第十八話「白刃の帰路」
あれから一昼夜が過ぎ、静は戦場へ戻った。
矢野は何度も静の身体を気遣ったが、静はやんわりとそれを制止して白装束に袖を通した。
雨は上がっていた。空にはまだ雲が居座り、太陽の輪郭を隠していたが、土の匂いはすでに湿気を含んでいた。静は山の尾根から、眼下に広がる今川方の野営を眺めていた。そこには、統率された軍が確かに存在していた。動きは緩やかだが無駄はない。焚火が幾つも点在し、兵たちは飯を食い、武具を整え、交替で睡眠を取っている。
静の目は、焚火のひとつひとつを数えるようにして動いていた。彼に与えられた命は、戦線の動揺ではない。中心を穿て。そう、命じられたのだ。
――斬る場所を、選ばねばならない。
彼の動きは、まるで風が草を撫でるようだった。白装束が揺れ、だがその気配は木々のざわめきに紛れた。目立つ姿のはずなのに、彼はまるで夜に消える影だった。
「……中央、焚火の左手。補給の分配所か」
かすかに呟いた声は、雨に濡れた土に吸われていく。
静は、草を一枚一枚踏み分けながら前に出る。腰の白鞘を抜くことはまだしない。刀は斬るためにあるが、今は“斬らぬために”必要なのだ。風を読め。気配を読むな。己を殺せ。そう自分に言い聞かせる。
――ただの影であれ。
森の奥、湿った落ち葉を踏み分けながら、静は山腹を斜めに切って進んでいた。すでに彼は、今川方の野営地のごく近くまで潜り込んでいる。風は止んでいた。空気が重い。虫の羽音も、夜鳥の囀りもない。ここは、ひとりの剣士の息づかいだけが存在を許された空間だった。
焚火の灯りが、木々の隙間から仄かに差す。ふたつ。いや、三つ。薪を組んだ中央には鍋が吊るされ、温まる湯の匂いとともに兵士たちの声が微かに聞こえてくる。
「そっちの芋、もう煮えたか」
「おう、ちょいと焦げ臭ぇな」
無防備ではない。だが、隙はある。今、この時間帯に警戒が緩むのは当然だ。まもなく交替の時刻。兵たちは仮眠を終えて戻ってくる者と、これから眠る者の入れ替わりに備えている。もっとも油断しがちな時間だ。
静はひと息、細く吐いた。
そこには、迷いも、躊躇もなかった。ただ、必要なことをする者の顔だった。感情は、刃の邪魔をする。思考は、速度を鈍らせる。己の輪郭を曖昧にし、視界と意志を、同じ一点に絞らねばならない。
焚火の脇に立つ男が、大きく口を開けて笑った。何か冗談でも言ったのだろう。周囲の兵がそれに応じて笑う。
――いまだ。
静は、腰から白鞘を引き抜いた。
瞬間、草木がざわめいた。
その音は、剣の“間”だった。
一陣の風が、白装束を揺らす。
つい今しがた笑っていた男が、首を刎ねられたまま倒れるのに、周囲の兵たちは一拍遅れて気づいた。
「っ、何――」
声が漏れた瞬間、二人目の喉が斬れていた。声帯を切られ、息を吸うこともできないまま、仰向けに倒れ込む。
三人目、四人目。動き出した者を先に斬る。手を伸ばしかけた者、立ち上がろうとした者、振り返った者。それぞれの首に、胸に、静の白刃が、呼吸のように走った。
火の粉が跳ね、湯がこぼれた。
叫ぶ声はなかった。出す間もなかった。
その一帯の焚火が、突如として消えたかのようだった。
静の足は止まっていない。駆ける。次の火へ。
焦らない。欲張らない。殺しすぎない。
――殺しすぎれば、“声”が届く。
“声”とは、異変だ。殺気が走り、陣全体が緊張する。今は、斬ることではなく、“揺らす”ことが任だった。だからこそ、静の剣は、必要な者だけを選び取るように斬っていく。
その刃は、何かを奪うのではなく、何かを“定める”ような、選別の動きだった。
焚火の数を、静は正確に把握していた。移動する間に、裏道からも陣の中心を観察していたからだ。
次に斬るべきは、中心から半町離れたところにある、将の宿営地。
そこにいるのは、おそらく副将格。義元の側近ではないが、それでも名を持つ人物。
――あれを、落とす。
深く吸い込んだ息を、静かに吐きながら、彼は地面を蹴った。
白装束が、闇の中を斜めに舞った。
その先に待つのは、光――あるいは、血の匂い。
宿営地の中央に据えられた帳の中は、思いのほか静かだった。
副将・山岡左京之介は、火に炙った酒を片手に、口を結んでいた。声を発さずとも、外の様子は耳に届く。警戒のためか、あるいは諦めにも似た習慣か、彼はよく眠らぬ将だった。今夜もそうだ。幕の外で何かが起きていることに、彼はすでに気づいていた。
「妙だな」
盃を置き、佩刀へと手を伸ばす。その動作は鈍くはなかった。老将というにはまだ若く、だが若将というには経験が滲んでいる――そんな男だ。
――その幕が開いたのは、そのときだった。
音もなく布が捲られ、風のような影が一閃を描く。
「……!」
山岡は反射で身を伏せた。斬撃はその頬をかすめ、頬の皮膚が細く裂けて赤を滲ませる。
「白……装束?」
言葉と同時、静はすでに二撃目を放っていた。刀の軌道は正確無比。まるで将の動きを読み取っていたかのように、その剣は首ではなく、手首を狙っていた。
佩刀を抜こうとするその瞬間を。
「ぐ、う……!」
山岡の手の甲が裂け、佩刀が床に転がる。
咄嗟に背を丸め、蹴り上げた盃で間を取り返そうとした山岡の抵抗は、しかし刹那に終わった。
静はその盃すら斬った。粉々に砕けた陶器の破片が飛び散る前に、第三の斬撃が将の胸板を貫く。
肉の奥で骨に触れる感触が、白鞘越しに伝わってくる。
山岡の目が見開かれ、声にならない息が喉奥で跳ねた。
――ひと太刀。では足りぬ。
もう一度、深く斬り込む。
今度は、心臓を確実に――
刃を抜き、倒れる体をそっと受け止めるように地面へ伏せる。音を立ててはいけない。ここはまだ、戦場の中心ではない。
刀に返り血が伝い、鞘の縁からぽたりと雫が落ちる。静はその血を拭おうとはせず、転がった佩刀へと視線を向けた。
金装飾の施された美しい大太刀。見覚えのある紋が彫られていた。
――これは、義元の副将の証。
それを手に取った静の瞳に、一瞬だけ熱が戻る。
それは戦果としてではなく、証明として必要なものだった。誰の手によってこの将が斃されたのか。その一点だけが、織田軍の勝敗に意味を加える。
これで“戦況は変えられる”。静はそう思った。
だがそのとき。
背後から、微かな足音がした。
「……っ」
身を翻す。
そこには四人の衛兵が立っていた。
静は四人を音もなく葬る。真紅をほとばしらせながら舞う背後にもう一つの影があった。
影を視界の端にとらえた瞬間、右肩に焼けるような痛みが走る。
矢だ。
不意の狙撃に、反射で回避しきれず、肩口を貫かれたのだ。
視界が一瞬滲んだ。
痛みではない。静は、己の“速さ”に鈍りが生まれていることに気づいた。
――限界か。
足音が近づいてくる。複数。
斬るには多すぎる。走って逃げるには、血が流れすぎる。
ではどうする?
――這ってでも、戻る。
静は佩刀を懐に収め、肩に刺さった矢を引き抜いた。血がどっと流れ出る。
膝を地につけながら、崖沿いの細道を辿る。
脚に力が入らない。
白装束は、もう白ではなかった。
だが、それでも進む。
“帰らなければならない”
――まだ、約束を、していない。
遠くで太一が言った。「前に出るなら、俺は後ろにいる」
蓮が言った。「お前を止める」
彼らの声が、鼓膜ではなく胸の奥で鳴っている。
静は牙を食いしばった。
斬って、斬って、奪ってきた。なのにまだ“戻る”という意志が残っていた。それを“情”と呼ぶのか、“弱さ”と呼ぶのかは、分からない。
だが、風はまだ吹いていた。
その風に、背中を押されるように、静は夜の山道を、血を引きずって進んだ。
※
夜が明けきらぬ山道を、ただ一人、白装束の剣士が這うようにして歩いていた。
肩に矢傷、脇腹に深い裂傷、右膝は砕けたように曲がらぬ。先日岡部と対峙した際に受けた傷も治りきってはいない。にもかかわらず、彼は地面を睨むようにしながら、後退もせず、立ち止まりもせず、前へ前へと進んでいた。
――まだ、歩ける。
心がそう言っている限り、体は否応なく従った。
呼吸が熱を持っている。口の中に、鉄の味が張りついている。心拍は乱れているのに、耳の奥は静かだった。
風が止まっていた。
雨が上がり、空が濡れた灰色に変わるなか、静の姿は、周囲の木々と溶け合うように淡く、幽かだった。
「……もうすぐだ」
そう呟いた声は、もはや自分に聞かせるためのものだった。
合流地点までは、あと半里(約二キロ)。
そこには、蓮と太一がいる。
いや、そう信じるしかなかった。
幾度も振り返りそうになる己を叱るように、静は目を伏せた。
彼らを想うことは、いま、この身にとって何よりも危うい。意識が外へ向かえば、その瞬間に崩れる。いまは“ここ”を生きることに集中しなければ。
だが、記憶というのは残酷で、否応なく過去を脳裏に甦らせる。
――太一の、笑った顔。
――蓮の、穏やかな声。
――ふたりと剣を磨き、共に背を預けた夜。
静かに唇が震える。
なぜか分からない。痛みではない。恐怖でもない。
ただ、心が騒いでいた。
これまで、“斬ること”に意味を求めたことはなかった。
誰のためでも、誰に命じられてでもなく。
ただ、そこにある剣として。
だが――
「……違う」
言葉が漏れた。
胸の奥で何かが軋む音がした。剣として動くために必要だった“静けさ”に、乱れが生まれていた。
かすかに、誰かの名を呼びそうになった。
だがそのとき。
林の向こう、湿った土の先に、ぼんやりと火が見えた。
合流地点。
敵から見れば、ただの焚火。
だが、あれは、蓮と太一が灯していた目印のはずだった。
「……帰れる、のか」
そう言いかけて、静は膝をついた。
限界だった。
意識が遠ざかる。視界が波打つ。耳鳴りのような風の音が脳を揺らす。
それでも倒れず、四つん這いになって進もうとした、そのとき。
「……静!」
その名を呼ぶ声が、雷のように響いた。
振り返ると、そこには、矢野蓮がいた。
濡れた地面を駆ける蓮の姿が、逆光のように光の中に浮かび上がっていた。
「おい……なんだ、その……姿……!」
矢野の声は震えていた。だがすぐに駆け寄り、静の体を支えようと手を伸ばした。
静はその手を、ゆっくりと払いのけた。
「大丈夫です……矢野さん」
「大丈夫なわけあるか!」
矢野の叫びに、静は微かに笑った。
「戦況は……変えられると思います」
そう言って、懐から佩刀を差し出した。
「敵の副将・山岡の刀です。名があります。これがあれば……」
そこで言葉が途切れた。
太一が、遅れて駆け寄ってくる。顔を真っ赤にしながら、静の腕を抱えた。
「おい、ふざけんな……なにしてんだよ、お前……!」
静は、ようやく力を抜いた。
「……よかった。会えましたね」
そう言って、目を閉じた。
蓮も太一も、その顔を見た瞬間、言葉を失った。
静の顔は、どこか安堵していた。
まるで、「帰るべき場所に帰った」者のように。
※
それは、焚火の音だった。
湿った木がぱちぱちと小さく弾け、炎がくぐもった音をたてていた。雨は上がっていたが、空にはまだ分厚い雲が居座っている。夜の帳が落ちた山間の野営地に、三人の男がいた。
一人は、深い眠りの中にあった。
沖田静――白装束は返り血と泥で染まり、まるで生きた屍のようだったが、その呼吸はかすかに続いていた。
「……熱がある。体が燃えてやがる……無茶しやがって……」
太一が言った。言葉とは裏腹に泣きそうな顔をしていた。
矢野蓮は何も言わなかった。ただ、静の額に触れた手を離さず、火のそばに身を寄せていた。
彼の顔は、何も映していなかった。
怒りでも、安堵でも、哀しみでもない。
ただ、目の前の“今”を理解しようとする意志だけが、そこにあった。
「……さっき言ったこと、覚えてるか?」
火の向こうで、太一がぽつりと呟いた。
「『戦況は、変えられると思います』……だってよ」
蓮は、目を閉じた。
静が差し出した佩刀――今川方の副将の名刀とされるその白鞘を、蓮はまだ握っていた。重かった。
単に鉄の重さではない。
これは、静の命が削れていった重さだった。
「お前なら、分かるか。こいつの本気ってやつが」
太一は笑おうとして、できなかった。
「俺はな……こいつが“自分の命を削って斬る”ってことを、ずっと薄々感じてた。分かってた。……でも、止められなかった」
蓮は、ゆっくりと火に薪をくべた。
火がひとつ、大きく揺れた。
その一瞬、静のまぶたが、微かに動いた。
「矢野さん……」
ほとんど聞き取れないほど小さな声だったが、蓮ははっきりと応えた。
「……ここにいる」
静の唇が、微かに動いた。
けれど、もう言葉にはならなかった。
再び深く眠るように、目を閉じる。
「……なあ、矢野。こいつ、死ぬつもりだったんだよな?」
太一の問いに、蓮はすぐには答えなかった。
火の中で、枝が崩れた。
「……死ぬつもりだったんじゃない」
蓮は言った。
「“死んでも仕方がない”って思ってたんだ。こいつは、ずっと前から」
「……そんなの、同じだろ」
「いや、違う。死にたいんじゃない。“自分の命がどうなってもかまわない”って思ってるだけの人間は、自分を“生きてる”と信じてないんだ」
太一は言葉を失った。
蓮は、佩刀の鞘に指を添えながら、火を見つめた。
「この刀には名がある。だから、静は言ったんだろ。“戦況を変えられる”って。……でも、本当は、自分の名を剣に変えたかっただけなんじゃないか」
「どういう意味だよ、それ」
「“剣としてだけ存在したい”ってことさ。人としての名前は、持ちたくなかったんだよ」
太一は火を見ながら黙っていた。
その沈黙の中で、再び、木がはぜる音が響いた。
風が、野営地を通り抜けていく。
静の白装束が、わずかに揺れた。
「――矢野。縁起でもねぇがよ。もし、……もしもこれから先の戦で、こいつが……戻らなかったら」
太一の声が低く、重かった。
「俺たちの口から、“沖田静”の名を残すべきか。……それとも、消すべきか」
矢野は、火を見つめたまま答えた。
「……それは、まだ答えを出すな」
「なんでだ」
「まだ……こいつが、“生きてる”からだよ」
蓮は、静の眠る姿を見た。
呼吸は浅く、肌は青ざめ、体は限界を超えていた。けれど、その額に浮かんだ一筋の汗が、彼がまだ“命”の側にいることを物語っていた。
火のぬくもりの中で、三人の時間が、ほんのわずかに止まっていた。
この静けさは、きっともう二度と訪れない。
戦の前に、風が止まる。
だからこそ――この夜の静けさは、あまりにも残酷なほど、優しかった。
あれから一昼夜が過ぎ、静は戦場へ戻った。
矢野は何度も静の身体を気遣ったが、静はやんわりとそれを制止して白装束に袖を通した。
雨は上がっていた。空にはまだ雲が居座り、太陽の輪郭を隠していたが、土の匂いはすでに湿気を含んでいた。静は山の尾根から、眼下に広がる今川方の野営を眺めていた。そこには、統率された軍が確かに存在していた。動きは緩やかだが無駄はない。焚火が幾つも点在し、兵たちは飯を食い、武具を整え、交替で睡眠を取っている。
静の目は、焚火のひとつひとつを数えるようにして動いていた。彼に与えられた命は、戦線の動揺ではない。中心を穿て。そう、命じられたのだ。
――斬る場所を、選ばねばならない。
彼の動きは、まるで風が草を撫でるようだった。白装束が揺れ、だがその気配は木々のざわめきに紛れた。目立つ姿のはずなのに、彼はまるで夜に消える影だった。
「……中央、焚火の左手。補給の分配所か」
かすかに呟いた声は、雨に濡れた土に吸われていく。
静は、草を一枚一枚踏み分けながら前に出る。腰の白鞘を抜くことはまだしない。刀は斬るためにあるが、今は“斬らぬために”必要なのだ。風を読め。気配を読むな。己を殺せ。そう自分に言い聞かせる。
――ただの影であれ。
森の奥、湿った落ち葉を踏み分けながら、静は山腹を斜めに切って進んでいた。すでに彼は、今川方の野営地のごく近くまで潜り込んでいる。風は止んでいた。空気が重い。虫の羽音も、夜鳥の囀りもない。ここは、ひとりの剣士の息づかいだけが存在を許された空間だった。
焚火の灯りが、木々の隙間から仄かに差す。ふたつ。いや、三つ。薪を組んだ中央には鍋が吊るされ、温まる湯の匂いとともに兵士たちの声が微かに聞こえてくる。
「そっちの芋、もう煮えたか」
「おう、ちょいと焦げ臭ぇな」
無防備ではない。だが、隙はある。今、この時間帯に警戒が緩むのは当然だ。まもなく交替の時刻。兵たちは仮眠を終えて戻ってくる者と、これから眠る者の入れ替わりに備えている。もっとも油断しがちな時間だ。
静はひと息、細く吐いた。
そこには、迷いも、躊躇もなかった。ただ、必要なことをする者の顔だった。感情は、刃の邪魔をする。思考は、速度を鈍らせる。己の輪郭を曖昧にし、視界と意志を、同じ一点に絞らねばならない。
焚火の脇に立つ男が、大きく口を開けて笑った。何か冗談でも言ったのだろう。周囲の兵がそれに応じて笑う。
――いまだ。
静は、腰から白鞘を引き抜いた。
瞬間、草木がざわめいた。
その音は、剣の“間”だった。
一陣の風が、白装束を揺らす。
つい今しがた笑っていた男が、首を刎ねられたまま倒れるのに、周囲の兵たちは一拍遅れて気づいた。
「っ、何――」
声が漏れた瞬間、二人目の喉が斬れていた。声帯を切られ、息を吸うこともできないまま、仰向けに倒れ込む。
三人目、四人目。動き出した者を先に斬る。手を伸ばしかけた者、立ち上がろうとした者、振り返った者。それぞれの首に、胸に、静の白刃が、呼吸のように走った。
火の粉が跳ね、湯がこぼれた。
叫ぶ声はなかった。出す間もなかった。
その一帯の焚火が、突如として消えたかのようだった。
静の足は止まっていない。駆ける。次の火へ。
焦らない。欲張らない。殺しすぎない。
――殺しすぎれば、“声”が届く。
“声”とは、異変だ。殺気が走り、陣全体が緊張する。今は、斬ることではなく、“揺らす”ことが任だった。だからこそ、静の剣は、必要な者だけを選び取るように斬っていく。
その刃は、何かを奪うのではなく、何かを“定める”ような、選別の動きだった。
焚火の数を、静は正確に把握していた。移動する間に、裏道からも陣の中心を観察していたからだ。
次に斬るべきは、中心から半町離れたところにある、将の宿営地。
そこにいるのは、おそらく副将格。義元の側近ではないが、それでも名を持つ人物。
――あれを、落とす。
深く吸い込んだ息を、静かに吐きながら、彼は地面を蹴った。
白装束が、闇の中を斜めに舞った。
その先に待つのは、光――あるいは、血の匂い。
宿営地の中央に据えられた帳の中は、思いのほか静かだった。
副将・山岡左京之介は、火に炙った酒を片手に、口を結んでいた。声を発さずとも、外の様子は耳に届く。警戒のためか、あるいは諦めにも似た習慣か、彼はよく眠らぬ将だった。今夜もそうだ。幕の外で何かが起きていることに、彼はすでに気づいていた。
「妙だな」
盃を置き、佩刀へと手を伸ばす。その動作は鈍くはなかった。老将というにはまだ若く、だが若将というには経験が滲んでいる――そんな男だ。
――その幕が開いたのは、そのときだった。
音もなく布が捲られ、風のような影が一閃を描く。
「……!」
山岡は反射で身を伏せた。斬撃はその頬をかすめ、頬の皮膚が細く裂けて赤を滲ませる。
「白……装束?」
言葉と同時、静はすでに二撃目を放っていた。刀の軌道は正確無比。まるで将の動きを読み取っていたかのように、その剣は首ではなく、手首を狙っていた。
佩刀を抜こうとするその瞬間を。
「ぐ、う……!」
山岡の手の甲が裂け、佩刀が床に転がる。
咄嗟に背を丸め、蹴り上げた盃で間を取り返そうとした山岡の抵抗は、しかし刹那に終わった。
静はその盃すら斬った。粉々に砕けた陶器の破片が飛び散る前に、第三の斬撃が将の胸板を貫く。
肉の奥で骨に触れる感触が、白鞘越しに伝わってくる。
山岡の目が見開かれ、声にならない息が喉奥で跳ねた。
――ひと太刀。では足りぬ。
もう一度、深く斬り込む。
今度は、心臓を確実に――
刃を抜き、倒れる体をそっと受け止めるように地面へ伏せる。音を立ててはいけない。ここはまだ、戦場の中心ではない。
刀に返り血が伝い、鞘の縁からぽたりと雫が落ちる。静はその血を拭おうとはせず、転がった佩刀へと視線を向けた。
金装飾の施された美しい大太刀。見覚えのある紋が彫られていた。
――これは、義元の副将の証。
それを手に取った静の瞳に、一瞬だけ熱が戻る。
それは戦果としてではなく、証明として必要なものだった。誰の手によってこの将が斃されたのか。その一点だけが、織田軍の勝敗に意味を加える。
これで“戦況は変えられる”。静はそう思った。
だがそのとき。
背後から、微かな足音がした。
「……っ」
身を翻す。
そこには四人の衛兵が立っていた。
静は四人を音もなく葬る。真紅をほとばしらせながら舞う背後にもう一つの影があった。
影を視界の端にとらえた瞬間、右肩に焼けるような痛みが走る。
矢だ。
不意の狙撃に、反射で回避しきれず、肩口を貫かれたのだ。
視界が一瞬滲んだ。
痛みではない。静は、己の“速さ”に鈍りが生まれていることに気づいた。
――限界か。
足音が近づいてくる。複数。
斬るには多すぎる。走って逃げるには、血が流れすぎる。
ではどうする?
――這ってでも、戻る。
静は佩刀を懐に収め、肩に刺さった矢を引き抜いた。血がどっと流れ出る。
膝を地につけながら、崖沿いの細道を辿る。
脚に力が入らない。
白装束は、もう白ではなかった。
だが、それでも進む。
“帰らなければならない”
――まだ、約束を、していない。
遠くで太一が言った。「前に出るなら、俺は後ろにいる」
蓮が言った。「お前を止める」
彼らの声が、鼓膜ではなく胸の奥で鳴っている。
静は牙を食いしばった。
斬って、斬って、奪ってきた。なのにまだ“戻る”という意志が残っていた。それを“情”と呼ぶのか、“弱さ”と呼ぶのかは、分からない。
だが、風はまだ吹いていた。
その風に、背中を押されるように、静は夜の山道を、血を引きずって進んだ。
※
夜が明けきらぬ山道を、ただ一人、白装束の剣士が這うようにして歩いていた。
肩に矢傷、脇腹に深い裂傷、右膝は砕けたように曲がらぬ。先日岡部と対峙した際に受けた傷も治りきってはいない。にもかかわらず、彼は地面を睨むようにしながら、後退もせず、立ち止まりもせず、前へ前へと進んでいた。
――まだ、歩ける。
心がそう言っている限り、体は否応なく従った。
呼吸が熱を持っている。口の中に、鉄の味が張りついている。心拍は乱れているのに、耳の奥は静かだった。
風が止まっていた。
雨が上がり、空が濡れた灰色に変わるなか、静の姿は、周囲の木々と溶け合うように淡く、幽かだった。
「……もうすぐだ」
そう呟いた声は、もはや自分に聞かせるためのものだった。
合流地点までは、あと半里(約二キロ)。
そこには、蓮と太一がいる。
いや、そう信じるしかなかった。
幾度も振り返りそうになる己を叱るように、静は目を伏せた。
彼らを想うことは、いま、この身にとって何よりも危うい。意識が外へ向かえば、その瞬間に崩れる。いまは“ここ”を生きることに集中しなければ。
だが、記憶というのは残酷で、否応なく過去を脳裏に甦らせる。
――太一の、笑った顔。
――蓮の、穏やかな声。
――ふたりと剣を磨き、共に背を預けた夜。
静かに唇が震える。
なぜか分からない。痛みではない。恐怖でもない。
ただ、心が騒いでいた。
これまで、“斬ること”に意味を求めたことはなかった。
誰のためでも、誰に命じられてでもなく。
ただ、そこにある剣として。
だが――
「……違う」
言葉が漏れた。
胸の奥で何かが軋む音がした。剣として動くために必要だった“静けさ”に、乱れが生まれていた。
かすかに、誰かの名を呼びそうになった。
だがそのとき。
林の向こう、湿った土の先に、ぼんやりと火が見えた。
合流地点。
敵から見れば、ただの焚火。
だが、あれは、蓮と太一が灯していた目印のはずだった。
「……帰れる、のか」
そう言いかけて、静は膝をついた。
限界だった。
意識が遠ざかる。視界が波打つ。耳鳴りのような風の音が脳を揺らす。
それでも倒れず、四つん這いになって進もうとした、そのとき。
「……静!」
その名を呼ぶ声が、雷のように響いた。
振り返ると、そこには、矢野蓮がいた。
濡れた地面を駆ける蓮の姿が、逆光のように光の中に浮かび上がっていた。
「おい……なんだ、その……姿……!」
矢野の声は震えていた。だがすぐに駆け寄り、静の体を支えようと手を伸ばした。
静はその手を、ゆっくりと払いのけた。
「大丈夫です……矢野さん」
「大丈夫なわけあるか!」
矢野の叫びに、静は微かに笑った。
「戦況は……変えられると思います」
そう言って、懐から佩刀を差し出した。
「敵の副将・山岡の刀です。名があります。これがあれば……」
そこで言葉が途切れた。
太一が、遅れて駆け寄ってくる。顔を真っ赤にしながら、静の腕を抱えた。
「おい、ふざけんな……なにしてんだよ、お前……!」
静は、ようやく力を抜いた。
「……よかった。会えましたね」
そう言って、目を閉じた。
蓮も太一も、その顔を見た瞬間、言葉を失った。
静の顔は、どこか安堵していた。
まるで、「帰るべき場所に帰った」者のように。
※
それは、焚火の音だった。
湿った木がぱちぱちと小さく弾け、炎がくぐもった音をたてていた。雨は上がっていたが、空にはまだ分厚い雲が居座っている。夜の帳が落ちた山間の野営地に、三人の男がいた。
一人は、深い眠りの中にあった。
沖田静――白装束は返り血と泥で染まり、まるで生きた屍のようだったが、その呼吸はかすかに続いていた。
「……熱がある。体が燃えてやがる……無茶しやがって……」
太一が言った。言葉とは裏腹に泣きそうな顔をしていた。
矢野蓮は何も言わなかった。ただ、静の額に触れた手を離さず、火のそばに身を寄せていた。
彼の顔は、何も映していなかった。
怒りでも、安堵でも、哀しみでもない。
ただ、目の前の“今”を理解しようとする意志だけが、そこにあった。
「……さっき言ったこと、覚えてるか?」
火の向こうで、太一がぽつりと呟いた。
「『戦況は、変えられると思います』……だってよ」
蓮は、目を閉じた。
静が差し出した佩刀――今川方の副将の名刀とされるその白鞘を、蓮はまだ握っていた。重かった。
単に鉄の重さではない。
これは、静の命が削れていった重さだった。
「お前なら、分かるか。こいつの本気ってやつが」
太一は笑おうとして、できなかった。
「俺はな……こいつが“自分の命を削って斬る”ってことを、ずっと薄々感じてた。分かってた。……でも、止められなかった」
蓮は、ゆっくりと火に薪をくべた。
火がひとつ、大きく揺れた。
その一瞬、静のまぶたが、微かに動いた。
「矢野さん……」
ほとんど聞き取れないほど小さな声だったが、蓮ははっきりと応えた。
「……ここにいる」
静の唇が、微かに動いた。
けれど、もう言葉にはならなかった。
再び深く眠るように、目を閉じる。
「……なあ、矢野。こいつ、死ぬつもりだったんだよな?」
太一の問いに、蓮はすぐには答えなかった。
火の中で、枝が崩れた。
「……死ぬつもりだったんじゃない」
蓮は言った。
「“死んでも仕方がない”って思ってたんだ。こいつは、ずっと前から」
「……そんなの、同じだろ」
「いや、違う。死にたいんじゃない。“自分の命がどうなってもかまわない”って思ってるだけの人間は、自分を“生きてる”と信じてないんだ」
太一は言葉を失った。
蓮は、佩刀の鞘に指を添えながら、火を見つめた。
「この刀には名がある。だから、静は言ったんだろ。“戦況を変えられる”って。……でも、本当は、自分の名を剣に変えたかっただけなんじゃないか」
「どういう意味だよ、それ」
「“剣としてだけ存在したい”ってことさ。人としての名前は、持ちたくなかったんだよ」
太一は火を見ながら黙っていた。
その沈黙の中で、再び、木がはぜる音が響いた。
風が、野営地を通り抜けていく。
静の白装束が、わずかに揺れた。
「――矢野。縁起でもねぇがよ。もし、……もしもこれから先の戦で、こいつが……戻らなかったら」
太一の声が低く、重かった。
「俺たちの口から、“沖田静”の名を残すべきか。……それとも、消すべきか」
矢野は、火を見つめたまま答えた。
「……それは、まだ答えを出すな」
「なんでだ」
「まだ……こいつが、“生きてる”からだよ」
蓮は、静の眠る姿を見た。
呼吸は浅く、肌は青ざめ、体は限界を超えていた。けれど、その額に浮かんだ一筋の汗が、彼がまだ“命”の側にいることを物語っていた。
火のぬくもりの中で、三人の時間が、ほんのわずかに止まっていた。
この静けさは、きっともう二度と訪れない。
戦の前に、風が止まる。
だからこそ――この夜の静けさは、あまりにも残酷なほど、優しかった。



