いた。
胸の奥にある熱に気づいていた。
それは怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、記憶の端に刻まれた“呪い”のようなものだった。
――静の言葉。
「軍記に名を残さないでほしい」
その一言が、太一の胸の奥に深く刺さっていた。
彼は毒を飲まされたような気分になった。
名こそが、戦場の行為を意味に変えるということを、静は知っていた。
名を刻まれれば、誰かのために斬ったと記録される。
それが、静の嫌悪する“生き方の証”になる。
太一は徳利を傾けた。酒の香りが鼻をつき、喉を焼く。
いっそ、この刀を捨ててしまいたいと思った。
だが、柄に触れた刃の冷たさが、彼の意志を引き戻す。
※
翌朝――出陣の前夜だった。
太一は、幕を出る覚悟を固める。まだ夜は深い。
「静……」
声を発する前に、自分が泣いているのに気づいた。
頬の汗か涙か判然としない。
顔を上げると、白装束の影が立っていた。
「……太一さん」
静は、いつものように淡々と応えるように微笑んでいた。
けれど、その眼差しがやけに優しかった。
「おま……熱は? 傷は」
「もう……平気です……」
答えた静の顔は、言葉とは裏腹に紙のように白く、足元はふらついていた。
「まだ寝てろ」
「いえ、……戦は回復を待ってはくれませんから」
静は他人事のようにさらりと答える。こうなってしまえば、周囲がどう諭そうと聞かないことは、これまでの付き合いで理解していた。
太一は、思い切って口を開く。
「お前、なんであんなこと言ったんだ?」
静は顔を伏せたが、すぐに視線を戻した。
「”あんなこと”とは」
「”軍記に名を残さないでほしい”ってことだよ」
太一は怒ったように返す。
静は”なんだ、そんなことか”とでも言わんばかりに涼しい顔をしていた。
「“誰かのために斬った”って記録に残るのが、嫌だったからです。……人の命を奪った罪を、栄誉になんかしたくない……」
その言葉に、太一は絶句した。
斬ることは、静にとって“存在の保証”だった。
それは誰かに与えるものではなく、己に対するものだった。
名を持たぬままで、死ぬことを選ぶ剣。
それは――生きている証しすら、誰かに委ねたくないという意思だった。
太一は、涙を飲み込みながら、ただ頷くしかなかった。
※
翌日、兵たちが起床し始めたとき、太一は蓮を呼び止めた。
蓮の顔には疲労が滲み、不安と緊張が混じっていた。
「矢野……ちょっと話がある」
蓮は剣を帯びたまま、静かに太一に寄り添った。
「聞くよ」
太一は、昨夜の幕の中で交わされた言葉を告げた。
「静に確かめた……“名を残さないでくれ”って。……誰かのために斬ったことにされるのが、嫌だって。人殺しを栄誉として扱われたくないんだとよ」
蓮は眉をひそめた。ゆっくり息を吐き、汗ばんだ鞘を見つめた。
「そいつは……お前、どう思う」
太一は言葉を選んだ。
「あいつらしいとは思った。でも、それが罠にも思えたんだ。静の名を語れば、あいつが“誰かのために斬った”って記録されてしまう。それが、あいつの存在を壊すようで――」
蓮が、小さく笑った。
「そうかもしれんな。だけど、名を持たぬことで、人ではいられたのかもしれない、ってのも、理解できるんだ」
その言葉に、太一は昨晩泣いたことを知られたくなかった。
息を止めたまま、目を伏せる。
蓮は優しく肩に触れた。
「……俺たちがどうするかだよな」
太一は、眼を伏せたまま、頷いた。
※
夜の帳が戸口を打ったとき、三人は再び鍋を囲んだ。
干し飯に芋と塩菜。
味は薄かった。けれど、酒があった。
酒の匂いが、三人を繋いでいた。
静は小さな杯を口にし、短く呑んだ。
「──この一合が、最後になるな」
太一が呟いた。
「ええ。でも、飲めて良かったと思います」
静の声は、澄んでいた。
蓮が微かに笑った。口数は少ないが、長い沈黙よりも信頼を宿していた。
「なあ、静」
太一が再び視線を向ける。
「俺、お前の名を語るしかねぇのか?」
その問いに、静は微笑む。
「太一さんが語れば、僕は生きてしまいます。けれど……それは、僕にとって祝福になりますか?」
太一は顔をしかめた。
「それは……祝福じゃねぇかもしれない。だが、嘘にはならねぇ」
静は、深く頷いた。
「ええ。嘘ではありません」
その夜、静の眼に浮かんでいたのは、不安でも恐怖でもなく、決意だった。
※
夜が更け、再び静けさが立ちこめる。
太一は再度言った。
「……矢野、お前、どう思う?」
蓮は、一瞬だけ迷いのような目をした。
「俺は、お前の言葉も、静の意志も、どちらも理解できる。だが、それは――選択だ」
太一は刃の手入れをしながら、視線を蓮に据えた。
「選ぶんだな?」
蓮は頷いた。
「戦が終わった後、もし静が戻らなかったら……俺も、選ぶよ、そのときは」
太一は顔を緩めたが、すぐに真剣な声になる。
「俺は、静が遺した剣を、名ではなく、証しとして残したい」
蓮が視線を下げる。
「……それは、お前にとっての祈りにこそなれど、静にとっての祈りには……ならないかもしれねぇな」
その言葉に、太一は重く頷いた。
※
深夜の焚火が消えかけるころ、三人はそれぞれ刀を手に立ち上がった。
静は、白装束の裾を整えた。
太一は、肩の包帯を確かめた。
蓮は、自らの覚悟を固めた。
その静寂の中で、ふわりと風が吹いた。
誰もそれを言葉にしなかった。ただ、胸の奥に響いた。
――もう、止められない風だ。
そして、静が口を開いた。
「……ありがとうございます。お蔭様でまた、戦場へ出られます」
その言葉が強がりであることは、火を見るよりも明らかだった。
蓮も太一も、それをわかっていたが、何も言わない。
やがて太一が笑った。
「よくぞ、ここまで回復したな」
蓮も微かに笑う。
「静、……お前は強いよ」
夜明け前、雨の気配が空へと戻ってくる。
戦は、もうすぐ始まる。
しかし、風の中には――
静の名無き剣としての存在が、確かに“在った”ことが、永遠のようにきざまれていた。
それは、戦を越え、風を越え、誰かの記憶となるだろう。
――太一の告白は、ただの言葉ではなく、祈りでもあった。
名を持たぬ剣の、唯一の弔いとして。



